第22話 賢者の籠城
バタン、と乱暴にドアを閉め、修一は鍵をかけた。カチャリという金属音が、外界との断絶を告げる。彼は、そのままドアに背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
「はあっ、はあっ……」
肩で息をする。心臓が肋骨の内側で暴れ馬のように跳ねていた。
なんだ、今のは。あの女性は、一体、何だったんだ。
アドバイザー? コミュニティ農園? 冗談じゃない。俺は、あんな……あんな大勢の知らない人間たちの前に立てるわけがない。失敗する。絶対に、また失敗する。かつての職場で浴びせられた、「使えない奴だ」という罵声が、幻聴のように耳の奥で蘇った。
ここは俺の城だ。誰にも侵されない、安全な六畳間の聖域。
そうだ、城に逃げ帰ってきたんだ。もう大丈夫だ。
修一は自分にそう言い聞かせると、おぼつかない足取りでパソコンデスクに向かい、震える手で電源を入れた。
逃げよう。いつもの世界へ。賢者シュウとして、仲間たちが待つ、あの完璧な世界へ。
ファンが唸りを上げ、モニターに光が灯る。見慣れたログイン画面、軽快な起動音。それは、彼の心を落ち着かせるための、一種の儀式だった。すぐに、オンラインゲームの世界が彼の目の前に広がった。
『シュウさん、おかえりなさい!』
『賢者様、お待ちしておりました!』
ログインと同時に、仲間からのチャットが飛んでくる。ここでは、誰も彼を無能だなどと罵らない。誰もが彼を尊敬し、その的確な指示を待っている。
「ああ、ただいま」
彼はキーボードを叩きながら、無理やり意識をゲームへと集中させた。ちょうど、ギルドで高難易度ダンジョンの攻略会議が始まるところだった。
『敵の第二形態は広範囲のデバフを使ってくる。後衛は聖水と万能薬を多めに準備してくれ』
いつも通り、彼は冷静に指示を飛ばす。だが、その頭の片隅で、先ほどの佐々木凛の、切実な声が何度も再生されていた。
『このままでは私の夢が、ただの紙くずになってしまうんです』
「―――シュウさん? どうかしました?」
仲間の声で、はっと我に返る。いつの間にか彼の思考は完全にフリーズしていた。チャットウィンドウには仲間たちの心配する言葉が並んでいる。
「……いや、すまん。少し、ボーッとしていた」
彼はそう返したが、もはや手遅れだった。一度現実に戻された意識は、もうファンタジーの世界に没入してはくれない。画面の中で繰り広げられる華麗な魔法や剣技が、ひどく空虚な、ただのデータと光の明滅にしか見えなくなっていた。
仲間たちが熱心に語る、ダンジョン攻略のための「連携」や「役割分担」。その言葉の一つ一つが、あの「コミュニティ農園」という言葉に、勝手に脳内で変換されてしまう。
「すまん。今日は落ちる」
仲間たちの引き留める声も耳に入らなかった。彼は、一方的にログアウトすると、パソコンの電源を落とした。
ファンが止まり、訪れた完全な静寂。
その静寂の中で、机の上に置かれた一冊のファイルが、圧倒的な存在感を放っていた。
『にこにこふれあいコミュニティ農園計画』。
彼が、半ばひったくるようにして受け取ってしまった置き土産。
それは、まるで異世界から持ち込まれた呪いのアイテムのように、彼の聖域を静かに蝕んでいた。
修一は、そのファイルから目をそらすように、ベッドに倒れ込んだ。
忘れよう。今日のことは悪い夢だったんだ。俺にはベランダと、アパートの花壇がある。ようやく手に入れた、穏やかで小さな領地が。それで十分じゃないか。
だが、一度知ってしまった。自分の力が、もっと大きな何かを成し遂げられるかもしれないという可能性を。そして、その力を心の底から必要としている人間がいるという事実を。
もう以前の、ただ満ち足りただけの平穏には戻れない。
恐怖と責任。そして、心の奥底で、ちろちろと燃える、無視できない期待の炎。
進むのは地獄。戻るのも、もう楽園ではない。
賢者の城の中で、賢者は、たった一人、出口のない葛藤に包囲されていた。
その長い夜は、まだ始まったばかりだった。




