山風の香りがする水道水
「ケンサク~入学手続き完了だよ~」甘鰹警官が書類をドンと私の前に置いた。
署名を終えると、契約書のようなその書類は光に包まれ消え去り、私の「プライベートクリスタル」へと吸い込まれた。
「これ……これは?」
「入構許可証だ。これがないと魔導院の門は通れない。あと、制服は後で仕立てるからな」
「じゃあ……今すぐ登校するんですか?」
「そうだ。まさか今夜もゴミ箱で寝るつもりじゃないだろうな?」甘鰹は笑いながらツルツルの頭を撫でた。
院長室で手続きを終えたが、困ったことがあった。所持金ゼロでは寮費も制服代も授業料も払えない。甘鰹は私の窘状を察し、肩を叩いた。
「貧困生の特別枠を申請しといた。寮費免除で、作った薬品を学校に売れる権利もついた」
「へぇ……そんな制度が……」
「寮はVIII棟5d室だ。急いで行け」
「はい、ありがとうございます!」
街へ出て再びゴミ箱を漁ろうとしたが、人目が気になり、甘鰹から渡された魔導院の制服に着替えた。袖には宝石が縫い込まれ、胸には福川第二魔導院の紋章。華美すぎず地味すぎない、標準的なデザインだ。
日が暮れる前にベンチで待機し、この二日の出来事を考えた。異世界転移の原因は――「睡眠が異世界への唯一の扉」説もあるが、私のSF的知識から推測すると二つの可能性がある。
四次元の「泡」に墜落し、その膜上の一点が三次元の「紙」に貼り付いた(二次元人が三次元空間を移動するように)
量子もつれによる「置換反応」で平行世界の私と入れ替わった
どちらも荒唐無稽だ。私は麻衣先輩の彼氏でもないし、小悪魔後輩もいない。なぜ私がこんな目に……!「BITES THE DUST!」
だが元の世界に戻るには「不確定性原理」を利用するしかない。この世界のエントロピーが元の世界より極めて大きい場合、同様の方法で帰還可能かもしれない(仮に可能だとしても)。
……簡単にはいかないだろう。
ため息をつくと、夕日が金色に輝いていた。その時、私はある重大な事態に気付いた。
腹が減った。
人通りが少なくなった街で、ゴミ箱へ突進する。
……食べ残しのフライドチキン! 腐ってなければいいが……
……スコーン! これで飢えを凌げる!
……他に良いものはなさそうだ。
ゴミ箱の蓋を閉めようとした瞬間、異変が起きた。
ゴミ箱が動いた?!
影の中に人がいた。頭上のID表示がないため気付かなかった。
「あんた……食べ物……持ってる?」
ふらつきながら立ち上がり、皺だらけのマントを整えるその姿は、紛れもないホームレスだった。
は?! 私もホームレスですけど?! 食べ物をねだるのは筋違いだろ!
スコーンを半分割り、一切れ手渡す。彼は躊躇なく頬張った。
明かりの下で初めてその顔が見えた――いや、よく見えなかった。
埃を払い立ち去ろうとすると、マントの男が私の裾を掴んだ。
「ついて……行っても……いい?」
そう言い終える前に、その男は崩れるように倒れた。
「おい! 大丈夫か?!」
意識を失っている。放っておくのも忍びないので、彼を担ぎ、昼間訪れたギルドへ向かう。
夜の福川は静寂に包まれ、足音だけが響く。
ギルドには誰もいない。いや、既に施錠されていた。仕方なく校舎へ向かい、まだ寝たことのない自分のベッドに彼を横たえた。
汗だくになった私は上半身を裸にし、床に座って涼む。手持ち無沙汰でプライベートクリスタルを開き、ゲームのようにステータスを確認したが、「健康」の一言のみ。所持品欄も空欄だ――あの赤い結晶は?
あ、服を脱いだままだった。
窓を開け、山風を顔に受ける。洗面所で冷水を浴び、飲み干す。
校舎の水は渓流の風味がした。塩素臭がなく冷たいため、非常に飲みやすい。
背後でカサカサという音がする。振り返ると、彼――仮に「流民」と呼ぼう――がベッドから這い上がろうとしていた。
「君は……?」
「さっきスコーンをくれた人です」
「……スコーン?」
「今食べたものです」
「ああ」
沈黙が支配する六畳の部屋。
私がその静寂を破った。
「名前は?」
「k……く……クロ? クロム? ……忘れた」
彼は壁を見つめたまま答える。ダニでも探しているのか?
「あんたの名前は? ……失礼な……」
かすかな声だったが、聞き逃さなかった。後半は無視した。
「私は」
ここで一呼吸置き、学んだ全ての社交術を駆使して笑みを作った。
「シンム・ケンサクです」
彼が顔を上げた。初めてその目がはっきり見えた――瞳の奥で星々のような光が不規則に流れている。マントの埃を払い、床に広げる仕草に、どこか気高さを感じた。
その時、私の腹が鳴った。
また空腹だ。
残りのスコーンを口に放り込み、飲み込む。昨日の教会の定食が懐かしい……
kと名乗った男が近づき、私の腕を突ついた。
「ねえ……シンム……今夜は泊めてもらえる?」
は?! そんな言い方するな! それに顔赤くなってるし!
「いいけど……」
違和感を覚えつつも承諾する。しかし――
「どうしてIDがないんだ? 怪しい奴と同室するリスクを考えろ! 何されるか――」
言葉が終わらないうちにkが密着してきた。危険な距離だ!
「第一、俺は今日死にかけた。ここにいなきゃ明日は路上で腐る」
「第二、俺が何かしたかったら、君はもう立てない」
「第三」
ここで彼は服を捲くり上げた――広範囲の潰瘍からまだ血が滴っていた。
「助けて」
かすかな声でそう言われた。
「じゃあ……せめて消毒だ」
「消毒……?」
しまった。この世界の科学水準を過大評価していた。
私は忍耐強く説明を始めた。
「消毒とは化学物質を用いて微生物を除去し、安全なレベルまで細菌数を減少させる――」
kは目を回していた。説明を切り上げる。
「つまり、魔法で火を起こせるか?」
「え、ええ……」
「傷の腐敗を止めたければ、焼灼するんだ」
「ええええっ?! 焼くんですか?!」
「忘れるな、ここは俺の部屋だ。血を垂らされると困る」
彼の指先から小さな炎が上がり、傷口に押し当てられた。焦げる肉の臭いが部屋に充満する。
「ぎゃああああああ――!」
近所迷惑にならなければいいが。
こうして、苦悶するkを眺めながら、私は渓流の風味する水道水を飲み、福川第二魔導院での最初の夜を過ごした。