第31話 岩田茂という男
ある穏やかな土曜日のことだった。
コミュニティ農園では、いつものように、活気に満ちた声が響いていた。開墾作業は最終段階に入り、参加者たちは、修一が作った『攻略マニュアル』に従って、畝に牛糞堆肥や腐葉土を混ぜ込む作業に精を出していた。
「先生、堆肥はこれくらいでいいかね?」
「はい、渡辺さん。その区画は、もう少しだけ多めにお願いします」
修一は仲間たちからの質問に、一つ一つ丁寧に答えていく。数週間前まで、他人と話すことさえ恐怖だった男は、今や、この小さな共同体の誰もが認める司令塔となっていた。
先日、彼の心に差した憂鬱の影―――あの老人の姿は、あれ以来、見かけていない。きっと、ただの気難しい老人だったのだろう。修一は、そう自分に言い聞かせ、目の前の作業に集中しようとしていた。
その時だった。
農園の隅で、楽しそうにおしゃべりをしながら作業をしていた主婦たちの声が、ぴたりと止んだ。つられるように、他の参加者たちの手も止まる。畑を包んでいた温かい空気が急速に冷えていくのを、修一は肌で感じた。
彼が怪訝に思って顔を上げると、その原因がすぐに分かった。
農園の入り口に、一人の老人が仁王立ちになっていた。
先日、柿の木の下から、こちらを睨みつけていた、あの老人だ。
老人は誰に声をかけるでもなく、ゆっくりと畑に近づいてくる。その一歩一歩が、まるで、自分たちの楽園を侵略してくる、異物の足音のように聞こえた。
彼は参加者たちが懸命に立てた、美しい畝を、値踏みするように見下ろすと、鼻で、フン、と笑った。
「お遊びかい」
その、吐き捨てるような、侮蔑のこもった一言に、その場の空気が凍りついた。
「市役所の道楽に付き合って、素人が土いじりごっこか。楽しそうで結構なこった」
老人は続ける。その言葉は彼らがこの数週間で築き上げてきた、ささやかな誇りを、無慈悲に踏みにじるものだった。
「そんなもんで、まともな野菜が育つと思ってんなら、おめでたい頭だな。どうせ、冬の寒さが来る前に、全員、逃げ出すに決まっとる」
「―――なんだと、爺さん!」
最初に声を上げたのは渡辺さんだった。彼の顔は怒りで真っ赤になっている。
「人が、汗水流して、ようやくここまでにしたってえのに! 何も知らねえ奴が、偉そうな口をきくんじゃねえ!」
「失礼ですが、どちら様でしょうか!」
凛も、震える声を抑えながら、毅然とした態度で老人の前に進み出た。
「私達は市の許可を得て、正式に活動しているのですが……」
参加者たちが、次々と老人を取り囲み、抗議の声を上げる。
だが、その輪の中で、修一だけは金縛りにあったように、一歩も動けずにいた。
(……ああ、だめだ)
頭が真っ白になる。
老人の、その見下しきった目、嘲るような声色。それは、彼が、これまで何度も、派遣先の職場で、心無い上司たちから浴びせられてきたものと、全く同じだった。
彼の脳裏に、古傷のように忌まわしい記憶が蘇る。「だからお前はダメなんだ」「言われたことだけやってろ」。その声が、老人の声と重なって、彼の全身を縛り付けていた。
何か言わなければ。アドバイザーとして、仲間たちを守らなければ。
そう思うのに、喉が、からからに乾いて声が出ない。足が地面に縫い付けられたように動かない。
老人は、反論する凛や渡辺さんを、せせら笑うように一瞥すると、最後に、何も言えずに立ち尽くしている修一に、蔑むような視線を向けた。
そして、吐き捨てるように言った。
「わしか? わしは岩田茂だ」
彼は自分の名前を、まるで挑戦状のように、その場に叩きつけた。
「この土地が、まだ本物の畑だった頃を知ってる、ただの年寄りだよ」
それだけ言うと、岩田茂は彼らに背を向け、悠然と去っていった。
嵐が過ぎ去った後のように、畑には重苦しい沈黙だけが残された。
参加者たちは、怒りやら、戸惑いやら、様々な感情の入り混じった顔で、互いを見合っている。
修一は、ただ、岩田茂が去っていった道を呆然と見つめていた。
嫉妬の目には、名前があった。岩田茂、という名前が。
それは、彼の築き上げた、ささやかな自信と平穏を、いとも容易く打ち砕くのに、十分すぎるほどの威力を持っていた。
賢者の城の、最初の防衛戦。
それは、賢者が、何もできずに立ち尽くすうちに、惨めな敗北に終わっていた。




