第23話 母の一押しと、父の記憶
長い夜が明け、翌朝になっても、田中修一の心に垂れ込めた暗雲は晴れなかった。
彼は昨日の来訪者のことなど最初からなかったかのように、いつもの朝のルーティンをこなそうとした。ベランダに出て、植物たちの様子を見る。だが、その手つきはどこか上の空で、いつもなら聞こえてくるはずの植物たちの静かな声も、昨夜からの心の騒音にかき消されて、うまく聞き取ることができない。
リビングへ行くと、母・春子がすでに朝食の準備を終えて、静かに食卓についていた。食卓には、焼き鮭と、だし巻き卵、そして湯気の立つ味噌汁が並んでいる。いつも通りの穏やかな朝の風景。だが修一には、その沈黙が、まるで嵐の前の静けさのように感じられた。
彼は何も言わずに席につき、箸を取った。味噌汁を一口すする。美味しい。だが、味がよく分からなかった。
しばらく、テレビのニュースの音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
その沈黙を先に破ったのは春子だった。
「……きのうの子」
その言葉に、修一の肩が、ビクリと小さく跳ねた。
「市役所の子だろ? ずいぶん困っているようだったね」
その声は息子を責めるような響きではなかった。ただ、庭の草木を眺めるような、静かで穏やかな声だった。
「……俺には関係ないよ」
修一は、ご飯茶碗に目を落としたまま、ぼそりと呟いた。
「俺にできることなんて何もない」
そう言って、この話を終わらせようとした。だが、春子は、珍しく言葉を続けた。
「……お父さんもね。人付き合いが本当に苦手な人だったよ」
不意に出た、十年前に亡くなった父の話題に、修一は思わず顔を上げた。
彼の記憶の中の父親は、無口で、不器用で、いつも疲れた顔をして会社から帰ってくる、典型的な昭和のサラリーマンだった。正直、父親とまともに会話をした記憶は、ほとんどない。
「あんたが、まだ小学生の頃だったかね」
春子は遠い昔を懐かしむように、目を細めた。
「町内会のお祭りで、会計の役員をくじ引きで押し付けられちゃってね。お父さん、そりゃあ嫌がったよ。『なんで俺が』『面倒なこった』って、毎晩のように、お酒を飲みながら愚痴をこぼしてさ」
その光景は容易に想像できた。
「最初の頃は会合に行くたびに疲れた顔をして帰ってきてね。知らない人たちと話すのが、よっぽど気疲れしたんだろうね。私も、可哀想にな、なんて思ってたんだよ」
春子は、そこで一度言葉を切ると、ふふっ、と小さく笑った。
「でも、不思議なもんでね。お祭りが近づくにつれて、だんだん家に帰ってくるのが遅くなってね。会計の仕事だけじゃなくて、飾り付けを手伝ったり、景品の買い出しに行ったり。文句を言いながらも、なんだかんだ楽しそうだったよ」
「……親父が?」
「そうだよ。お祭りが終わった日なんて、夜中に酔っ払って帰ってきて、『おい、今年の綿あめは俺が探してきた業者だから、いつもより大きいんだぞ!』なんて、自慢げに話してたからね」
春子は湯呑みのお茶を一口すすると、修一の目を、まっすぐに見た。
「不器用な人だったけどね。誰かに頼りにされるのは、まんざらでもないようだったよ。あんたも少し、お父さんに似てるからね」
その言葉は、修一の心の奥深くに、ずしりと重く響いた。
会計の役員を押し付けられ、文句を言いながらも、最後には自分の役割に喜びを見出していた不器用な父の姿。それが、アドバイザーになってくれと頭を下げられ、恐怖だけで逃げ出した、今の自分の姿に重なった。
春子は、それ以上何も言わず、静かに食器を片付け始めた。
一人、食卓に残された修一は、机の上に置かれたままの、あの企画書に目をやった。
昨日まで、呪いのアイテムのように見えていた、その白いファイル。
それが、今の彼には、かつて父が挑んだ「町内会の会計報告書」のように見えていた。
それは恐怖の対象であると同時に、未知の達成感へと繋がる挑戦状のようにも思えた。
彼の頑なだった心の氷が、母の言葉という温かい日差しを受けて、ほんの少しだけ溶け始めた気がした。




