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6月19日の君へ

作者: 天井 萌花

 6月13日から19日までの数日間、私は毎年決まって東京を訪れる。

 13日は多摩川に花を添える日。

 14日から18日までは東京観光をする日で、動物園などに行く。

 そして19日は桜桃忌。玉川上水の玉鹿石に花を添える。


 玉鹿石の周りには花束はもちろん、本やさくらんぼなど様々なものが供えられている。

 付近は大勢の人で賑わっており、今日という日の特別さを物語っている。


 ーーーー太宰治。


 没後何十年と経っているのにこれほどのファンを抱え続けているのだから、やはり彼は相当すごい人なのだろう。

 今この場にいる全員が彼に想いを馳せ、若き才能を弔っている。

 その中で私だけ別の人物を想うのは少々失礼な気がするが、毎年訪れてしまっている。


 人混みから離れて数分歩き、途中にあった花屋で花を買い、至って普通の墓地にやってきた。

 大好きな人の墓石に花と、2冊の本を供える。

 1冊は君が生前気に入っていた本、もう一冊は最近刷られたばかりの真新しい本。

 隣の段差に腰掛けて、供えたもの同じ詩集を開く。

 その中の一遍を声に出して、ゆっくりと読んだ。


 君に聞こえますようにと願って。

 誰にでも分かる詩の中に、私と君だけの思い出を込めて。



 ーーーー拝啓 6月19日の君へ

 君は私との日常を、どれだけ覚えていますか。

 私が1つとして取り溢さずにしまっている宝物を君も握っていますか。

 後悔することはあります。悲しくなることもあります。

 それでも私は元気です。


『愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。』


 君があの時『春日狂想』を読んでいたのは、私にそうして欲しかったからですか?

 その言葉に、私は従うべきだった?

 今でも君の真意はわからないまま、それでも強く生きています。

 だって私が、君の分まで世界を見ないといけないから。

 だって中原中也は、最期まで生きていたから。

 この詩の中に、死は描かれていないから。


 難解で風のような君をわかったつもりになって、勝手に内容を解釈して、私は生きています。

 君が私にしてほしかったことも、君の行動の理由も、ちゃんとわかったつもりでいます。

 だけど1つだけわからないことがあります。

 教えて。君はどうしてーーーー





 15年前、6月14日。

 私には親友がいる。

 幼稚園の頃からずっと一緒の、少し変わった女の子だ。

 今も彼女と一緒に登校するため、私は待ち合わせ場所に向かっている。

 そんな彼女に最近元気がない。

 中学3年生になっていよいよ受験という壁が見えてきたからだろうか。


 いつも楽しそうに上がっていた口角は進級してからずっと引結ばれたままである。

 待ち合わせ場所に来るのも私より早かったのに、4月以降は遅刻ギリギリだ。

 もう2ヶ月もああなのだから、そろそろどうにかして元気づけてあげたいと思っている。


 気分転換に出かけるのはどうだろうか。どこに連れて行こう。

 プレゼントがいいかもしれない。何がいいだろう。

 あれこれ考えながら進んでいた私の足が、目的地直前で勝手に停止する。

 驚きのあまりえっと小さく声を出してしまったと思う。


 待ち合わせ場所には既に親友の姿があった。

 ストレートの長い黒髪を持つ美少女。

 去年の今頃までは眼鏡をかけていたが、コンタクトに変えてから一気に垢抜けた。

 文庫本を見つめる髪と同じく真っ黒な瞳は真剣そのものだ。

 彼女の名は中谷 治子(なかたに はるこ)

 可愛いけど少し変わっている、私の親友だ。

 治子は私に気がついたようで本から顔を上げた。


「あっ!ナオ、おはようー!」


 治子は本をぱたんと閉じて笑った。

 左右不対象に口角をあげて白い歯を出し、ぱっちりとした目が見えなくなるほど細めた笑顔でこちらを見ている。

 それは私が思い描く「これぞ治子」という顔で、10年間いつも見ていた顔で、約2ヶ月ぶりにみる顔だった。

 “奈緒美(なおみ)”という私の名前をもじった渾名を呼ぶ声は温かい優しさに満ちている。


「お……おはよう。」


「なんでそんなところに突っ立ってるのさー。どうしたの?」


 戸惑いつつも挨拶を返すと、治子は不思議そうに駆け寄って来た。

 私が足を動かすと治子はくるりと振り向いて、学校に向けて歩き出す。


「そうやって読書してる治子見るの、なんだか久しぶりだなーって思ってさ。何読んでるの?」


「今日はなんとあの“大谷崎“こと、谷崎(たにざき)潤一郎(じゅんいちろう)の『痴人の愛』を読んでるの!」


 持っていた本を自慢げに見せてくるが、私にはよくわからない。

 国語の授業に少しだけ名前が出てきた気がしなくもないが、どんな話なのかさっぱりわからない。


「相変わらず難しそうな本読んでるね。」


「面白いよ。ナオにも貸してあげようか?」


 ずいっと本を押しつけてくる治子に、いらないよと首を横に振る。

 治子は毎年誕生日とクリスマスに近代文学小説を贈ってくれるが、難しすぎてさっぱり読めなかったからだ。


 治子が少し変わっているというのはまさにこれのことだ。

 国語の成績がいいことと関係しているのかはわからないが、読む本の趣味が随分大人びている。

 小学生や中学生の読書の時間となれば、大抵の人は児童文庫やラノベなんかを読むだろう。

 小学1年生ならば絵本かもしれない。


 だが少なくとも治子は違う。

 夏目漱石だの森鴎外だの川端康成だのが書いている、難しそうな本を読んでいた。


 初めて治子がすごいと思ったのは幼稚園の年長の時だった。

 一人ずつ好きな本を言っていく時間で、みんなは色々な絵本の名前を出していた。

 そんな中治子ときたらなんと、芥川(あくたがわ)龍之介(りゅうのすけ)の『蜘蛛の糸』と答えた。

 先生はとても驚いて、リアクションに困っていたのを覚えている。

 去年図書室で見かけたから少し読んでみたが、とても幼稚園児に理解できるものには思えなかった。


 私が治子と仲良くなった小学校3年生の時から毎年誕生日とクリスマスのプレゼントを送り合っているのだが、それも全部本。

 私の誕生日には必ず治子のお気に入りの本をプレゼントしてくれる。

 優柔不断な私が治子に送るプレゼントを決められずにリクエストを聞くと、決まって「ナオのおすすめの本が欲しいな。」と笑うのだった。


「残念。気が向いたらいつでも貸すからね。」


 残念そうに本を鞄にしまった治子は空いた両手で青いスカーフを整えている。

 何回もしてきたこのやりとりをするのも、実に2ヶ月ぶりだ。

 3年生になってからの治子は笑顔を見せなくなっただけでなく、大好きなはずの本からも離れていた。


「……治子、元気になったんだね。」


「うん。本当はね、ナオがすごく心配してくれてたの知ってたんだ。ごめんね、ありがとう。」


 治子はニコニコと笑ったまま言う。

 本当に何もかも今まで通りの治子で、なんで元気になったのか気になってくる。


「もうすっかり回復、受験なんて余裕だよ。お呪いが効いたのかな。」


 私の胸のうちを見透かしたように、治子は白い歯を見せて笑う。

 お呪いって一体何をしたのか。

 ここまで効果のあるお呪いなどなかなかないだろう。


「お呪いって、何したの?占いの本でも読んだ?」


「そんな子供騙し、誰が信じるの。私が考えた最強のお呪い〜。」


「うわ、子供騙しより胡散臭いの来た。」


「どういう意味?」と治子が唇を尖らせるので、思わず吹き出してしまった。

 治子も釣られてくすくすと笑っている。

 私の笑いが収まると、治子がまだ笑いながらも口を開いた。


「私を信用してよ。本当に効果あるんだから!」


「信じてるよ。だから教えて。」


 足を止めた治子は私の耳に顔を寄せる。

 暖かい息が耳にかかって、少しくすぐったい。


「1年に1回だけできるの。来年は誘うから一緒にやろう。」


 一歩退いて離れた治子を見ると、悪戯っ子のような不適な笑みを浮かべていた。

 私はわけのわからぬまま小さく頷く。

 治子は満足そうに笑うと両手で私の手を握った。


「行こうか、遅刻しちゃう。」


 走り出す治子に手を引かれて走り出す。

 息を切らしながら着いた学校は、いつもより一段と明るく見えた。





 14年前、6月13日。

 治子の言うとおり、本当に治子は受験を余裕で終えた。

 あれから一度も笑顔を失うことなく、当日でさえも緊張した様子一つ見せずに無事合格。

 私達は晴れて同じ高校に進学し、変わらず毎日一緒に過ごしていた。


「ナオ、去年の約束覚えてる?」


 私より速く帰る用意をしたらしい治子が、机に本を置きながら聞いてくる。

 太宰治(だざいおさむ)、『人間失格』と書かれた表紙は角が白くかけている。

 治子の愛読書の一つだ。


「約束……?もしかして、お呪いを教えてくれるってやつ?」


 しばし考えた末に私が答えると、治子は嬉しそうに大きく頷く。

 確か6月の決まった日にしかできないお呪いだとか言っていたよなーと思いつつ黒板に書かれた日付を見る。

 6月13日。治子が言っている年に1回の日が今日なのだろうか。

 覚えてはいたが約束だとは認識していなかった。

 治子の様子を見るに、教えたくて仕方がないといった様子である。


「覚えててくれて嬉しいよ。」


 上機嫌な治子は私の隣の席に座り、鞄を漁り出す。

 中学の頃から使い続けている見慣れたスクールバックの中には、文庫本がぎゅうぎゅうに詰まっている。

 本以外のものはどこに入っているのだろうか。

 そんなことを考えている間に、治子は鞄の奥からベンポーチとティッシュ箱を取り出した。

 治子は押しのけた本を整頓し直すと満足そうに息をついた。


「なんでティッシュ箱?それ持ち運び用じゃないでしょ。」


「んー、ポケットティッシュじゃ小さいかなと思って。」


 帰る準備を終えた私が隣に座ると、治子は一度立って机をくっつける。

 いつの間にかクラスの全員が既に帰ってしまっていて、教室の中には私達2人だけだ。


「じゃあやろっか!私考案の最強のお呪いを!」


 大きく手を挙げて誇らしげに言った治子はペンケースから油性ペンを2本と輪ゴムを取り出す。

 そのうちの1本とティッシュ1枚を私の机の上に置いた。


「そのティッシュに自分の嫌いな所を書いて。“○○な私”って感じで。」


 治子は嬉々とした様子で自分の前に置いたティッシュにペンを走らせる。

 何を書いているのか見ようと顔を近づけると、「駄目!」と言って隠してしまった。


「私なんて気にしないで、ナオも書けば?」


「治子は、治子が嫌いなの?」


 迷いなく書き始める治子が少し不思議に思えて聞いてみる。

 私が問いかけると、治子は少し考えた後「ナオは?」と逆に聞いてきた。


「勿論、嫌いじゃないよ。」


「ナオはそうでなくちゃね。私もナオのこと大好きだよ!」


 私の解を聞いた治子はうんうんと数回頷いて笑った。

 いつもと変わらない見慣れた笑顔なのに、薄く開いた瞼の隙間から見える黒目は憂いを帯びているように見える。


 治子はたまにこんな風に笑う。

 こんな風に笑う時は、決まって私に「大好きだよ」と言う。

 毎回私にはその表情の意味もその言葉の意味も分からずに、かといって言及することはできずにいる。


「……ありがと。私も治子が大好きだよ。」


 どうすればいいか分からずにただ、毎回そう返している。


「嫌いなところが思いつかなくても、直したいところとかあるでしょ?それでいいんだよ。」


 私がそう返すと治子はいつも無理やり話を戻す。

 何事もなかったようにいつも通りの笑顔を浮かべていて、黒目の曇りなんて微塵も見えない。

 そうなるとどうしようもなく、私も忘れたふりをして話を戻す。


 自分の直したいところ、と考えると先刻とは打って変わって沢山思いつく。

 英語を書く時に中途半端な筆記体のような、自己流の文字を書いてしまうところ。

 菌が入るかもしれないとわかっていても、ついつい目を擦ってしまうところ。

 歴史の授業で眠くなってしまうところ。

 だらだらと何時間もスマホを見てしまうところ。


 こんな細々とした不満は誰でも持っているのではないだろうか。

 私もこの程度の不満ならいくらでも出てくるが、今治子が求めているのはこんなものではない気がする。

 もっと壮大で抽象的な、人間性そのものに関することを言っている。

 長年の付き合いが呼ぶ勘と、自分の分を書き終えてこちらを見ている治子の瞳の輝きがそう告げてきた。


「見ないでっていった癖に治子は見るんだ?」


 などと言いながらペンの蓋を開ける。

 油性マジック特有の匂いと治子の視線を感じながら、ティッシュが破れないように優しく文字を書く。

 直したいところを書いた後、治子の指示通りにすべきかと思い、最後に『私』と付け足す。


「ふーん。『人見知りな私』かぁ。ナオのこと人見知りだなんて思ったことないけどな。」


「治子には人見知りなんてしないもん。」


 私の書いた文字を治子が意外そうに読み上げる。


 人見知りなところ、それが私にとっての最大のコンプレックスだった。

 治子と出会った時のようなまだ幼かった頃はなんともなかった。

 けれど歳を重ねるにつれて自分を表現することの難しさや初対面の人への警戒心、それから緊張感に支配され、今のようになったのだと思う。

 全く話せないわけではないのだが、まだ親しくないクラスメイトに話しかけられると焦ってしまい、当たり障りのない短い言葉を言うだけになってしまうのだ。

 かと言って改善する方法なんて検討もつかないのだから、お呪いに縋りたくもなる。


「今更だもんね、それもそっか。書けたら次はーー」


 話しながら治子は自分のティッシュをくしゃっと丸める。

 もう一枚ティッシュを取って、それに丸くなったティッシュを包んだ。

 ふんわりと広がったティッシュの口を輪ゴムで留めると、得意そうに私に見せてきた。


「……てるてる坊主?」


「ご名答!」


 出来上がったそれは小さい頃何度も作った思い出のあるてるてる坊主だった。

 治子は油性ペンのキャップを開け、慣れた手つきでてるてる坊主に顔を描いていく。

 ぐるぐると塗りつぶした円らな瞳、口角の上がった口。

 ちょんちょんと小さな眉毛とぱっつんに切った前髪、それからストレートの後ろ髪も描いている。

 可愛らしくデフォルメされた風貌だが、治子の特徴をよく捉えている。


「上手いね、治子そっくり。」


 真似をしててるてる坊主を作りながら言うと、治子は得意げに笑った。


「でしょ。ナオも自分の顔描くんだよ。」


「えー難しいよ。自分の顔じゃないと駄目なの?」


 作り終えたてるてる坊主を机に置き、ペンを手に取りながら聞く。

 治子はニヤリと笑って「駄目。」と答えた。

 私に絵心がないことは知っているだろうに。

 治子が考えたお呪いだから、何かこだわりがあるのだろう。


「下手でも似てなくてもいいから頑張って描いてね。大事なのは頑張りなのだよ!」


 すっかり高みの見物を決め込んで笑っている治子を無視して顔を描くことに集中する。

 私のてるてる坊主なら、治子のと比べて目は少し小さく、眉は細長くする。

 口はどう描けばいいのかわからなくて、治子とほとんど同じになってしまった。

 不自然じゃないように散らした前髪をギザギザと描き、後ろで結んだポニーテールを描いたら完成だ。


「おっナオに似てる〜!上手いね。」


 ひょいと私からてるてる坊主を取り上げた治子は、描いたばかりの顔をまじまじと見つめている。

 決して上手い絵ではないしちゃんと似ているかも分からないが、治子が満足したなら大丈夫だろう。

 治子は2つのてるてる坊主を持ったまま机の上に散乱した道具を手早く片付けると、「じゃ、行こっか。」と席を立つ。


「どこ行くの?お呪いは?」


 慌てて席を立ちながら私が聞くと、治子は一際目を細めて笑った。


「お呪いする場所!教室でやるのは下準備だけだよ。」


 治子はブレザーのポケットから取り出した自転車の鍵を指先で回しながら踊るように歩き出す。

 鍵についている白い兎のキーホルダーが少し可哀想だった。


 教室を出て自転車置き場に行くと、治子は乱暴に鞄を籠に入れてすぐに自転車を出した。

「待ってね。」と一言断ってから鞄の中を探る。

 校則に基づき電源を切っていたスマートフォンを取り出して電源を入れる。

 そのまま鞄に戻して代わりに自転車の鍵を取り出した。

 鍵からぶら下がっている薄茶色の兎のキーホルダーは、色違いで治子がくれた物だ。


「お待たせ。」


 鞄を籠に入れ、鍵を差して自転車を出しながら声をかける。

 そう時間がかからないとわかっているはずなのに、治子は本を読みながら待っていた。


「よし、じゃあついて来て!」


 鞄を放り込む時よりは幾らか丁寧に本を籠の中に入れると、治子は重そうにペダルを漕ぎ出した。

 私もぐっと右足に力を入れて漕ぎ出し、治子の後について行く。

 治子は横に並んで欲しいようでいつも振り返って手招きしてくるが、私は首を横に振って一列走行を厳守する。


「ナオって本当に真面目だよねー。」


 治子は不満そうに大きな声で言ってくる。

 隣に並んだ方があまり大きな声を出さなくても聞こえて話しやすいと私も思うが、道路交通法違反をするわけにはいかない。


 車の音にかき消されないような大声で会話をしながらいつもの下校ルートを走ること約10分。

 小学生の頃、夏に遊んでいた川にかかった橋の真ん中で治子の自転車が停車した。

 大きな道路からはかなり離れていて、ほとんど車も人も通らない小さな橋。

 通行人が来たりはしないだろうと思いつつも、一応ギリギリまで端に寄せて自転車を駐める。


「夏休み、毎年ここで遊んだよねー。懐かしい。」


「お呪い、ここでするの?」


 欄干に両腕を乗せて水面を眺めている治子に聞く。

 治子はブレザーのポケットから2つのてるてる坊主を取り出すと私の手を掴んで、私が作った方をを握らせてきた。

 そのままぐっと私の腕を引っ張って、手を離すとてるてる坊主が水に落ちてしまうところまで持ってきた。


「このてるてる坊主を川に落として欠点を捨てちゃう!それがお呪い。」


「ポイ捨てじゃない?いいの?」


「当てるてる坊主は環境に優しい素材を使用しております。」


 治子は言いながら手を伸ばして私のにくっつきそうなほどてるてる坊主を近づける。

 川に半分沈んだ夕日をバックに2つ並んでいるてるてる坊主はどちらも感情の読めない顔で笑っていて、なんとも言えない可愛さがあった。

 空いている手でスマホを取り出して、その姿を写真に収める。


「なんで撮ったの?」


「なんかエモいなって思って。ストーリーあげていい?」


「いいけど……。」


 SNSの類を殆どやっていない治子は不思議そうにしながらも了承してくれた。

 メッセージアプリはやっているが、以前連絡先を見せてもらうと両親と私の名前しか登録されていなかった。

 アップするのは後にしてスマホをしまう。

 てるてる坊主を眺めていると、治子がこつんと自分のてるてる坊主の頭を私のてるてる坊主にぶつけてくる。


「去年までは1人でやってたんだけどねー、2人だと心中みたいで素敵。」


「心中?」


「色んな意味があるけど……私が今言いたいのは愛してる人と一緒に自殺すること。」


 夕日が反射した目をきゅっと細め、治子は愛おしいものを見るように2つのてるてる坊主を見つめている。

 聞き慣れない言葉に私が首を傾げると、治子は慣れたようにスラスラと答える。


「自殺!?物騒なこと言わないでよ。お呪いでしょー、誰も死なないじゃん。」


「…………そうだね。」


 しばしの沈黙の後、治子は私を見てにこりと笑った。

 口角はぐっと上がっていて、目は完全に閉じている最大の笑顔だけれど、あまり嬉しそうには見えなかった。


「じゃあ、せーので手を離そう。」


 私が頷くと治子は弾んだ声で「せーのっ!」と叫ぶ。

 治子と同時に手を離すとてるてる坊主はゆっくりと落ちていく。

 風でティッシュがふわりと広がって、綺麗な2つの円を作っている。

 殆ど同時に着水すると、溶けるように沈んでいって見えなくなった。


 多分3分くらい、そのまま揺れる水面を眺めていた。

 欄干に置いていた私の手に治子が無言で手を重ねてくる。

 ちらっと治子の横顔を盗み見ると、てるてる坊主を見ている時と同じ目で重なった手を見つめていた。


 あの日はそのまま寄り道せずに、帰宅した。

 治子は別れるまでずっと無言で嬉しそうに笑っていて、私も話かけられずに無言で帰宅した。





 13年前、6月13日

 本当にお呪いが聞いたのか、勇気を出すきっかけになったのかはわからないが、あの頃から少しずつ他人と緊張せずに話せるようになっていった。

 治子以外の友達も増えて、放課後によく遊ぶようになった。

 治子と一緒に帰れない日や話さない時間が増えたけど、登校は変わらず毎日一緒だ。


「ナーオ、今日は何の日でしょうか!」


 今日も片手に本を持った治子が弾んだ声で聞いてくる。

 太宰治の『女生徒』と書かれた桃色の表紙の本は治子が持っている本の中では、まだ汚れていない方だった。


「えー、今日何かあったっけ?」


 首を傾げる私を見て、治子は「お呪いの日だよ!」と答えた。

 黒板右端の日付は6月13日。去年も似たようなやり取りをして、こうして日付を見た気がする。


「今年もやろう?」


 期待に満ちた目を向けてくる治子に申し訳ないなと思いながら首を横に振る。


「ごめん、今日友達とクレープ食べに行く約束してるから一緒に帰れないの。本当にごめん。」


 治子は一瞬悲しそうに目を伏せたが、すぐにニコリと綺麗な笑顔を浮かべる。


「……そっか、じゃあ仕方ないね。」


 大きな目を少しだけ細め、きゅっと閉じられた桜色の唇を吊り上げた笑顔。

 ーー治子って、こんな風に笑うっけ?


「奈緒美ちゃーん、行こ!」


 違和感がちくりと刺さるように引っかかったが、バイバイと治子に手を振って席を立った。

 背中に治子の視線を感じたが、気づかないふりをして教室を出た。




 クレープは美味しかったし友達と話すのは楽しかったけど、治子のことがずっと気になっていた。

 もう一度謝ろうと思ってスマホを取り出すと、ちょうど治子からのメッセージを知らせる通知が鳴った。

 通知をタップしてロックを解除すると、治子とのやりとりが表示される。


『明日から一緒に登校しなくていいよ。』


 スタンプや絵文字の使われていない淡白で読点のついた治子らしい文章でそう書いてあった。


『怒ってるよね?本当にごめんm(_ _)m』


『別に怒っていないよ。』


 約8年一緒に登校しているのに突然そんなこと言うなんて、よっぽど怒ってるに違いない。

 そう思って急いで返信するが、飾り気のない文章からは全く感情が見えない。


『本当にごめん』


『私は本当に怒っていないよ。』


 ふざけてるように見えないように装飾のない文章で何度も謝るが、治子は怒ってないの一点張りだ。

 怒っているようにしか見えないが、『じゃあどうしたの?』と聞いてみる。

 既読がついてから2分ほどしてから返事が送られてきた。


『他の人と行くから。それだけ。』


 素っ気無く感じる文を見て、焦っていた頭が余計に混乱する。


 私と行くのが嫌になちゃったの?

 私よりその子の方がいいの?

 私以外に一緒に登校できる友達いたの?

 その子がいたら私はいらないの?


 既読をつけたのだから早く返信しなければいけない。

 だけどぐるぐると疑問ばかりが頭を回って、手を動かさずにじっと画面を見つけることしかできなかった。


「奈緒美ちゃん、この後カラオケ行こーって聞いてたぁ?」


「あっごめん。行こ行こ!」


 急いで返信してスマホを鞄にしまい、昨日のドラマがどうだったなどという会話に参加する。


 これは夜家に帰ってから確認したのだが、『わかった』という私の短い文には既読がつけられただけで、返事は来ていなかった。

 あのお呪いを、私じゃない誰かとしたのかな……。

 そんなことを考えながら、眠れないと訴える瞼を無理やり閉じた。





 11年前、6月13日。

 あの日から私も他の子と登校するようになって、一度も治子と一緒に登校していない。

 下校も同じで、普段は休み時間に少し話すだけになった。

 “親友で幼馴染”から“少し仲のいいクラスメイト”のような関係になってしまった。

 メッセージを送り合う頻度も減って、既読がつくのも遅くなった。

 高3の6月。進路決定の時期なのに、治子が今までのように私の進路を聞いてくることもない。


 去年は治子があのお呪いに誘ってくることもなかった。

 今はもうの放課後なのに誘われていないと言うことは、今年も同じなのだろう。


 こんなに距離が遠くなってしまったのに、誕生日の本の送り合いだけは続いている。

 治子がくれるのは相変わらず少し固い印象の近代文学で、今年は森鴎外(もりおうがい)の『舞姫』だった。

 文語体が難しくて苦戦したが、スマホで語句を調べながらなんとか読み終えることができた。

 治子が好きそうな話だなと思う一方で、2年連続で恋愛小説で少し驚いた。

 今まではいろんなジャンルの本をバラつきよく選んでくれていて、似たような話が連続でくることはなかったのに。


「奈緒美〜帰ろ〜。」


「うん、帰ろ。」


 廊下から声をかけてきた4人の友達に手を振りながら早足で教室を出る。


 たまたまかもしれないが、私は治子の嗜好が変わったのだと思っている。

 そしてその理由は、治子に彼氏ができたからだ。

 去年の6月13日、治子は告白されて彼氏ができたらしく、それから毎日彼と登下校している。

 だから私もこうして別の友達と一緒に過ごしているのだが、寂しくないと言えば嘘になる。


 確かに友達よりも彼氏の方が大切かもしれない。

 私より彼氏の方が好きかもしれない。

 私も彼氏ができたら、治子に割く時間を減らしてしまうしれない。


 でも、こんなにも一緒にいられなくなるものだろうか。

 それともやっぱり治子は怒っていて、私のことが嫌いになってしまったのか。


 廊下を歩いて階段にくると、一つ下の踊り場に治子の姿があった。

 隣には派手な色の髪をした背の高い男子がいて、互いの手に指を絡めあっている。


 ーーまた違う人と一緒にいる……。


 2人のことを見ていると、こちらを見上げてきた治子と目が合った。

 整った口角を左右対称に吊り上げ、人形のような整った笑顔を浮かべている。

 まっすぐにこちらを見つめる大きな瞳は曇っているように見えて、何を考えているのか全くわからない。

 治子はふいと視線を外して、階段を降りていった。


「あいつ、今めっちゃこっち見てなかった?」


「モテますアピール?うっざ。」


 治子がこちらを見ていたことに気づいたようで、みんな怪訝そうな顔になる。

 怒ったような話し声は大きくて、治子達に聞こえてしまいそうだ。

 彼氏ができたといってもあまり長続きしていないようで、治子の側にいる男はコロコロ変わっている。

 そのことをよく思っていない人も多く、治子は一際浮いた存在になっていた。


 ……今年はあの人とお呪いをするんだろうか。

 去年もきっとその時の彼氏として、その前は新しくできた彼氏としたんだろう。


『2人だと心中みたいで素敵。』


 そんな言葉を言って、あの愛おしそうな笑顔を向けているのだろうか。


「まじうざいよねー。ねぇ、奈緒美?」


 私が黙っていることに気づいたのかはわからないが、みんなが一斉に私を見た。

 緊張からか乾いた喉に力を入れて、なんとか声を絞り出した。


「…………うん、そうだね。」


 あははっと出た愛想笑いは酷く乾いていた。

 私の笑い声に釣られてみんなもあははと笑いだす。

 私の笑い声が治子に聞こえていないか、治子が傷ついていないか気になって仕方がなかった。


 だけどここで合わせなければ、きっと嫌われてしまう。

 そしたら治子みたいに、私と一緒にいてくれなくなってしまう。

 それがどうしようもなく怖くて、みんなの意見に賛同することしかできない。

 首を横に振ることは決してできない。

 どうしようもなく1人が怖くて、にこにこと相槌を打ちながら話を聞いているだけの私に、私自身が1番うんざりしている。

 保身のためだけにいい子の治子を悪く言えてしまう自分が、大嫌いだ。


 ごめんね治子、なんて心の中で謝っても、誰にも許してもらえない。





 8年前、4月26日。

「ナーオ!」


「ごめん、ぼーっとしてた。」


 治子に後ろからぽんと肩を叩かれてハッとする。

 振り返るといつも通りの整った笑顔の治子が、文庫本を片手にこちらを見つめていた。

 持ち物が自由になったことで鞄が少し大きくなったことと、私服であることと少しメイクをするようになったこと以外は変わらない、いつも通りの治子だ。


「大丈夫?体調が悪いの?」


「ううん、ちょっと考え事してただけだよ。」


 私が首を横に振ると治子は小さく息をついた。


「それならよかった。今日は一緒に帰ろう。」


 治子はパタンと持っていた本を閉じた。

 偶然か必然か同じ大学に進学した私達は高校1年生の時に戻ったように、仲良くしている。

 といっても私には別の友達もいて、治子には彼氏がいるから、毎日の登下校を一緒にするわけにはいかないのだが。

 私達なりの「ちょうどいい距離感」を見つけたみたいで、良好な関係を築けていると思う。


 夏目漱石(なつめそうせき)の『こころ』と書かれた分厚い本を治子が持っているのを見たのは初めてだが、もう8割程度は読み終えているようだ。

 鞄を開けて本をしまうと、代わりにそれよりは薄い別の本を取り出した。


「はいっナオ、お誕生日おめでとう!」


 にっこりと笑って差し出してきた本は、どうやら私への誕生日プレゼントらしい。

 今日は4月26日。私の21回目の誕生日である。


「ありがとう。ええっと……『在りし日の歌』?」


 ずいと差し出してきた本を礼を言いながら受け取る。

 和柄の表紙には筆文字で中原中也(なかはらちゅうや)『在りし日の歌』と書いてある。

 中原中也は一度教科書に出てきたが、確か小説家ではなく詩人だったはずだ。


「そう、中原中也の詩集だよ。たまには詩もいいでしょう?」


 パラパラとめくってみると本当に詩集だ。

 治子が小説以外を渡してくるのは初めてだ。


「特に私のお気に入りはこれ。」


 治子は私から本を取り上げると、目次も見ずにぱっと目的のページを開いた。

 そのまま返された本をみると、開かれたページには『春日狂想』という詩が載っていた。

 治子はこの場で読んで欲しくて開いたのだろうから、ページに目を落として読み始める。

 治子は何も言わないが、視線を感じて少し読みにくい。

 詩と聞くと短いものを思い浮かべるが、この詩は少し長くて読むのに時間がかかる。


 読み終えて顔を上げると、治子のキラキラと輝く目と目が合った。


「どうだった?」


 治子がこてんと首を傾げるとサラサラの黒髪が肩に落ちる。


「うーん、よくはわからなかったけど……前向きな詩かなって思ったかな。」


 私の答えを聞くと治子は「ふむふむ。」と大きく頷いて、最初の1行を指差した。


「『愛するものが死んだ時には、自殺しなきゃあなりません。』って本当だと思う?」


 さっきよりも深く首を傾げた治子がじっと見つめてくる。

 濁った真っ黒な瞳は何を考えているのか分からないが、何か正解を求めているような気がする。

 多分治子には言って欲しい答えがあって、私がそう言うことを願っているのだ。


 ーー治子が求めている答えはなんだろう。

 なんと言えば正解なんだろうか。

 もう一度文章をなぞっても、黒い瞳をじっと見ても、そんなこと分からない。

 空気を読むのは得意なはずなのに、治子の考えだけはどうしても読めない。

 だから治子にだけは、いつも自分の思ったままのことを話していた。


「私は……、本当じゃないと思う。」


「どうして?」


 今回も正直に、私が思ったことを口に出す。

 治子の反応からは正解だったのか分からなくて、言葉が詰まりそうだ。


「だってこの詩の人は死んでないよね?だから作者も、悲しくても死んじゃだめだよって言いたいんじゃないかなって……思って。」


 治子が表情ひとつ変えずに続きを促してくる。


「それに死んだ人だってその人を愛してたはずだよね。それなら死んじゃった人は自分の後追いなんてしてほしくないって思ってると思うから。」


「……なるほどね。」


 小さく呟いた治子は、ぱっと本から手を離した。

 数回瞬いた黒目がちな瞳は少し潤んでいるように見える。


「解釈は人それぞれだし、本当かどうかは作者にしか分からない。でも私は、ナオの考え好きだなー。安心した。」


 治子はくしゃっと顔を歪ませて笑った。

 薄く目を細め、左右不均等に口角の上がった口から白い歯がのぞいている。

 なんだか懐かしさと安心感を感じるその笑顔に釣られて、私の口角も自然に上がっていく。


 ーー楽しいな。

 単純にそう思った。

 ありのままでいられて、2人で心から笑い合える瞬間がどうしようもなく楽しくて、愛おしい。


「帰ろう。」


 もう一度治子にお礼を言ってから詩集を鞄にしまう。

 私が鞄を持つと治子が隣に立ち、右手に指を絡めてくる。


 2年離れて、また2年一緒に過ごしてようやく気づいた。

 私は治子が1番好きだ。

 他に何人友達がいても1番大切な親友は治子で、1番側にいたい友達は治子だった。

 一緒にいて1番楽しいのも治子で、きっとずっと変わらない。


 多分私に彼氏ができても、結婚しても、治子は私にとって1番大切な親友だと思う。

 就職して忙しくなっても、時間を作って治子に会いにいくだろう。


 治子にとっては彼氏の方が大事でも、私より大切な人が沢山いてもそれでいい。

 親友じゃなくて、普通の友達でもいい。

 今のような「ちょうどいい距離感」をずっと保つことができたら、それだけでいい。





 8年前、6月13日。

 その日は昔からほぼ皆勤賞の治子が珍しく大学に来ていなかった。

 1限の講義で隣にいるはずの姿がなくて、二限目で私の斜め前に座っている治子の彼氏の隣には、知らない男子が座っている。


 空きコマである3限目は近くのカフェに立ち寄った。

 壁一面がガラス張りになっていて、窓際に座ると外の景色がよく見える。


 いつも治子はここで、クリームソーダを飲みながら読書しているので、真似てみることにした。

 今日は曇っていて気温が低いので、ホットのアップルティーを頼む。

 持ってきた本はこの間治子が呼んでいて気になってしまった夏目漱石の『こころ』だ。


 ちょうど紅茶が運ばれてきた時、ピコンとスマホが音を出す。

 点灯した画面は治子からのメッセージが来たことを知らせている。


『今日は大雨だね。梅雨だからかな。』


 アプリを開くと相変わらず飾らない治子の短文が目に入る。

 ……さっきまで降ってなかったけどな。

 耳をすましても雨の音は聞こえず、窓の方に目を向けても雨が降っているようには見えない。

 空は今にも雨が降りそうなほど曇っているが、天気予報でも降水確率はそれほど高くなかった。

『降ってないよ?』と返信すると、すぐに既読がついた。


『そっちは降ってないんだね。』


 1分も経たずに返信がきた。

 治子はどこかに出かけているんだろうか。

 どこに行っているのか聞く前に治子から続きが送られてくる。


『ナオ大好きだよ。』


『急にどうしたの(笑)』


 脈絡もなく急に送られてきた言葉に驚きつつ、笑いそうになりながら聞く。

 既読はついたのになかなか返信が来ない。


『なんでもないよ。』


 メッセージの端に表示されている時間は、前のメッセージから2分も経過していた。

 本人はなんでもないと言っているがやっぱり心配だ。

 すぐに『大丈夫?』と送信したが、何分待っても既読はつかない。


 スマホで全国の雨雲レーダーを見てみると、関東あたりはかなり雨が降っているようだった。

 治子は関東に行っているんだろうか。

 何をしに?関東のどこへ?


 明日学校にきたら問い詰めよう。

 そわそわする心を落ち着かせるべくまだ温かい紅茶を一口啜る。

 それでもおさまらない不安な気持ちを無視してまた本を開いた。


 次の日も、その次の日も治子は学校に来ず、メッセージの既読もつかなかった。





 8年前、6月19日。

 何かあったのではないかと本格的に心配になり、私はとうとう治子の家を訪ねた。

 インターフォンを押すとドアが開き、治子の母親が出てくる。

 髪は乱れて目の下には濃い隈があり、酷く疲れた顔をしていた。


「……あら、奈緒美ちゃんこんにちは。どうしたの?」


 治子の母親は私の顔を見ると口角を上げたが、あまり笑っているようには見えなかった。


「こんにちは。治子、ずっと大学にも来てなくて、既読もつかないんですけど、何かあったんですか?」


 治子だけではなく母親も心配になるが、なるべく普通に聞く。

 治子の母親ははっとしたように目を見開いた後、今にも泣き出しそうなほど顔を歪めてーー震えている唇を開いた。


「奈緒美ちゃん、あのね、治子はーーーー」


 その言葉を聞いた途端、頭が真っ白になった。

 家に入れてもらい何か話をしたはずだが、ほとんど覚えていない。

 無意識に涙が溢れてきて、止まらなくなって、声を上げて泣いていたことだけは覚えている。

 治子の母親も泣き出して、2人で一緒に涙が枯れるまで泣いていた。


 あの日、6月13日、私の1番大切な人はいなくなってしまった。

 そして今日、私の生きている世界から消えてしまった。


 確かに治子はふらっといなくなってしまいそうな不思議な子だった。

 けどいざそうなると現実味はなくて、治子からメッセージが来ているのではないかと何度もアプリを開いてしまう。



 家に帰っても他のことをする気になれなくて、自室でぼーっとしていた。

 すっかり日は傾きカーテン隙間からオレンジ色の光が入ってくるが、昼食も夕食も摂る気になれない。

 心に穴が空くってこういうことかな、などと思っているとコンコンとお母さんが扉をノックする。

 そのまま扉が開いて、郵便物を持ったお母さんが入ってきた。


「はいこれ、あなた宛よ。」


 私の事を心配してそっとしておいてくれているお母さんは、荷物を渡すとすぐに出て行く。

 片手て楽に持てる、少し厚みのあるそれは、手紙というより本のようだった。

 …………本?

 私に本を送ってくる人物なんて、1人しか思い当たらない。

 はやる気持ちを抑えて送り主を確認すると、整った文字で“中谷治子”と書いてあった。


 その文字を見るだけで溢れかける涙を堪えて封をあける。

 中には少し分厚い2冊の本と、手紙と思われる3つ折りの紙が入っていた。

 1冊目はいつか治子が読んでいた谷崎潤一郎の『痴人の愛』。

 2冊目は治子の愛読書のひとつである太宰治の『人間失格』。


 震える手で手紙を開くと、可愛らしい便箋ではなく400字詰の原稿用紙だった。

 きっと中学生の時に憧れだけで買っていた高い万年筆で書いたのであろうブルーブラックのインク文字を指でなぞる。



 拝啓 親愛なるナオへ


 この荷物は日時指定でこっそり送りました。

 私のお母さんには秘密にしてね。

 次のクリスマスとナオの誕生日の分の本、もう渡しておくね。


 私、死んじゃったよ。

 びっくりしたでしょ。ごめんね。


 何で死んだのかって聞かれても決定的な理由はないけど、大人になることが怖かったんだ。

 それに読みたい本も無くなっちゃったから。


 ナオ、私と出会ってくれてありがとう。

 ナオが一緒にいてくれたからここまで生きてこられたんだと思う。

 私にとって読書以外のことは全部苦痛に近くて、正直生きづらかった。

 でもナオのためなら色々なことを頑張れたんだ。

 ナオが一緒なら、何でも楽しかったんだ。


 だけど、ずっとナオと一緒にいることはできないだろうなって思った。

 私にとっての1番はずっとナオだけど、きっとナオには他に大切なものができる。

 同じ学校に通ったように、同じ会社の同じ部署に就職することはできないだろう。

 そうなったら私は生きていけないと思う。

 だから大人になるのが怖かった。


 だからナオみたいに、ナオ以外の大切な人を、2番目の人を作ろうと思ったの。

 でも、誰と遊んでも全然楽しくなかった。

 ナオじゃないとダメみたいだっだ。

 私が、ナオの1番になりたかった。

 私が何よりもナオを大切に思っているように、ナオに何よりも大切だと思ってもらいたかった。


 重い女でごめんね。

 死んじゃった私のことは忘れて、ナオは自分が生きたいように生きてね。

 だけど、たまにはお墓参りに来てくれたら嬉しいな。

 仕事決まったら教えてね。面白い話があったら聞かせてね。

 彼氏とか連れてきてよ、私がナオに相応しい人か見てあげるから(笑)。

 ナオがたまに使っている(笑)はこの使い方で合っているかな。


 私は最後のお呪いをするね。

 何にもできない私は川に捨てちゃうね。


 ナオは絶対素敵な大人になって、長生きしてね。

 100歳まで生きてね。応援してるね。

 今まで本当にありがとう。

 世界一大好きだよ。


 敬具 中谷治子



 溢れ続ける涙で原稿用紙を濡らしながら最後まで読み終えた。

 微かに紙とインクと、いつも治子からしていたシャンプーの香る手紙を抱きしめる。


 死なないでほしかった。私も治子が1番だよ。忘れられるわけないじゃん。

 治子に言いたいことがありすぎて、涙と同じく溢れでる。


 遠慮なんてせずに1番大切な親友だと、大好きだと伝えていれば、治子は死ななかった?

 ずっと一緒にいようって言えばよかった?

 私がもっと沢山本をプレゼントして、治子が読みたいと思える本を見つけてあげればよかった?

 どうすればよかったんだろう。

 どうしたら、大切なものを失わずに済むんだろう。


 顔をあげると、止まらない涙でぼやけた視界に本棚が映った。


 上中下の3段に分かれていて、高さは1メートルほどしかない小さな本棚。

 1番下の棚には参考書や教科書が、真ん中の棚には小さい頃に買ってもらった絵本や、読書感想文用に買った児童書が。

 そして1番上の棚には、治子から送られてきた小説達がしまってある。


 初めて本を一冊貰った時は興味も読む気もなくて、ほぼ新品のまま棚の隅に置かれていた。

 それが歳を重ねるごとに増えていき、少しずつ読むようになっていって、今では本棚の一段を占領している。

 1番端にあるのは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。

 その隣にあるのは太宰治の『走れメロス』。

 さらにその隣は宮沢賢治(みやざわけんじ)の『注文の多い料理店』で、反対側の端は中原中也の『在りし日の歌』。

 作者順でも発売順でもなく、治子から貰った順で並んでいる。

 バラバラな並びで目当ての本を探すのに苦労するが、治子との思い出を辿れて気に入っている。


 最初にくれた『蜘蛛の糸』は治子が気に入っていた本。

 それが読みづらいと伝えると、そこからしばらくは『走れメロス』や『注文の多い料理店』のような子供向けの本の現代語訳版をくれた。

 私が読めるようになってくると『高野聖』や『たけくらべ』、『高瀬舟』、『金色夜叉』、『羅生門』、『三四郎』、『舞姫』等。

 こうして見るとただ好きな本をくれていたわけではなく、ちゃんと私が楽しめるように工夫してくれていたのがわかる。


『在りし日の歌』の隣にあいた小さな隙間に、少し無理をして2冊を入れ込む。

 少し迷ったけど、濡れてしまった原稿用紙も本棚に押し込んだ。


 代わりに『在りし日の歌』を取り出して、パラパラとめくる。

『春日狂想』のページでめくるのを止めた。

 治子に見守られながら読んだあの時のように、ゆっくりと、一文字一文字をなぞるように読む。


 きっとこの詩は、治子からのメッセージだったんだ。


「解釈は人それぞれだし、本当かどうかは作者にしか分からない。でも私は、ナオの考え好きだなー。()()()()。」


 あの時治子は、何に安心したの?

 ほんの少しだけ引っかかっていた言葉の意味が、今ならよく分かった。


 パタンと本を閉じた。

 はあっと、大きく息を吐く。


 ーーーー本当に君は、ふらっといなくなってしまっただけなんだね。

 それでも、私のことを考えてくれていたんだね。


 詩集を本棚に戻して部屋のドアを開ける。

 何か食べよう。そして今日はもう寝よう。

 だって私は生きなければならない。

 誰よりも健康に、誰よりも長く。

 治子が心配しないように。





 詩を読み終えて本を閉じた。

 在りし日の思い出を巡っていた私の頭が、治子のいない今に帰ってくる。

 ぽろぽろと涙が溢れて視界がぼやける。

 もう何年も続けているのに、いまだに涙が出るのは何故だろう。


 ちょっと変わっていて、思考の読めない君のことを勝手にわかったつもりでいるけれど、やっぱり1つだけわからないことがあります。

 教えて。君はどうして、私に何も言ってくれなかったの?

 もし一言でも相談してくれたらずっと一緒にいるよって言った。

 大好きだよって言ったのに。

 君と一緒にいるためなら、何でもしたのに。


「ーー素敵な詩ですね。」


 突然話しかけられて顔をあげると、同い年くらいの女の人が立っていた。

 淡い水色のワンピースを着た、清楚な印象の長い黒髪の女性。

 黒目がちな目を優しく細めて笑っている。


「煩かったですよね?すみません。ありがとうございます。」


 慌てて涙を拭って笑顔を返す。


「とても素敵な詩で、気に入っちゃいました。私も購入させていただきたいので、題名をお聞きしてもよろしいですか?」


 女性は私が手にしている本をじっと見つめて聞いてきた。

「それなら……。」と鞄の中からもう一冊同じ本を取り出す。


「こちらを差し上げます。」


「よろしいのですか?それにどうして同じ本を3冊も……?」


 供えてある本と、私の手元にある2冊の本を見比べながら戸惑っている。

 そりゃあ普通は同じ本を何冊も持ち歩かないだろうから、この反応は当然かもしれない。


「この本を書いたの、私なんです。」


「ええ、すごいですね!あんな素敵な詩を書けるなんて!ええと……河合奈緒美先生?」


 私から本を受け取ってまじまじと見つける女性の頬は少し紅潮している。

 なんだか少し照れくさいけど、嬉しい。

 この本は今日出版されたばかりで、先程買ってきたものだ。

 自分の分だけでなく実家に送る分、親戚にあげる分、と毎回沢山買ってしまう。


「『6月19日の君へ』ですか。今日みたいに毎年読みたくなっちゃいますね!私、小説とか詩を読むのが大好きなんです!」


 こちらを見つめてくるキラキラと輝く瞳が記憶の中の治子と重なって、堪えていた涙がまた溢れそうになる。


「ーー今日、6月19日は、私の親友が死んでしまったことを知った日なんです。13日から連絡が取れなくて、それで……。」


 楽しそうな表情で本の中身を見ていた女性は顔をあげると、悲しそうに眉を下げた。

 治子からの荷物が届いたあの日、私は作家になることを決めた。

 治子の読みたい本が無くならないように、治子の読みたくなる本を書き続ける人になりたいと思った。


「その親友も本が好きだったんです。だから私が作家になって、一生生きたい、私の作品を全部読むまで死ねないなってその子が思うような話を書きたいって思って、作家になったんです。」


 さっきまで楽しそうだった顔がみるみる悲しそうになっていくのを見てハッとする。

 知らない人に暗い話をしては駄目だ。


「すみません、あなたが親友に似ていたのでつい……。そんなことしてももう意味ないのに、おかしいですよね。」


「おかしくなんかないですよ。」


 あははと私が苦笑いをこぼすと、女性は厳しく眉を寄せた。

「そんなこと言わないでください。」と、子供を叱りつけるように言う。


「私の大切な人も、作家で、5年前の今日に亡くなったんです。私も後追いしようと思ったこともあります。でも彼の残した作品を全部読み終わるまで死んじゃ駄目だとメモが残されていて、私は5年間、死ぬために彼の作品を読んでいました。」


 過去を懐かしむような穏やかな笑顔で語っている。

 私は少しでも治子の話をしようとすると泣き出してしまうのに、この人は強いな。


「先月、やっと全部読み終えたんです。だから今日は、最後に彼のお墓に挨拶をしてから死のうと思っていたんです。」


「そんな!考え直してください!」


 私が思わず大きな声を出すと、彼女は優しく宥めるように笑った。


「『私が2倍の景色を見て、いつか君に会った時に半分こしよう』って、とっても素敵ですね。」


 私の詩の一部を読み上げられ少し恥ずかしいが、「ありがとうございます。」と礼を言う。


「さっきあなたの詩を聞いて、考え直しました。私、色々なところに行こうと思いました。彼が行きたがっていたイギリスとかに行って、いろんなものを見て、いつか死んで彼の元へ行った時に、沢山土産話をしようと思います。私、もうあなたのファンになってしまいました。彼が見たがっていたものを全て見て、あなたが書いた本を全て読むまでは、死ねません。」


 目を閉じてにこやかに笑う目尻に涙が光った。

 今会ったばかりの人なのに、もう絶対に死んでほしくないと思っている。

 死ねないという言葉を聞いて、心底ホッとした。

 治子に似た人を助ける手伝いができたんじゃないかと、少し嬉しくなった。


「なら、私は一生かかっても読み終わらないくらい、沢山作品を書きますね。」


「ありがとうございます、奈緒美先生。私、読み切るのに必死になって読書の楽しさを忘れていたんだと思います。本は私にいろんな感情と言葉をくれる、とても素敵なものだと、先生のお陰で思い出せました。」


 女性は瞳を潤ませて温かい笑顔で本を見つける。


「帰ったらもう一度、彼の本を読み返そうと思います。今度は素敵な言葉を探しながら。」



 女性はにこりと笑うと「そろそろ失礼しますね。ありがとうございました。」と言って深々と頭を下げる。

 私も同じように頭を下げると、女性は彼の墓石があるのであろう方へ歩いて行った。

 私の本を大切そうに抱えながら。


 ーーーー拝啓 6月19日の君へ


 私が作家になったと知ったら、君は喜んでくれますか?

 私の本を沢山読んで、太宰治や谷崎潤一郎の本と同じくらい、気に入ってくれますか?

 もし君が生まれ変わったら、沢山私の本を読んで育って欲しいです。

 もし君が生まれ変わらずに、私が死ぬのを待っていてくれるのなら。

 天国で私の本を読んでくれていますか?詩を読む私の声を聞いてくれていますか?


 君がもう2度と不安にならないように、何度でも伝えます。

 君は何もできないんじゃないよ。

 君はなんでもできるよ。

 私は今でも、君が1番大好きです。

 ーーーーーー愛してるよ、治子


 敬具 河合奈緒美

最後までお読みくださりありがとうございました!

よければブクマ、評価、感想などよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最初はお呪いの日に治子ではない友達と約束をしていたからという理由で、おそらくは奈緒美を遠ざけたのだろう彼女に複雑な感情を抱きました。 しかし二人の距離が元通りになってからも、どことなく遠い…
[良い点]  物語の冒頭ですでに治子が故人であることが提示されていたために、その後一体彼女の身に何が起こるのだろうかと、ドキドキハラハラしながら読み進めることができました。  中也の「春日狂騒」の使い…
2023/08/31 21:57 退会済み
管理
[良い点]  ひとつの短編として、止まることなく読むことができ、おもしろかったです。  また、お話の中に出てきた作品を読んでみたくなり、それを読んでから、このお話を読むと、また違った印象を得られるかも…
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