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賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


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第32話 過去の亡霊

 岩田茂が去った後、農園には気まずさと、やり場のない怒りが渦巻いていた。

「なんなんだ、あの爺さん!」

「自分だって、何もしないくせに!」

 参加者たちは口々に悪態をつき、憤りを露わにしている。凛も、悔しさに唇を噛み締めながら、皆をなだめようと懸命に声を張り上げていた。

「皆さん、気にしないでください! 私達の活動は、何も間違っていませんから!」


 だが、その輪の中で、田中修一だけが、まるで別の世界にいるかのように、ただ立ち尽くしていた。

 仲間たちの声が遠い。凛の必死な顔が、ピントの合わない写真のように、ぼやけて見える。彼の耳には、ただ一つ、岩田茂が残していった「素人が土いじりごっこか」という、侮蔑に満ちた言葉だけが、木霊のように鳴り響いていた。


(……ああ、まただ)

 また、この感じだ。

 手も、足も、自分の意志とは無関係に、まるで鉛のように重くなる。喉の奥に、見えない何かが詰まって、声が出ない。頭が真っ白になって、思考が停止する。

 彼は、この忌まわしい感覚を、よく知っていた。


「……すみません、佐々木さん」

 修一は、かろうじて、それだけを絞り出した。

「ちょっと……気分が悪いので、今日は先に帰ります」

 凛が、心配そうな顔で何かを言いかけたが、彼はもう、それに応える余裕もなかった。彼は仲間たちに背を向けると、逃げるように、その場を後にした。


 賢者の城であるはずの六畳間。

 だが、そこに逃げ帰った彼を待っていたのは、安らぎではなかった。扉を閉めた途端、部屋の薄暗がりが、まるで檻のように彼を閉じ込める。

 彼はベッドに倒れ込むと、目を閉じた。

 途端に過去の亡霊たちが、彼の意識の中へと次々と蘇ってきた。


 ―――あれは、五年ほど前、派遣で入った物流倉庫でのことだった。

 修一は、新人のアルバイトに、少しでも効率が良くなるようにと、荷物の積み方の工夫を教えていた。感謝され、職場の雰囲気も少しだけ良くなった、その矢先だった。

 現場のリーダーだった正社員が、腕を組んで彼の前に仁王立ちになった。

「おい、田中」

 その声は岩田茂の声と、寸分違わず重なって聞こえた。

「お前、派遣の分際で、余計なことしてんじゃねえよ」

「いえ、これは、効率を考えれば……」

「口答えすんのか? ああ? お前は頭使わなくていいんだよ。言われたことだけ、黙ってやってりゃいいんだ。分かったか!」

 リーダーは、修一の胸を指で何度も突きながら、そう怒鳴りつけた。周囲の人間は、見て見ぬふりをしている。あの時も、修一は、何も言い返せなかった。ただ、すみません、と頭を下げることしかできなかった。


 ―――七年前の、小さな事務所ではどうだった。

 良かれと思って、業務改善の提案書を提出した。その日の夕方、課長に呼び出された。

「田中君さあ。君は真面目なのはいいんだけど、ちょっと、自分の立場をわきまえた方がいいんじゃないかな」

 課長は笑っていた。だが、その目は、一切笑っていなかった。

「君みたいな、いついなくなるか分からない人間に、うちの会社のやり方を変えられたら、迷惑なんだよねえ」

 そう言って、彼の作った提案書を、目の前で、ゆっくりと破り捨てた。


 そうだ。いつだって、そうだった。

 少しでも、うまくいくと。少しでも、認められると。必ず、誰かが現れて、それを叩き潰すのだ。

 お前はダメな人間だ、と。お前には価値がない、と。その事実を思い知らせるために。


 修一は、暗い部屋の中で体を丸めた。

(やっぱり、俺はダメなんだ……)

 アパートの花壇がうまくいって。農園の仲間たちに「先生」なんて呼ばれて。少し調子に乗っていただけなんだ。

 賢者? 『土の声を聞く男』?

 馬鹿馬鹿しい。そんなもの、全部まやかしだ。

 俺は、ただの、何もできない、何の価値もない、臆病な中年男じゃないか。

 岩田茂の、あの目が言っていた。お前は、そういう人間だと。


 机の上に置かれた『攻略マニュアル』が、まるで、自分の愚かさと傲慢さの記録のように見えた。

 彼は、それに触れることさえできず、ただ、過去の亡霊たちが渦巻く、暗い心の檻の中で、ひたすらに身を縮こませていた。

 ようやく手に入れたはずの、ささやかな自信と誇りは、たった一人の老人の、たった数分の悪意によって、いとも容易く、粉々に砕け散ってしまった。

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