琥珀色の空間
ずっと開いていなかったライトノベルをパラパラめくると、急に切ない気分になった。三日もまともに食事を取っていない腹が、盛大に鳴る。
腹、減った。
ここで食べても魔力が増えないのは分かっているが、所詮夢の中だし……まあいいか。
そういえば、エイプリルフールの告白って「冗談」を口実に本音を探れるから、失敗しても言い訳が立つんだよな。悲しいほど便利だ。
よく行く定食屋の隅っこに座り、特大のカツカレーを注文する。湯気の立つご飯を黄金色のルーが覆い、食欲をそそる。ピリ辛な日本のカレーとは違い、レモングラスの香りが効いた東南アジア風味で、万能の白米と絡み合って交響曲を奏でていた。
味噌汁を一口飲み、奇妙な既視感が脳裏をかすめる。
夢の中の人物なのに、なぜかリアルな存在感がある。
頭をぽんと叩いて意識を切り替える。なんで……なんで架空の存在なのに……
まあいい。寮に戻ろう。無断早退したんだ、体調不良で誤魔化せば……
文庫本を再び開き、美術館に飾ってもおかしくない挿絵を眺めていると、スマホが振動した。部長からのメッセージだ。
「17時カフェで打ち合わせ」
コーチャンフォームのソファで欠伸を噛み殺す。目覚めのハズなのに、コーヒーとミルクの甘い香りが逆に眠気を誘う。
「了解です。企画案は別途グループに上げます。辛木──生きてる?」
力なく頷き、アイスアメリカーノを啜る。ちなみに僕はバターラテ派だ。
意識がふっと遠のく。気がつくと寮のベッドの上だった。部員たちが担いで帰したらしい。記憶が曖昧だ……
とにかく、半日寝込んだせいで指導員と校医を騒がせたが、睡眠不足と診断され事なきを得た。
寮には誰もいない。みんな彼女とデートかゲーセン通いだろう。孤独だ。
頭をよぎった思考を捕まえ損ない、諦めて化学の教科書を開く。
が、一行も頭に入らない。LINEグループの通知を無視し、ツイッターを開くも平凡すぎるタイムラインに嫌気が差し、メモ帳に新規項目を作成する。
無題#36
4月1日 晴
痛い夢を見た。小説一本書けるレベルだ。夢の中で三日も過ごすなんて初めてだ。リアルすぎる……
でも夢のご飯はうまかった。エイプリルフールの告白現場を見逃したのは残念。
カレー(インドネシア風?)美味しかった。次も行こう。並進対称性とか難しすぎ。寝過ぎたせいかも。
追ってる小説家も更新してない。悲しい。
やる気ゼロ。化学の勉強……無理。寝よ。
ベッドに潜り込み、目を閉じる。
寝るのは最高の現実逃避だ。友達も彼女もいない。サークルにも入らず、ライトノベルとゲームで神経を麻痺させる。自分がクズなのは分かっている。他人が「優しい」「いい人」と慰めても、それは長所が見つからない人間への方便だ。みんな心の中でわかってる。この微妙な均衡が崩れたら反応が一方に偏り、僕にとって不都合だからだ。
ベッドの中で頭がぐちゃぐちゃになる。仕方ない。混沌の中、眠りに落ちる。
「おい、起きろ!」
瞼を擦りながら起き上がる。いや、これは半分寝袋状態だ。何だよ……?
眼前の人物が苛立たしげに足蹴りを入れてくる。完全に意識が覚醒し、視界がクリアになった瞬間──
またしても、剣と魔法の福川にいた。
魔力密度:0.125/Gg 状態:疲労(I)
プライベートクリスタルは正常作動中。よろめきながらドアに向かう。一体全体、何が起きてるんだ?
他のクラスに比べ、Cl班は妙に静かだ。授業開始30秒前、私の席は空いていた。良し。
包丁を鞘から抜き、仔細に観察する。夢の中の物体なのに、手触りが鮮明すぎる。
窓の外では藤に似た植物が風に揺れ、廊下からオーボエの音が漏れてくる。赤い結晶を掌に載せていると──
「いてっ!」
刃先で指を切り、血が結晶に滴り落ちた。すると結晶が液化し、刀身を伝って吸収されていく。
「武器エンチャント:空腹I」
は?!
MMORPGプレイヤーとしての経験が告げる──エンチャントは必ず何らかの効果を及ぼす。包丁を入念に調べる。
色も形も変化なし……いや、僅かに違う?
腹が鳴った。一日何も食べてない上に、この刀のせいで飢餓感が思考を阻害する。ハンバーグを噛み切る感触、肉汁が口いっぱいに広がる幸福感が脳裏を渦巻く。
草川先生が分厚い本を抱えて教室に入ってくる。教科書を手渡され、目次を確認すると興味深い項目が並んでいた。
「魔力学第二法則の帰結」
「『混沌』と自由魔導エネルギーの関係」
魔法か……面白い。夢の中なのに化学の勉強してるなんて感心するが、化学に憑りつかれた幻覚かもしれない。ノートを持ってこなかったのが悔やまれる。
「混沌とは万物の存在に不可欠なもの。魔力伝導にも限界がある。辛木、『混沌』下での魔力伝導方向を答えよ」
「ええと……低魔力側へ自発的に……?」
「今日の内容じゃないのに何で……?」先生より私の方が動揺する。気まずい沈黙が流れた。
草川先生の授業はPPT読み上げる某教授より遥かにマシだ。基礎中の基礎なのに、なぜか惹きつけられる。
「はい──今日はここまで」
教室が騒がしくなる中、再び包丁を手に取る。早くこの奇妙な夢から覚めたい……
「辛木」
振り向くと、クロが立っていた。
「刀、貸してみろ」
渡すと彼は嘲笑うように呟いた。
「クソみたいなエンチャントだな」
空腹は最早限界だ。学食の鰹と昆布の出汁の香りが神経をほぐす。地獄で蜘蛛の糸にすがるような救いを感じながら、うどんを啜る。
「いただきます」
スープに染み込んだ麺の琥珀色、一枚だけのチャーシュー。脂身がきらめき、食欲をそそる。
午後の授業は退屈だった。黒板の数式が蛇のように等号を飲み込むのを眺め、いつの間にか時が過ぎる。
西暦252X年──人類は初めて「空間」を折り畳み、「時間」を発見した。「時間」を折り畳むことで「可能性」を見出し、宇宙の境界を破り新たな世界「α」を確認する。
2532年、人類初の人工宇宙「ε」が誕生した。
「ERROR:不正変数検出」
「ERROR:量子もつれ断絶。データ量30P」
「ERROR:環境変化。データ量約5E」
フルーロ・エロスはパソコンの前で頭を抱える。
「直したばかりのバグがまた……!」
第六次技術革命後、人類のAI技術は2050年レベルで停滞した。量子技術が世界を席巻する2150年──
「パパ、これ変数修正したよ。借りは30万円ね~」
机の上で、ミニチュアの杖型ホログラムが宇宙の呼吸のように明滅していた。