合わないスーツ
でもユイはまだ男を知らない。結婚まではそういう行為はとっておきたいというユイの気持ちをカイトは受け入れて待つと言っていた。いつの間にかカイトの電話は切れていた。かけ直しても全然つながらなかった。総務のタジマさんは会議で不在だった。付箋にメッセージを残して書類とバターサンドを机に置いてその場を離れた。研究者たちはこれから外部業者との打ち合わせに入る予定だし、実験班のバイトリーダーに休憩時間のキュー出しを頼んでおいたからあわてて戻る必要もない。本館を出てピエロのハルがいた人工池のある枯芝の広場に向かった。道路を横断しようとしたら、最寄り駅と研究所の間を往復する小型バスが来たので通り過ぎるのを待った。
ユイにとって幸せとはサイズの合わないスーツのようだった。着心地の悪さにいらだち乱暴にぬいでそのまま捨ててしまいたくなる代物といえた。時折ユイの足元には黒い水たまりのような穴がにじみ開き、そこから伸びてきた見えない手につかまれて生ぬるい沼の中へと引きずり込まれた。本当は自分など生きていてはいけないのではないか? 自分が生きていることで周りの人が不幸になるのではないか? そんなゆえなき奇妙な罪悪感の沼に一度ハマるとなかなか這い上がれずよく自暴自棄になった。覚醒した黒い沼は渦を巻き始める。その渦にユイは巻き込まれて呑み下されて、黒い水に手先、足先、髪先のすみずみまでを侵されていった。すべてに倦んでうなだれた百合の花が根元からぽっくりと堕ちるように、手や足や首が胴体からもげ落ちてしまい、すべてを奪われていくような絶望と恐怖に襲われるのが常だった。
ユイの家は建築設計事務所で働く父、専業主婦の母、三つ年下のサッカーマニアの弟の四人家族で、経済的に恵まれていて家族仲もよかった。ただ順風満帆な生活に居心地の悪さを感じたユイは、親に行けと言われて入ったお嬢様学校と呼ばれる私立女子高の同級生たちとは遊ばずに、市立中学時代の同級生の不良と一緒に煙草を吸ったり、夜クラブで遊んだりして補導された。不良の同級生はそれぞれ彼氏や遊び相手がいて、集まると性的な話題で盛り上がることが度々あったが、アマノジャクなところのあるユイは、どんなにバカにされても自分は結婚まで処女を守ろうと決心した。ドラッグにも手を出さないと決めた。ユイの思春期の変化に母親はおろおろして、「どこへ行くの」、「いつ帰って来るの」と口うるさくなったが、父親は基本何も言わなかった。ただ必要があれば警察に迎えに来てくれて、「自分を大切にしろ」、「人様に迷惑をかけるな」とだけ言った。弟は「ねえちゃんウケる。化粧がケバいわー」と笑っていた。根が飽きっぽいユイは高校二年の半ばには不良たちとも疎遠になった。話題が男かオシャレかドラッグのことばかりでタイクツになってきたのだ。親も安心したようだった。大学に入ってだいぶ経ってから、「あなた、以前おかしかった時期あったでしょ? あの時お父さん、『子供を信用するのは親の大切な仕事のひとつだ』って言っていたのよ」と母親から聞いた。
近くの共学の大学の映画サークルに入ったユイは、そこで初めての彼氏ができた。ちょっとカッコつけだけど根は優しくて照れ屋なウディ・アレン好きのステキな彼氏だった。新入生歓迎会の後、気が付いたらユイは彼氏の友達とラブホテルのベッドで並んで寝ていた。実際は二人ともへべれけで何もしていないのだけど、疑われても仕方のない状況だった。正体をなくした二人がホテルに入っていくのをサークルの子が見ていたらしい。まだキスもしていなかった彼氏は、「人生とは無惨とみじめさで出来ている」と、誰かが言ったであろう台詞を残すとサークルをやめてユイの元を去った。
「自分でわざと幸せを壊そうとしているんじゃない? そういうの、『幸せ恐怖症』っていうらしいよ 」と同じゼミのキョウコが分析した。ユング心理学の授業が大好きな子だった。ただなぜそんなことになるのか、どうやったらそれをなおせるかについては、キョウコもユング教授も知らないようだった。
駅へ向かう小型バスが通過するのを待ってユイは構内道路を渡った。風が強くなってきた。吹きさらしのボブヘアの乱れを直しながらスロープを降りていると何者かに呼び止められた。
「オイオマエ! 」
金属的なぎこちない声が上から降ってきた。
「ドコカラキタ?」
ユイが長い首を伸ばして見上げると、真っ赤な体に宿るまん丸の黒目とかち合った。曲がりくねった木の枝に留まった派手なオウムがユイに話しかけていた。
「え?」
「ドコカラキタ?」ともう一度オウムが聞いた。
「そこの本館から」とユイは面白がってオウムにまともな返事を返してみた。
「チガウ!」とオウムは怒ったように言った。
「オマエ、ホントウワドコカラキタンダ?」
なにやら様子がおかしい。戸惑うユイのことなど介せずオウムはがなり立てる。
「オマエシッテルカ? コノセカイワナ、マチガッタセカイナンダゾ」
オウムはオレンジのクチバシで左の羽根の毛づくろいを始めた。そして不意に我に返ったように下にいるユイに視線を落としてまた話し出した。
「コノセカイワナ、フセイニツクラレタセカイナンダヨ! シラネェダロウナ」
フセイニツクラレタセカイ? オウムは人を小馬鹿にしたような目をさらに丸くしながらクチバシをくいっと斜め上にあげると、左足の四本の指を大きく開いたり閉じたりして空をつかむような動作を繰り返した。透明なボールを使ってフォークボールの握り方を確認しているピッチャーみたいだった。やがてピッチングの調整が終わったのか、左足をおろして枝を握り直すとそのまま左側に思いっきり体をねじりながら「ゲエッ」と叫んだ。
「キヲツケルンダナ。チュウイイチビョウケガイッショウダ」とその種にしてはいやに長くて黒い舌をべらりと出す。
「注意一秒ケガ一生」? 飼い主の口癖なのだろうか。それにしてもなんで研究所にオウムがいるんだろう? ユイはつやめいた三白眼気味の目をくるくる動かして考える。何かの実験で使っているのが逃げたのか。動物を使った実験をしているなんて聞いたことないけど。ユイは不審に思った。
こちら只今休載中です。現在「神隠しの森…」連載中なので、よければそちらをご覧ください。タイミングが来たらこちらも再スタート予定です。しばらくお待ちください…(^^)