第25話 一歩、城の外へ
「市役所、行ってくる」
そう告げた時の母・春子の驚きと、そして、かすかな喜びに満ちた顔を、田中修一は忘れることができなかった。
アパートの階段を降りる。一歩、また一歩。それは、ただ物理的に階下へ降りているのではなかった。彼が長年引きこもってきた「賢者の城」から、自らの意志で、外の世界へと降りていくための、重要な儀式だった。
バスに乗り、大通りを歩く。彼の足が、最後に川崎市役所の敷地を踏んだのは、いつのことだったか。十年以上前、亡くなった父の、何かの手続きのために訪れて以来かもしれない。そびえ立つ建物の威圧感に、彼の心臓は、またしても小さく縮こまった。
(帰りたい……)
早くも後悔の念が押し寄せてくる。だが、修一は、カバンの中でかすかな重みを持つ企画書に意識を集中し、奥歯を食いしばった。
総合受付で「地域振興課」の場所を尋ね、エレベーターで目的のフロアへと向かう。フロアに足を踏み入れた途端、彼は電話の応対や、キーボードの打鍵音、コピー機の作動音といった、オフィス特有の喧騒に包まれた。彼が、とうの昔に失った世界。
おどおどとしながら、一番近くの職員に声をかける。
「あの……佐々木凛さん、いらっしゃいますか」
「佐々木? ああ、佐々木君なら、今日は一日、外回りですよ。たぶん、例のコミュニティ農園の予定地にでも行ってるんじゃないかな」
そうか、いないのか。
その事実に、修一は、心のどこかで安堵している自分と、落胆している自分を見出した。だが、ここで引き返すわけにはいかない。彼は職員に頭を下げると、今度は、教えられた農園の予定地へと、再び歩き出した。
その場所は彼のアパートから歩いて十五分ほどの、川沿いのエリアにあった。
そして、その光景を目にした時、修一は言葉を失った。
昨日、彼の脳裏にビジョンとして流れ込んできた「子供たちの笑顔」や「人々の交流」など、どこを探しても見当たらない。そこにあったのは、ただただ広大な、打ち捨てられた荒れ地だった。不法投棄されたのであろう、錆びた自転車や、古タイヤが、まるで現代アートのオブジェのように、雑草の中に埋もれている。
そして、その荒れ地の入り口に、古びた公園のベンチがあった。
そこに、佐々木凛は、ぽつんと一人、座っていた。
彼女は膝の上に企画書を広げたまま、まるで魂が抜けてしまったかのように、虚ろな目で、目の前の荒れ地を眺めていた。その小さな背中は、昨日、彼に熱弁をふるった情熱的な姿が嘘のように、ひどく、か弱く見えた。
修一は、足音を立てないように、ゆっくりと彼女に近づいた。
彼が、すぐ隣まで来たところで、凛は、ようやくその気配に気づき、驚いたように顔を上げた。
「た、田中さん!? なんで、ここに……」
修一は、彼女の顔をまともに見ることができなかった。視線を自分のつま先に落としたまま、彼はカバンから例の企画書を取り出した。
「……きのうは、すみませんでした」
やっとのことで、それだけを絞り出す。
「いきなり、怒鳴るようなこと言って……。その……大人げなかったです」
「い、いえ! こちらこそ、突然押しかけてしまって……」
気まずい沈黙が、二人の間に落ちる。秋の涼やかな風だけが、雑草のざわめきを運んできた。
先に口を開いたのは修一だった。
「あの……」
彼は企画書を、凛の前に、そっと差し出した。
「リーダーなんて大それたことは俺にはできません。人前に立ったり、大勢の人をまとめたりなんて、絶対に無理です」
凛の顔に、再び、諦めの色が濃く浮かんだ。
だが、修一は言葉を続けた。
「……でも」
彼は勇気を振り絞って顔を上げた。
「ただのアドバイザーとしてなら……。植物のことについて、助言するだけなら、俺でも……何か、できるかもしれません」
凛は、数回、瞬きをした。
彼女は修一の言っている言葉の意味を、すぐには理解できないようだった。
やがて、その言葉が、彼女の心の中まで染み渡ると、その大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ほんとう、ですか?」
「はい」
「手伝って、くださるんですか?」
「……はい」
次の瞬間、凛の顔が、くしゃりと歪んだかと思うと、太陽のような、満開の笑顔になった。
「ありがとうございますっ! ありがとうございます、田中さん!」
彼女は、何度も、何度も、深々と頭を下げた。
こうして、賢者の城の主と、悩める市役所の新人職員という、奇妙で、どこか不釣り合いなチームが誕生した。
二人は、改めて、目の前の広大な荒れ地に向き直る。その光景は、相変わらず絶望的だ。
だが、修一の心は不思議と落ち着いていた。
彼の目には、もはや、ただの荒れ地には見えていなかった。
(さてと……)
修一は心の中で、静かに呟いた。
(この広大なダンジョン。どこから攻略したものかな)
彼の人生で最も大きく、そして、やりがいのあるクエストが、今、静かに始まろうとしていた。




