第2話 滅亡報告と陽だまりの風
「お盆だね」という母の言葉は、その夜、修一の頭の中に粘菌のようにこびりついていた。
お盆。それは、ご先祖様を迎えるための期間。そして、修一にとっては、自らの不甲斐なさを先祖代々の霊たちの前に晒す、公開処刑のようなイベントに他ならなかった。行きたくない。墓前で合わせる顔など、どこにもありはしない。
翌朝、修一が昼近くにリビングへ出ると、食卓の上に見慣れないものが置かれていた。小さな手桶、たわし、線香の束、そして仏花。母・春子の無言の圧力がそこにあった。
「……行かねえよ」
テレビに向けられた春子の背中に、修一は吐き捨てるように言った。
「そうかい」
春子は振り返らない。ただ、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、お前が行かないなら、私一人でバスに乗って行ってくるから。暑いけど、まあ、仕方ないね」
その言葉は、どんな罵声よりも修一の胸に突き刺さった。八十に手が届こうという母親に、炎天下の中、一人で墓掃除をさせるのか。そんなことになれば、人として、息子として、いよいよ本当に「終わり」だ。
「……わかったよ! 行けばいいんだろ、行けば!」
修一は怒鳴るように言うと、玄関で埃をかぶっていたスニーカーに無理やり足をねじ込んだ。
7月盆の始まり、7月13日。梅雨明け直後の川崎は、早くも真夏の様相を呈している。バスを降りると、アスファルトの照り返しが容赦なく襲ってきた。
世間の人々は、家族連れで楽しそうに駅前のショッピングモールへ吸い込まれていく。その流れに逆らうように、修一は一人、墓地へと続く坂道を登り始めた。汗が滲み、Tシャツが肌に張り付く。
田中家の墓は古びた霊園の一角にひっそりとあった。豪華さはないが、長年、雨風に耐えてきたことがわかる、実直な姿の墓石だ。修一は手桶に水を汲むと、たわしで懸命に苔や汚れをこすり落とした。汗だくなになりながら墓石を磨き、雑草を抜き、持ってきた花を供える。それは、彼が今できる唯一の、まっとうな人間の行いのように思えた。
すべてを終え、線香に火をつける。白い煙が夏の濃い空気の中へゆらりと立ち上った。
修一は墓石の前にしゃがみこみ、静かに手を合わせた。
(ご先祖様……)
心の中で、何年も会っていない親戚に手紙を書くように言葉を紡ぐ。
(……申し訳ありません。江戸の世から続いたという田中家も、俺の代で終わりです)
脳裏に「滅亡」の二文字が、巨大な判子のように押された。
(結婚もせず、子孫も残せず……。社会でまともに働くこともできず、老いた母の年金で生きながらえている。情けない姿で、本当にすみません。俺が最後の一人で、本当に……)
そこまで考えた時、こらえていた感情が堰を切った。目頭が熱くなり、一筋の涙が頬を伝って、乾いた地面に小さな染みを作った。惨めで、悔しくて、申し訳なくて、どうしようもなかった。
深々と頭を下げ続け、どれくらいの時間が経っただろうか。
立ち上がろうと顔を上げた、その瞬間だった。
ふわり、と。
まるで、真夏に春一番が現れたかのような、暖かくも涼しい風が修一の体を優しく包み込んだ。汗だくの肌を撫でる、心地よい風。蝉の声も、太陽の暑さも、一瞬だけ遠のいた気がした。
誰かに、そっと背中を撫でられたような、不思議で穏やかな感覚。
「……え?」
驚いて周囲を見渡すが、もちろん誰もいない。風に揺れる木々の葉が、ざわめいているだけだ。
(気のせいか……。暑さで頭がおかしくなったかな)
しかし、張り詰めていた心の氷が、ほんの少しだけ溶けたような、奇妙な軽さを感じていた。
修一は釈然としないまま、片付けを終えて墓地を後にした。
先ほどまでの絶望的な気分は不思議と薄れていた。まだ胸には重たい石が鎮座しているが、その角が少しだけ丸くなったような、そんな感覚。
(なんだったんだ、今の……)
そんなことを考えながら、バス停までの道をぼんやりと歩いていた彼の目に、ある店の古びた看板が飛び込んできた。
「小林園芸」
道の片隅で、申し訳程度に営業しているような、小さな園芸店だった。店の軒先には、色とりどりの花の苗が並べられている。
そして、その片隅。
値引きシールの貼られたワゴンの中で、茶色く枯れかけている一鉢のハーブ苗が、なぜか強く、彼の視線を捉えて離さなかった。




