水の話
人体に魂とか精神とかがあるとしたら、それは水だと思うんですよ。
ある日、そんな話をAさんから聞いた。
曰く、人体の60%か70%は水なのだから、人の本質というのはそこにあるとか無いとか。
魂の重さは21グラムなんて話もありますけど、それぽっちっておかしく無いですか。どっちが主な部分かと言えば、水じゃないですか。
21グラムが無くなるより、水分が無くなる方が大変だし、何より無くなったら死にますよね。それも魂だって証拠だと思うんです。
Aさんは冗談を語る口調で、そういう話を続けて来た。
少しだけ面白く感じたが、水の話題だけでどこまで続けるつもりなんだろう。そう思いながらも、不機嫌になられるのも困るので、話を聞き続ける事にした。何なら、話に乗ってもみた。
けど、水が魂なら、こんな夏の日には、魂が抜けてしまいませんか?
気温が三十度前半ならまだマシなんて思ってしまうくらいに、異常気象も日常になりつつある昨今の季節。
今、ゴーゴーとエアコンが鳴り響く部屋の中でなければ、悠長に話をする気分でも無くなってしまうそんな日々。
こんな季節は、まさに身体の水分というのが刻一刻と抜けていくわけだから、大事な大事な魂だって、空気の中に溶けていく。汗となり、湿気となり、不快さとなり、周囲を漂うわけだ。
さらに、自動販売機で買った大きめのペットボトルに入った麦茶で喉を潤したとしたら、それは麦と水で魂を補給した事になってしまうじゃないか。
そんな返事をしてみた私に対して、Aさんは笑って、この話題を続行してくる。
確かにその通りです。水が魂だとしたら、魂はそれこそ、あっちこっちで抜けては入ってを繰り返してるわけです。けど、魂ってそういうものでもありますよね?
魂消たなんて言葉があるくらいに、突然魂は身体の中から抜け出す事があるし、乗り移るなんて言葉があるくらいに、入る事もある。水と一緒ですよと、Aさんはそんな事を言ってくる。
だとしたら、魂というのは、あっちに入ったりこっちに入ったり、人と人の間をぐるぐる回ったりする様なものになるから、私の本質だとか精神的なものとか、そういうのでも無くなってしまいませんか? それこそ、どこにでもある様な物に。
水という身近なものを魂なんてものにしてしまうと、そういう事になってしまう。そんな風に思ったから、その時はつい尋ねてしまった。
Aさんは話が盛り上がって来ていると感じたのか、さらに話を続けて来る。
そうなんですよ。多分、そういう事なんじゃないかと思うんです。母なる海って言うじゃないですか。人の身体とか、他の多くの動物だってそうですけど、身体の多くが水分で出来ている。それって、元々、周囲が水の中だった時代から進化してきた名残りみたいなものでしょう? その時の環境を陸に上がってからも維持しようとしてるから、そんな事になってる。
話が生物の進化とか、哲学とかの話になってきている。そう感じて、もう話を切り上げようかと思い始めていたが、今度はこちらへ構う事も無く、Aさんはさらに続けて来た。
最初の生物が生まれた場所も、今だと海の中の、底の方っていう話じゃないですか。そうして、そこに生まれて、そこにあって、今もまだ、そこにある水を持って来て、ぐるぐるぐる、陸の上でだって生き続けてる。魂なんてものがあるなら、まさにその水じゃないかって、そう思うんですよ。
結局、この話の着地点はどこだろう? 訝しみ始めた私を察したのか、Aさんの話は、漸く本題へと入った。
だから……幽霊っていうのも、水なんじゃないですかね?
何が、だからなのだろう? Aさんは話を続けているのに、視線は私の方では無く、テーブルの上の、半透明なコップに入ったそれを見る。
氷がやや溶けだした、その水を。
幽霊が出る場所って、湿気があるって話は聞きませんか? 生暖かい空気ですか? そういうのが漂う? そういう前口上みたいなのもありますよね。けど、それが出る雰囲気っていうのは、何時だって湿気とか、水がある様な場所じゃないですか。だから多分、幽霊っていうのも、きっと水なんです。
なんですと言われても、そうですねと答えれば良いのか、そうではないんじゃないですかと答えれば良いのか。
私には分からなかった。私の方は黙るから、除湿機も兼ねているのか、無駄に五月蠅いエアコンの音ばかりが部屋に響いてくる。
そんな音に対抗したわけでも無いだろうが、Aさんはまた口を開いて来た。
あの、だから逆に考えてみたんです。
部屋を乾燥させて、湿気なんて無くして、からっとさせてしまえば、幽霊だって出て来なくなるんじゃないかって。ほら、実際、明るく、からっとした雰囲気の中って、幽霊が出て来る雰囲気じゃありませんよね。だからその……
Aさんの話は途中で止まる。喉でも乾いたのか、Aさんはテーブルの上のコップを手に持ち、その中の水を、氷ごと飲み干してしまった。
喉が痛まないだろうか。そんな風にも思った私は、Aさんの言葉が再び始まるより先に、答える事にした。
除湿機って、人が快適に暮らせる湿度が40%から60%くらいなんで、それより下に下げようとしたってそこまでの機能はありませんよ。どれだけ動かしたって、0になる事なんて無いでしょうね。っていうか、そういう状況なら、人が生きていける環境じゃあないですよ。言ったばかりじゃないですか。生き物って、水が無いと生きていけないって。
Aさんは黙ったままだ。じゃあ、こっちが話を続けなければならない。
人が生きてる場所なら、湿気はどこにでもありますし、水だってどこにでもあるでしょうね。だから、もし、魂や幽霊が水だったとしてもですよ?
私は顔を少しずつAさんへと近づけ、じっとAさんを見つめながら呟いてみた。
消えませんよ。幽霊も、私も。