第24話 企画書のポテンシャル
母・春子の言葉は、まるで固く錆び付いていた錠前に、一滴の油を差したかのようだった。修一の心の中で、これまで頑として動かなかった何かが、ぎしり、と音を立てて動き始める。
彼は朝食を終えた後も、食卓の椅子に座ったまま、動けずにいた。視線の先には、昨日から彼を苛み続けている元凶―――佐々木凛が残していった、白いファイルが鎮座している。
『にこにこふれあいコミュニティ農園計画』。
昨日まで、それは彼にとって、自らの平穏を脅かす呪いのアイテムであり、恐怖の対象だった。だが、今は少しだけ違って見えていた。
父が、文句を言いながらも向き合った、「町内会の会計報告書」。
その記憶がファイルの姿に重なる。
(見るだけだ。ただ、見るだけ……)
修一は自分にそう言い聞かせた。逃げてばかりでは何も分からない。父だって、そうしたはずだ。
彼は意を決して、そのファイルに手を伸ばした。ひんやりとした、安物のプラスチックの感触。川崎市のロゴマークが、やけに重々しく感じられる。
彼は深呼吸を一つすると、そのファイルに、自らの能力―――『ポテンシャルを見抜く力』を、静かに集中させた。
その瞬間。
修一の世界は、音と光と、温かい感情で満たされた。
それは、これまで見てきた植物たちの、静かで穏やかなポテンシャルとは全く違った。まるで、一本の映画を五感のすべてで浴びせられるような、圧倒的な情報の奔流。
―――まず、聞こえてきたのは、子供たちの甲高い笑い声だった。泥だらけの手で、ひょろりと不格好な人参を引っこ抜き、「見てみて!足が生えてるー!」と、空に向かって掲げている。その笑顔は太陽のように眩しい。
―――次に、見えてきたのは、アパートの住人でもある、腰の曲がったお婆さんたちの姿だった。彼女たちは、農園の脇に置かれたベンチに座り、お茶を飲みながら、生き生きとした表情で語らっている。「今年のジャガイモは出来がいいねえ」「あんたんとこのお孫さん、今度いくつになるんだい」。そこには、かつての彼女たちが纏っていた、所在ない退屈さなど、どこにもなかった。
―――そして、ビジョンは、さらに大きく広がっていく。
夏祭りの日。農園で採れた野菜を使った屋台が並び、法被を着た大人たちがビールを酌み交わし、子供たちが走り回っている。秋の収穫祭。大きな鍋で芋煮が作られ、見知らぬ人同士が、同じ鍋をつつきながら、笑い合っている。
かつては、ただの荒れ地だった場所に、新しいコミュニティが生まれ、育ち、たくさんの笑顔が花のように咲き誇っている。
【対象:にこにこふれあいコミュニティ農園計画書】
【根源的ポテンシャル】
・地域コミュニティ再生の核
・子供たちの笑顔と学びの場
・高齢者の生き甲斐と交流の創出
圧倒的な幸福の光景に、修一は、息を飲む。
これが、この一冊のファイルが秘めている、未来の姿。
彼はファイルの表紙に貼られた、担当者である佐々木凛の証明写真に、吸い寄せられるように視線を移した。そして、彼女の写真に能力を集中させる。
流れ込んできたのは、ただ一つの、純粋で、そして何よりも強い情報だった。
【対象:佐々木 凛】
【根源的ポテンシャル:この街を心から愛する気持ち】
私利私欲ではない。出世のためでもない。ただ、この街が好きで、この街に住む人々に笑顔になってほしい。その、あまりにもまっすぐな想い。
修一は、全身の血が逆流するかのような衝撃に襲われた。
―――俺は、この未来を、この想いを、昨日、踏みにじろうとしたのか。
自分の恐怖心だけを盾に、「無理だ」と突き放した。その一言が、どれほど重い罪だったかを、彼は今、痛いほどに理解していた。
ご先祖様が授けてくれたこの力は、物事の可能性を育むためのものだ。滅びゆく自分に、最後に与えられた、何かを「生かす」ための力だ。
それを、自分の保身のために、「使わない」などという選択肢が、果たしてあるのだろうか。
修一は、ファイルを強く握りしめた。
恐怖が消えたわけではない。今でも、人前に立つことを想像すると足がすくむ。
だが、彼の心の中には、恐怖を上回る別の感情が、確かな熱を持って灯っていた。
父が、文句を言いながらも果たした、ささやかな責任。
凛が、たった一人で背負っている、大きな夢。
そして、この計画が秘めている、輝かしい未来のポテンシャル。
それを裏切ることはできない。
修一は、椅子から、すっくと立ち上がった。その顔に、もう迷いの色はない。
彼は埃をかぶっていた外出用のジャケットを羽織ると、財布と鍵を掴んだ。
リビングへ出ると、驚いた顔をする春子に、彼は、ただ一言だけ告げた。
「市役所、行ってくる」




