19 ずっとこのままでいられたらいいのに
夜会に向かう馬車の中で、私はとても浮かれていた。
ようやく偽装婚約者としてお役に立てそうで嬉しい。それに、クレム様と二人きりでお出かけできることが純粋に嬉しかった。
でも、気がかりなこともある。私は実家の伯爵家を出てから社交の場に一度も出ていない。
各方面からお茶会の招待状は届いていたけど、クレム様が「フィアナが行きたければ行けばいいが、無理に行く必要はない」と言ってくれたので、すべて断っていた。だから、最近の社交界がどうなっているのかわからない。
クレム様と私が会場に入ると、「レイストラルド公爵様と、その婚約者ラリアル伯爵令嬢フィアナ様のご入場です」と係の者が声を張る。
会場内の視線がいっせいに私達に向けられた。
その視線は好意的なものではない。好奇心や嘲笑するような視線が遠慮なく注がれ、頭の先からつま先まで値踏みされているような気分になる。
クレム様とのお出かけに浮かれてすっかり忘れていたけど、私は夜会が苦手だった。息苦しいし失敗したらどうしようと怖くて仕方がない。
久しぶりに感じる他人からの悪意に、手がふるえてしまっている。
失敗したらどうしよう。クレム様を元婚約者ロバート様のように怒らせてしまったら……。
「フィアナ、大丈夫か?」
私の耳元でクレム様の低い声がする。
「具合が悪いのか?」
「い、いえ。少し緊張してしまい」
「もしかして、夜会が苦手なのか?」
「すみません。……あまり得意ではありません」
クレム様には本当のことが言える。本当のことを伝えてもクレム様が怒らないと知っているから。
「俺と同じだな。まぁ、俺は苦手どころか大嫌いだが。兄上に挨拶したらさっさと帰ろう」
クレム様は私をエスコートしながらスタスタとバルコニーに向かった。その間に、何人かがクレム様に声をかけたそうにしていたけど、クレム様が足を止めることはない。
二人でバルコニーに出ると、外の空気はひんやりとしていた。
「兄上が来るまで、ここで時間をつぶす」
「良いのですか?」
夜会でのロバート様は、他貴族との交流を重要視していた。だからこそ、私にも次期侯爵夫人としてふさわしい社交性を求められた。それがうまくできなくて、ロバート様を毎回怒らせてしまっていたけど。
「何か問題があるのか?」
クレム様にそう尋ねられて、私は言葉に詰まった。
「問題……」
「だれか会いたい人でもいたか?」
私は首をふった。
クレム様にとって社交はそれほど重要ではないみたい。そのほうが私も嬉しい。
「いえ、よく考えたら、何も問題ありませんでした」
私が会いたい人は、もう私の隣にいる。
クレム様と二人で並んで夜空を見上げていると、冷たい夜風に私の肩が小さくふるえた。
「寒いのか?」
クレム様はすぐに私の変化に気がついてくれる。
「少し」
上着のボタンに指をかけたクレム様は「いや、兄上に会う前に上着を脱ぐのは良くないな」とその手を止めた。
「フィアナ」
クレム様は私に向かって両腕を広げる。
「嫌でなければ、おいで」
突然のことで思考が停止してしまった私は、蝶が花の蜜を求めるように、フワフワとした足取りでクレム様に吸い寄せられていく。
優しく抱きしめられた。クレム様の腕の中はとても温かい。
「これで寒くないか?」
私の心音はこんなにもうるさいのに、すぐ側で聞こえるクレム様の声は、いつものように淡々としている。
抱きしめてもらえて涙が出そうなほど嬉しいけど、クレム様が何を考えているのかわからない。
嫌われてはいないと思う。でも、好かれている自信はない。
偽装婚約者として大切にしてくれているだけよねと思うのに、つい、それ以上の気持ちを期待してしまう。
クレム様の感情の精霊がみたい……。
でも、そこに期待したような精霊たちがいなかったら? そう思うとクレム様の気持ちを知るのが怖い。
私はどうしても勇気を出せず、そっと目を閉じた。この時間がずっと続けばいいのに。
「フィアナ、そこで何をしている!?」
夢のような時間は、聞きなれた怒声で終わってしまった。
声のほうを見ると、元婚約者のロバート様がなぜか私をにらみつけている。ロバート様がこちらに近づいてきたので、クレム様が私を背後に隠してくれた。
「ロバート卿、このバルコニーは使用中だ。他をあたってくれ」
「クレム殿下、お戯れはおやめください!」
ロバート様が私を捕まえようとのばした腕をクレム様が叩き落とす。
「俺の婚約者になんのつもりだ?」
「婚約者?」
フッと鼻で笑ったロバート様は、クレム様に鋭い視線を向けた。
「フィアナを利用するのはやめていただきたい!」
「利用だと?」
クレム様の声には不快感が現れている。
「殿下とフィアナは世間では愛し合っていることになっていますが、それが間違いだと少し考えればわかります。殿下は、敗戦国の姫との婚姻を避けるためにフィアナを利用していますね?」
利用という言葉に、私の胸がチクリと痛む。
クレム様は明言を避けた。
「ロバート卿には関係のない話だ。あなたはフィアナとの婚約を白紙に戻しただろう?」
「あれは、父が勝手に……」
ロバート様は私を鋭くにらみつけた。
「フィアナ、こっちに来い」
クレム様に言われたときは、あれほどときめいた言葉なのに、ロバート様に言われるとゾッとする。
「ど、どうしてですか?」
ロバート様は、ハァとあきれたようにため息をついた。
「ラリアル伯爵夫人から事情は聞いている」
「お母様から?」
なんだか嫌な予感がする。
「クレム殿下に騙されている君を助けてやってほしいと頼まれた」
母はあいかわらず、ロバート様と結婚することが私の幸せだと妄信しているようだ。
「私は騙されていません!」
「フィアナ、私の予想では殿下と君の婚約は、長くても王太子殿下が即位されるまでだぞ? 殿下に捨てられたあと、君はどうするつもりなんだ!?」
ロバート様のいうとおり、クレム様には『これは偽装婚約で、結婚まで強いるつもりはない』とはっきり告げられている。
ロバート様は眉間にシワをよせながら「……待っていてやる」と言った。
「え?」
「だから、フィアナ。君を待っていてやると言っているんだ!」
怒鳴られて身がすくむ。ロバート様が何を考えているのか少しもわからない。
そうだ、感情の精霊をみれば、ロバート様の考えが少しはわかるかも……?