第34話 老人のポテンシャル
賢者の城は、再び、ただの六畳間の檻に戻っていた。
田中修一は、あの日、農園から逃げ帰って以来、ずっと自室に閉じこもっていた。ベランダの植物たちの世話も、どこか上の空だ。彼の心は、岩田茂という男に植え付けられた、恐怖と自己嫌悪の毒に深く侵されていた。
もう無理だ。やめよう。
アドバイザーを辞退する、という言葉だけが、彼の頭の中をぐるぐると回っていた。
そんな、日曜日の昼下がりだった。
玄関のチャイムが、悲鳴のように、けたたましく鳴らされた。一度ならず、二度、三度と。それは、もはや来訪を告げる音ではなく、叩きつけられる挑戦状のようだった。
修一が、恐怖に震えながらドアを開けると、そこには息を切らせた佐々木凛が立っていた。その目は少しだけ赤く腫れている。
「田中さんっ!」
彼女は修一が何か言う前に、堰を切ったように話し始めた。
「きのう、田中さんがお休みされた後、また、あの人が……岩田さんが現れて……!」
凛は、昨日、農園で起きた一部始終を、途切れ途切れに、しかし必死に、修一に伝えた。参加者たちの間に生まれた不信感。崩壊しかけている、プロジェクトの空気。
「このままでは、みんな、バラバラになってしまいます……! お願いです、田中さん! 戻ってきてください!」
その声は涙で濡れていた。
凛の必死の懇願に、修一の心は激しく揺さぶられた。
怖い。岩田茂という男が、心の底から怖い。もう、あの侮蔑に満ちた目に晒されたくない。
だが、同時に、目の前で泣きそうな顔をしている、この若い女性を見捨てることもできなかった。彼女だけではない。渡辺さん夫妻や、佐藤さん親子の顔が脳裏に浮かんで、消えた。
「……分かり、ました」
修一は、かろうじて、それだけを答えた。
「農園には、まだ、行けません。でも……」
彼は震える声で続けた。
「少しだけ、外から、様子を見させてください」
それは、恐怖と責任の間で引き裂かれた彼が、なんとかひねり出した、精一杯の妥協案だった。
二人は、農園が見渡せる、少し離れた川沿いの土手の上に立っていた。ここからなら、岩田茂本人と、直接顔を合わせることはない。
農園では数人の参加者が、力なく作業をしているのが見えた。以前のような活気はどこにもない。
「……あ」
凛が小さな声を上げた。彼女が指差す先、農園の隣にある小さな一軒家。その庭先で、一人の老人が黙々と土いじりをしていた。
岩田茂だ。
彼は自宅の小さな家庭菜園で、まるで我が子を慈しむかのように、丁寧に、野菜の世話をしていた。その手つきには、一切の無駄がなく、長年、土と共に生きてきた者だけが持つ風格が漂っていた。
修一は、その姿を遠巻きに、じっと見つめた。
そして、心の奥でくすぶっていた、かすかな好奇心が、恐怖を上回った。
(この人は、一体、何なんだ……)
彼は目を閉じると、岩田茂という男に向けて、自らの能力―――『ポテンシャルを見抜く力』を集中させた。
途端に、彼の頭の中に、これまでで最も複雑で、矛盾した情報が流れ込んできた。
【対象:岩田 茂】
【状態:憤り、焦燥、そして、深い孤独】
やはり、怒っている。だが、その根源にあるのは、ただの悪意ではなかった。
【根源的ポテンシャル:誰よりも土を愛し、優れた作物を育てる心】
修一は息を飲んだ。この男の最も深い場所にある本質は、自分たちと同じ、いや、それ以上に純粋な植物への愛情だったのだ。
そして、彼の脳裏に、岩田茂の過去の記憶が、断片的な映像として、流れ込んできた。
―――かつて、この地域で一番の腕利きと謳われた、農家の姿。
―――だが、後継ぎはおらず、老いには勝てず、丹精込めて育て上げてきた畑を、断腸の思いで市に売却した、悔し涙。
―――そして、その、かつて自分の王国だった土地が、今、自分たちのコミュニティ農園の予定地として、素人たちの手で掘り返されている、という事実。
「……そう、だったのか」
修一の口から、声が漏れた。
岩田茂は、ただの意地悪な老人ではなかった。
彼は自分のすべてだった王国を失い、その跡地で無邪気に遊ぶ子供たちを、城壁の外から、ただ、眺めることしかできない、孤独な王様だったのだ。
彼の吐き出す言葉が、あれほどまでに棘を持っていた理由。その、あまりにも人間的で、あまりにも悲しい本質に、修一は、ようやく触れた気がした。
「田中さん……? どうかしましたか?」
隣で凛が、心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
修一は、すぐには答えられなかった。
彼はただ、畑を愛しすぎたあまりに、心をこじらせてしまった、あの孤独な老人の背中を、複雑な思いで見つめ続けていた。
倒すべき敵だと思っていた相手の、あまりにも切ない素顔を知ってしまった今、このクエストを、どう攻略すればいいのか。
賢者の頭脳は、初めて、答えのない問いに直面していた。




