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賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


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第21話 熱意という名の来訪者

「二階の、田中修一さんのお宅でしょうか!」


 階下から投げかけられた、鈴が鳴るような、しかし芯の通った声。

 その声の主と目が合った瞬間、田中修一の世界から音が消えた。ベランダのプランターで揺れていたコスモスの花も、遠くで聞こえていた子供たちのはしゃぎ声も、すべてが背景へと溶けていく。

 彼の視界に映るのは、ただ一人。自分を見上げ、その瞳に強い光を宿している、見知らぬ若い女性の姿だけだった。

(誰だ……?)

 セールスや勧誘ではない。彼女の服装は、明らかに公的な仕事に就く人間のものだ。まさか、役所の人間か? 俺が何かやらかしたというのか? アパートの管理人になったことで、何か手続き上の不備でもあったのか?

 最悪のシナリオが彼の頭の中を嵐のように駆け巡る。心臓が嫌な音を立てて脈打ち始めた。


 彼が硬直したまま動けずにいると、女性はもう一度、今度は少しだけ声を張り上げて言った。

「すみません! 少しだけ、お話を伺えませんか!」

 その声に、アパートの他の部屋の窓がいくつか開き、住人たちの好奇の視線が自分に集まるのを感じた。もう、逃げることはできない。

 修一は、錆び付いたブリキの人形のように、ぎこちない動きでベランダから室内へ戻ると、重い足取りで玄関へと向かった。


 アパートの階段の下で、改めて女性と向き合う。間近で見ると、彼女がまだ二十代半ばほどの、若さに満ちていることが分かった。だが、その若さとは裏腹に、その目には、追い詰められたような切実さが浮かんでいた。

「突然、申し訳ありません! 私、川崎市役所、地域振興課の佐々木凛と申します!」

 凛と名乗った彼女は深々と頭を下げると、一枚の名刺と、分厚いファイルを取り出した。

「田中さんのことは近所の方々から伺いました! このアパートの花壇を、たった一人で、まるで魔法のように蘇らせたと!」

「……いえ、俺は、そんな……」

「そして、こちらのベランダも拝見しました! 素晴らしいです! まさに、私がずっと探し求めていた方です!」

 凛の言葉は熱を帯びていた。それは、マニュアル通りの営業トークなどではない。心の底から湧き上がる、本物の熱意だった。


 彼女はファイルを修一の目の前に広げた。『にこにこふれあいコミュニティ農園計画』と題された企画書。そこには、子供からお年寄りまで、地域の人々が笑顔で野菜を育てる、理想郷のようなイラストが描かれていた。

「これが、私の担当しているプロジェクトなんです。でも……」

 凛の表情が、一瞬、曇った。

「土地は荒れ放題、参加者も集まらず、何より、植物の育て方を教えられる指導者がいなくて……このままでは私の夢が、ただの紙くずになってしまうんです」

 彼女は祈るように修一の目をまっすぐに見た。

「どうか、田中さんのお力を貸していただけないでしょうか! この農園のアドバイザーになっていただきたいんです!」


 アドバイザー。

 その言葉の重みが、修一の肩にずしりとのしかかった。

 彼の脳裏に、あの広大な、雑草だらけの空き地の光景が浮かぶ。アパートの花壇とは規模が、責任が、何もかもが違いすぎる。不特定多数の知らない人間たち。好奇の視線。失敗した時の嘲笑。

 かつて、派遣先の職場で、能力不足を上司に罵倒された記憶が、古傷のように痛み出した。

 無理だ。俺には、そんな大役、務まるはずがない。

 せっかく手に入れた、この小さな世界の平穏が、目の前のこの女性の熱意によって粉々に砕け散ってしまう。


「……無理です」

 修一の口から、かすれた声が漏れた。

「俺には、そんな……。人前に出るような柄じゃないですし、人に何かを教えられるような、そんな人間じゃ……」

「ですが!」

「無理です!」

 食い下がる凛の言葉を修一は叫ぶように遮っていた。

 彼は凛の顔を見ることができなかった。ただ、その手元にあった企画書だけを、半ばひったくるように受け取ると、一方的に、深く、深く頭を下げた。

「すみません……。本当に無理なんです……。失礼します」

 それだけ言うと、彼は踵を返し、逃げるようにアパートの階段を駆け上がった。背後で、凛が何かを言っている気がしたが、彼の耳にはもう届かなかった。


 201号室のドアに鍵をかけ、ずるずるとその場に座り込む。

 心臓が破裂しそうなほど激しく動いていた。

 賢者の城は六畳間。

 その、ようやく手に入れた安住の地が、外敵の襲撃を受けた。

 彼は、なんとかそれを撃退した。だが、その手の中には敵が残していった、恐ろしい置き土産―――『コミュニティ農園計画』の企画書が、ずしりと重く、握りしめられていた。

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