白味噌みたいにぐちゃぐちゃな私
ゴミ捨て場の腐臭とべとついた甘い生臭さが、半径十メートルを支配していた。管理人はゴミ箱の中身を袋詰めにすると、麻縄で板車にがっちり縛り付けた。
「おい、そこの君!手伝ってくれ」
見習い錬金術師で魔導学院の落ちこぼれである私が、見知らぬおじさんのゴミ整理を手伝う羽目になっていた。
「よーし、これで完了だ。助かったよ!」
ふう、やっと終わった。山積みの袋が結晶格子のように板車に積まれていく。砂埃が舞い上がり、板車が遠ざかる軌跡に陽光が縞模様を描いた。
「あっ!しまった!授業の時間だ!」
こっそり教室に戻り、誰にも気づかれないように席に滑り込む。
一年前の有機化学の授業でうたた寝したら、いつの間にかこの世界に転移していた。東大仕様のB5ノート一冊だけを携えて、少しずつこの世界の生活に慣れていった。
ここは魔法が存在する世界だ。
魔法とは、人々が自然法則を自らの力で運用する技術に過ぎない。炎魔法は粒子振動で高温を発生させ可燃物を発火させ、水魔法は水分子のランダム運動を方向性ある規則運動に変換し、氷魔法は分子配列を制御して物質のエントロピーを低下させる――。
そして魔法は錬金術師の必修科目。さらに膨大な理論知識も要求される、まさに過酷な学問だった。
「テキストを開いて。魔導エネルギーと魔力ポイントの相関式、大魔導師兼錬金術師兼オカルティストのマクスウェル方程式を見よ。この式は術式魔力と魔力ポイントのエネルギー・速度換算に適用される!」
眠い…お腹も空いた…うう…。
ああ、授業終わった。
終わった…?
終わった!
周りを見渡すと、誰もいない。
「あああああ!!!」
校則違反を覚悟で食堂へ突っ走る。入り口で愚痴が聞こえた。
「なんでこのご飯にスライムの粘液が入ってるんだよ〜」
「きっしょー」
ため息をついた。やっぱり連中は子供だな、こんなものに驚くなんて。真の強者は、自分が軽蔑するものさえ平然と食い尽くすものさ。深く息を吸い込み、食堂へ向かう。
「ああ、浦田の聖母パイか。なんで学食にこんなものが……?」
昼食を終え、校舎内をぶらつく。普通の学校と同じく、福川市第二魔導院――つまりこの学園は、教科棟・演習場・講堂・錬金術棟・図書館・廃棟に分かれている。無論「廃棟」は生徒たちの俗称で、正式名称は予備棟。非常時用の仮施設だが、普段は人影もなく、当然のように「生命術式」探検の巣窟と化していた。ふむ。
図書館へ向かう途中、仰ぎ見る天蓋には大陸に三基しかないと言われる魔導陣が金色に輝いている。
「どう見ても偽物だろ……」と心の中で毒づく。
頭上では太陽の光が依然強烈で、木々の隙間から差し込む光が草地の露をきらめかせていた。
面心立方格子みたいに密集した書架の間をくぐり、歴史書を漁る。この一年で身に付いた習慣だ。錬金術――つまり化学理論は高度に発達しているが、実験器具は原始時代と大差ない陶器と鉄瓶しかない。マクスウェル方程式もファンデルワールスの式も知っているくせに、だ。要するに、理論が実験を遥かに凌駕する時代なのだ。
「ああ~お昼だね、シンムくん~」振り返ると、クロウさんが笑いながら手を振っていた。軽く会釈して、私は再び書架の間を歩き回る。
この世界では、原始時代に北方の獣人から身を守るため、一部の人間が原子や分子を操る能力を身につけた。その後、南北戦争が続き、人族とエルフの南方連合と、獣人やドワーフの北方勢力との間に種族交流が生まれ、ハーフビーストやゴブリン、ノームといった新たな種族が誕生した。中でもハーフビーストだけが南方で「人」として認められ、他は全て「魔獣」扱いだ。だが当局の融和政策で南北は停戦し、経済は発展。辺境都市は自然と豊かになった――ただし福川は例外だった。争いの絶えない地域に位置するため、経済は低迷し、物価の高さと低所得が不気味に絡み合っていた。
そう考えながら、書架から一冊の古びた『錬金術緒論』を引き抜く。
「魔導エネルギーは創生も消滅もせず、不滅の理なり。近年、人類が魔晶をエネルギー源とし始めて百年余り。プランクが『二元の魔術』を提唱してから十年に満たぬ。されど此れより後、未だ見ぬ時代が訪れん」
……待てよ?
二元の魔術?
プランク?!
目を擦り、その行を凝視する。「二元」……「二相性」……量子物理か?!
急いで目次をめくり、見覚えのある用語を探すが見つからず、やけくそにページを捲る。
「光霊術――新たなる発見」
「杖はルビーを推奨す。ガラスも可。術式発動は光強き地にて行い、狭き隙間での使用は厳禁なり……」
専門書をまともに読んだことなどなかったが、まさかこんな発見があるとは。元の世界と同じく、マクスウェル方程式、プランク方程式、波と粒子の二重性――全てが既視感に満ちていた。
ひょっとして……こっちの世界は元の世界のパラレルなのか?
まあいい。とにかく、一年以上生き延びたのは僥倖だ。めでたい、めでたい。
街を歩き、店先の看板に掲げられた値札の輝きに目を背ける。学校へ薬品を売って貯めた十数枚の銅貨をポケットで弄び、首を振った。
「魔導屋に行くか……」
分厚い扉を押し開けると、木の香りが漂い、埃が風に舞い上がって光の中で翻った。
「店主さん、端切れのルビーはありますか?」
大きな棚の奥から、いつもとは違う甲高い声が返る。
「ええっと~待って~!」
ドサッ。何かが落ちた音がした。
首を傾げて覗き込むと、獣人の血が薄いのか、耳と尻尾以外はほぼ人間の少女――いわゆる「ケモナー」風の半獣人娘が、床に散らばった樹妖の枝を拾い集めていた。
「ち、すぐ持ってきますから!」
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「それで……お父さんは足の怪我で、もう店に出られなくなったんですか?」
「ええ、まあ……一人で店を回すのは大変ですから」彼女はガラスの端材を油紙で二重に包み、私に差し出した。
「8パスカルです」
「どうぞ」私は銅貨を8枚払い、扉に向かって歩きだした。
ふと、思い付くことがあった。
「あの……」
「はい?」
「人手が足りないなら……私、手伝いに来てもいいですよ?」
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一年前――
目が覚めると、もう授業は終わっていたようだ。周りでは皆が談笑し始めている。
あああああ?!!!
こ、これは……どういう状況だ?!
見渡す限り、最も高い建物も十メートルに満たない。道行く人々は奇妙な格好をしているが、話している言葉は私の知っている言語だった。
だから……
歩きながら氷をまとう奴は何なんだ?! 炎に包まれてる人もいるし!? うわっ、猫娘だ!……まるで田舎者のようにキョロキョロし、見たこともない光景に感嘆の声を漏らす。
周囲を見回すと、どうやら祭りでもあるのか、人の波が私を公民館のような大きな建物の前に押し流した。
「えー……教会?」
疑問を抱えつつ中へ入る。テーブルには食事の配膳と「必要に応じてお取りください」の札が置かれ、天井を見上げれば、神像が淡い黄光を放ち、読経の声が堂内に響き渡っていた。
「この祈りの文を真心込めて唱えれば、記念品か食事をお受け取りいただけますよ」いつの間にか側にシスターが立っていた。
別に誠心誠意とは言えないが祈りを済ませ、心を込めて飯を受け取り、お辞儀をした。これでようやく本分を果たしたってわけだ。
食事を手に教会を出る。ご飯一膳、漬物の大根一切れ、味噌汁一杯――質素だが、少なくとも飢えを凌ぐには十分だった。
大根を噛むと、酸味と塩気が口中に広がり、舌を包み込んだ。正直言って、この漬物は悪くない。むしろ旨い部類だ。味噌汁には豆腐と昆布に加え、少量の鮭が入っており、複雑で心安らぐ味を醸し出していた。
「ごちそうさまでした――」
このいわゆる異世界に来たばかりの私は、正直まだ混乱している。他のライトノベルの主人公は、交通事故で異世界に飛ばされ大魔法師になって三人と結婚したり、本を読んでるうちにダメ勇者から逆襲して周囲を見返したりするのに、私の場合は――
授業中に寝て、一文無しになった。
食の問題は一時的に解決したものの、生存にはまだ課題が多い。まずは金だ。ポケットの紙幣は完全に無価値になった。頭の中は、古くなった味噌汁の底に沈んだ白味噌のように、ぐちゃぐちゃの状態だ。
夕暮れ時、街の人の流れはすっかり細くなっていた。街灯が灯り、夕日の残光の中でオレンジ色に染まった。周囲を見回すと、地面にきらりと光る点が見えた。
「ええっ!銅貨だ!」
常人には感知できない速さで駆け寄り、コインを拾い上げる。
「パスカルか……」銅貨に刻まれた肖像を眺めながら呟くと、ふと視界の端に衝撃的な光景が飛び込んだ。
ゴミ箱だ!
誰かが食べ残しをブリキのゴミ箱に放り込んだ!
人影が遠ざかるのを確認し、こっそりゴミ箱のそばに近づき、中を探り始める。
少し酸っぱくなったパン!
探す……探す……
赤い謎の結晶片!
探す……探す……
真っ白な女性用パンツ! こ、こんなものはそっとしまっておこう……
探す……探す……
手製の小冊子!
かすかな光を頼りにページをめくる。表紙は真っ白だが、紙は黄ばんでいて、かなりの年季が感じられる。神聖な気分で開いたその冊子の目次を見て、私は頭の中に疑問符が渦巻いた。
いわゆる「攻め」と「受け」について
BLにおける常用テクニック
体位の差異と実戦
「何これ!? こんなの腐女子仲間内でしか回してないでしょ~」と思いながらも、ゴミ箱を漁った自分に説教する資格はないと悟る。
> そう考えつつ、先ほどゴミ箱で拾った赤い結晶を取り出す。夕陽に照らされ、コランダムか水晶のようなその物質は深紅の輝きを放っていた。
道のりは遠く。