スピカの願い(その1)
「被験者名、I.K。これより<賢者の石>駆動によるレネゲイド活性実験を行います。現在、心拍数80bpmで安定。血圧、体温ともに正常値です。基本レネゲイド侵蝕率を32%に仮想設定。先生、よろしいですか?」
研究助手の播磨なゆたが視線を送る。国東いずみは深呼吸すると、静かに頷いた。
「はじめよう。実験開始」
「実験開始。〈賢者の石〉、駆動します。血中レネゲイド濃度、上昇開始しています」
「心拍数は」
「85bpm。正常範囲内です。体温は37度でわずかに上昇。血圧安定」
「様子を見よう。外部からのレネゲイド刺激を想定し、負荷をレベルCに設定」
「レベルCに設定しました。現在侵食率は50%を突破。上昇係数は想定範囲内です。レネゲイドのエネルギー変換予想効率、高水準を記録中」
国東がずいと身を乗りだし、画面を見守る。
「安定しているね。このままなら……」
しかし、そんな淡い期待を嘲笑うように、画面に赤いエラーコードが表示される。すぐさま播磨の悲鳴に近い声が飛んだ。
「異変発生。血圧、急激に上昇しています!現在上142の下91。体温も38度5分に上昇。いつの間に……!?」
「慌てないで。鎮静剤を投与。侵食率は?」
「現在82、83と上昇中。投与しましたが止まりません!」
「諦めないの。ガンマ型のレネゲイド抑制剤を追加で投入して」
「やってますううう」
**
「実験終了。だめでしたね」
播磨が大きくため息をつき、伸びをする。モニターには赤い文字で、生体反応なしの文字が明滅している。
「途中まではいい感じだったんですけどねえ」
「途中までじゃ意味ないだろ。これが本番なら、被験者は帰ってこないんだ」
国東は先ほどの実験シミュレーション結果から、目を離さず言い放つ。
「抑制剤の投与が遅すぎたか。しかしそれだと融合係数が…………」
「でもエネルギーの変換効率は良い数字を出していましたよ。研究課長に求められている水準を満たしています」
播磨のその一言に、国東は呟きを止めた。彼女はしばらく言葉を探していたが、柔らかな口調で、画面の一部を指さした。
「いいや、それじゃ駄目なんだよ。ご覧、最終侵食率が100%を超えているだろう。これはつまり、〈石〉に被験者の自我そのものが上書きされていることを意味する」
「でも無茶ですよ、戦闘パフォーマンスと侵食率を両立させるなんて。両者はトレードオフの関係なんです」
「だとしても、だ。〈石〉と融合しているのは、被験者であると同時に一人の人間。日常への帰還を前提としない運用計画は賛同しかねる」
それはわかってますケド、と播磨は口ごもった。
「でもこのまま成果が出せないんじゃ、まわりの風当たりは厳しいですよ。ただでさえ極東の島国出身の、たかが女のくせにって馬鹿にされてるのに。私、悔しいです。国東先生は悔しくないんですか?」
「うーん、私はねえ」
国東は紅茶を淹れながら、少し微笑む。脳裡には遠く海の向こうで、今も戦っているであろう一人の青年の姿があった。
「私は気にしないかな。私は私が間違っているとは思わないから。播磨君も紅茶、飲むかい?」
「…………いただきます」
「播磨君はよくがんばってくれているよ。……そうそう、この茶葉は頂きものでね。特殊病棟6Fのスピカという少女がいるだろう。彼女の母親からだ」
湯を注ぐと、研究室の中に、華やかなダージリンの香りが充満する。
「私は研究者であって医者ではないと言ったんだが、娘がよく私の話をするらしい。断るのも申し訳なくてね」
差し出されたカップを受け取ると、播磨は一口、紅茶を口に含んだ。彼女の長く美しい黒髪がはらりと揺れ、頬にわずかに赤みが戻る。
「…………先生、よく特殊病棟の子供たちと遊んであげてますからね」
「遊んでもらってるのはこっちの方だよ。…………おっと、知っていたのか」
「8Fのカフェの窓から、中庭がよく見えるんで。それより、スピカちゃんですか」
「ああ。和夜と同じ、〈賢者の石〉の適合者だね」
国東は思わず、パソコンの画面に目を向ける。〈賢者の石〉、またの名をレネゲイドクリスタル。国東の専門分野であり、かつ世界で最も危険な物体の一つでもある。レネゲイドウイルスと呼ばれる、未知のウイルスの結晶体。ごく一部の人と生体的に融合し、無限の可能性を与える神秘そのもの。
「…………最近、検査の結果がよくないと聞きます。〈石〉によるシンドロームの能力増強も確認できずじまいだとか」
播磨は声を落とす。その神妙な顔つきに、国東も思わずクッキーを頬張る手を止めた。
「…………〈石〉との適合率は個人差が激しい。適合こそしたものの、パフォーマンスを発揮しないのも珍しくないだろう。なによりスピカはまだ9歳だ。いたし方あるまい」
「ええ。でも上層部はそうは考えていないようでして。これはあくまで可能性の話なんですが、彼女から〈石〉を摘出し、他の適合者への移植を検討するという話が…………」
「駄目だッ!!」
国東が立ち上がる。カップから紅茶がわずかに飛び散った。播磨は黙ってティッシュを取り出し、丁寧にふき取る。
「大声出さなくたって、国東先生が反対なのはわかってます」
「播磨は移植に詳しいだろう。意見は求められなかったのか?」
「求められたので、断固反対しておきました。子供には負荷が大きすぎる手術ですし、〈石〉を人為的に取り除くことが、オーヴァードに与える影響は未知数です。あんな小さい子供の未来を、奪っていい理由なんてあるべきじゃない。私が反対したからかは知りませんが、この案は再度検討されるとのことです。だから可能性の話って言ったじゃないですか」
播磨は遠い目をして、壁の一点を見つめているのを見て、国東は座り込んだ。播磨は平静を装っているが、国東は知っている。彼女は元小児科医だった。子供に対する思い入れは、誰よりも強いはずだ。彼女が研究課長に猛反対して噛みついている様子は、容易に想像できた。
「…………少し、話をしてくる」
「研究課長なら今日は終日、出張中ですよ」
「いや、スピカとだ。相部屋だった子が移動したらしいじゃないか。寂しくしているだろう」
「摘出の件、本人や家族に言ったら駄目ですよ。うまくいけばこのまま白紙に戻るんですから」
「しないさ。ただの世間話だよ」
国東は研究室を飛び出した。春の温かい風が一陣、髪をなでるように吹いた。
**
「こんにちは。スピカ、いるかい?」
特殊病棟、6Fの一室を開く。カーテンの向こう、簡素なつくりのベッドの上に声をかけると、すぐさま返事が聞こえてくる。
「こんにちは、いずみ先生。ちょうどいいところに」
風が吹く。カーテンが揺れ、向こうに少女の姿が見えた。透き通る白磁の肌。波打つゴールドアッシュの長髪。陰影を携えた眼は連星のように煌めき、その口元は仄かに笑みを浮かべた。
「私、お願い事があるの」
彼女の胸元の桜色の結晶が、かすかに光ったような気がした。