第30話 芽生える信頼
十月に入り、秋らしい澄んだ空気が畑を包んでいた。
田中修一がアドバイザーとして参加してから、まだ一ヶ月も経っていない。しかし、あの「絶望の大地」は、その姿を劇的に変えていた。
うず高く積まれていた不法投棄のゴミは、凛が手配した市のトラックによって、すべて撤去された。人の背丈ほどあった雑草は姿を消し、頑固な石ころや木の根も、参加者たちの地道な努力によって、丁寧に取り除かれた。
そして今、そこには、どこまでも続く黒々とした、柔らかい土が広がっていた。畝がきれいに立てられ、命の種が蒔かれるのを、今か今かと待っている。それは、もはや荒れ地ではない。誰もが希望を託すことができる、約束の畑だった。
「すごい……。本当に、すごい……」
佐々木凛は、その光景を眺めながら、何度目か分からない感嘆の声を漏らした。
彼女の想像を、計画は遥かに超えるスピードで進んでいた。予定した作業日には、噂を聞きつけた新しい参加者が毎回のように現れ、今では十数人のボランティアが、楽しそうに土にまみれている。渡辺さん夫妻は、すっかり現場監督のように、新人に指示を出すまでになっていた。
その、活気に満ちた輪の中心にいるわけではない。少し離れた場所で、静かに全体を見守っている男。―――田中修一。
凛の視線は、自然と、その背中に吸い寄せられた。
最初にアパートで会った時の、あの怯えたような頼りない姿は、もうどこにもなかった。
彼は決して大きな声で指示を出すわけではない。参加者から質問されると、相変わらず少しどもりながら、訥々と答える。だが、その言葉には、絶対的な重みと説得力があった。彼が「この土には、もう少し腐葉土を」と言えば、誰もがそれに従う。彼が「その畝は、もう少し高く」と言えば、誰もが鍬を手に取る。
彼はカリスマで人を率いるリーダーではない。圧倒的な知識と、先を見通す慧眼で、人々をあるべき場所へと導く、賢者そのものだった。
凛は、初めて彼に会った時の自分の傲慢さを、少し恥ずかしく思った。企画書を抱えた自分の方が、この計画のすべてを分かっているつもりでいたのだ。
けれど、違った。自分は何も知らない子供と同じだった。本当にこの道の行く先を知っているのは、あの人だけ。
彼こそが本物のプロで、自分は、ただ情熱だけを空回りさせていた未熟な素人に過ぎなかった。凛は、その事実を、温かい誇らしさと共に受け入れていた。
賢者の城は六畳間。
あの薄暗い部屋は、彼が世を捨てて引きこもっていた場所などではない。彼が、その類まれなる知性を、一人、静かに磨き上げていた研究室であり、作戦司令室だったのだ。
「―――田中さん」
凛は、自分のバインダーを手に、修一の元へ駆け寄った。
「そろそろ、市役所に、第一期の作付け計画書を提出しないといけないんです。それと、苗や種の予算申請も……」
彼女がそう言うと、修一は、待ってましたとばかりに、自分の『攻略マニュアル』を開いた。
「ああ、その件なら」
そのページには、凛が今まさに頭を悩ませていた計画が、すでに完璧な形で記されていた。
「第一期作は、初心者でも育てやすく、冬の寒さに強い作物がいいでしょう。ホウレンソウ、コマツナ、ダイコン。この三種類を、A-2、B-4、C-3の各区画に。土壌の相性を考えて、来年は、ここに別の作物を植えます」
「ら、来年のことまで!?」
「ええ。連作障害は、最初に考えておかないと」
修一は、こともなげに言う。凛は、彼の用意周到さに、もはや驚きを通り越して、感動さえ覚えていた。
この人となら、きっとできる。このプロジェクトは絶対に成功する。
彼女の胸に、確かな確信が、力強く芽生えていた。
「ありがとうございます、田中さん! これなら、すぐに課長を説得できます!」
凛は、満面の笑みで深々と頭を下げた。修一は、照れくさそうに「いえ、俺は、ただ……」と、頭を掻いている。
その時だった。
ふと、修一の視線が、農園の向こう、一本の柿の木のそばに立つ人影に向けられた。
厳しい顔で腕を組み、こちらの様子をじっと窺っている、一人の老人。
凛の笑顔と、参加者たちの楽しそうな声。活気に満ちた畑。そのすべてを値踏みするように、いや、拒絶するかのような険しい目が、そこにあった。
その目に、修一は、ぞくりと胸騒ぎを覚えた。
(……あの目だ)
これまで、派遣の仕事を転々とする中で、何度も見てきた目だった。プロジェクトがうまくいき始めた時、職場の雰囲気が良くなった時、必ず現れる、嫉妬の目。他人の小さな成功を、自分の手柄でもないくせに、まるで自分のものを奪われたかのように憎む人間の目だ。そういう人間は、決まって陰で足を引っ張ったり、嫌がらせをしたりする。
(まさか、な……)
修一は、胸に広がった冷たい染みを振り払うように、かぶりを振った。ただの、気難しいご近所さんなだけだろう。昔の嫌な奴らと同じはずがない。そうであってくれ、と彼は願った。
だが、彼の心に差した、かすかな憂鬱の影は、なかなか消えてはくれなかった。




