第20話 来訪者
午後の日差しは、ようやく秋の柔らかさを帯びていた。
田中修一は、自分の城の最上階―――つまり、201号室のベランダで、穏やかな時間を過ごしていた。買ってきたばかりのビオラの苗を、プランターに植え替える作業。春になれば、この花壇は、色とりどりの小さな顔で満たされるだろう。そんな未来を想像するだけで、彼の心は自然と温かくなった。
土をいじる指先は、すっかり板についていた。硬く、節くれだち、爪の間には土が入り込んでいる。それは、半年間、モニターとマウスしか触れてこなかった、白くか細い手とは別人のもののようだった。彼は、この新しい自分の手が、少しだけ好きだった。
ふと顔を上げれば、階下の花壇では、彼が植えたコスモスが、心地よい秋風に揺れている。アパートの子供たちが「お花のおじちゃーん!」と手を振り、彼は、はにかみながら小さく手を振り返す。母の春子は、そんな彼の姿を、いつも優しい目で見守ってくれていた。
(これで、いいんだ……)
修一は、心の底からそう思った。
かつて夢見た、社会的な成功や、家庭を築く幸福。そんなものは、もう望むべくもなかった。だが、この小さなアパートという領地で、植物の世話をし、住人たちとささやかな交流を持つ。誰かに、ほんの少しだけ必要とされる。滅亡するだけだと思っていた人生の終盤で、望外の平穏と、ささやかな幸福を手に入れることができた。ご先祖様が授けてくれたこの力は、そのためのものだったに違いない。
これ以上の変化は望まない。この静かで、満ち足りた日々が、これからもずっと続いていけば、それで―――。
その時だった。
「―――すみません!」
凛とした、若い女性の声。
それは、アパートの敷地の外から、明らかに自分に向けて発せられたものだった。修一の心臓が、どくん、と大きく跳ねる。住人ではない。知らない声だ。
彼が植え替えの手を止めて、恐る恐るベランダから階下を覗き込むと、そこに、一人の若い女性が立っていた。
スーツに身を包み、ビジネス用のファイルを胸に抱えている。場違いなほど、きちんとした身なりの、見知らぬ来訪者。
彼女はアパートを見上げ、まっすぐに修一の目を見つめていた。その瞳には、緊張と、焦りと、そして、藁にもすがるような強い光が宿っていた。
女性は、もう一度、今度はっきりと彼の名を呼んだ。
「二階の、田中修一さんのお宅でしょうか!」
その声が、彼の築き上げた、穏やかで小さな世界の壁を、粉々に打ち砕くかのように響き渡った。
修一は返事をすることもできず、ただ、その場に凍りついた。
土の匂い、優しい日差し、心地よい風。彼の愛した平穏な日常が、急速に遠ざかっていくような感覚。
彼は、まだ知らない。
眼下の来訪者が、彼の小さな城の門を叩き、より広く、そして、より困難な世界へと彼をいざなう、運命の使者であることを。
賢者の城は六畳間。
その、固く閉ざされていたはずの城門が、今、こじ開けられようとしていた。




