クリオネのひらめき
いつもなら一階まで階段でおりるところをこの日はエレベーターを使うことにした。体のあちこちが痛くて、特に左側の膝や手の付け根が熱を持って腫れていた。朝の通勤列車でうとうとしている時に、線路に落ちて電車に轢かれそうになる夢をみた。駅到着のアナウンスで運良く目覚めて急いで座席から立とうとした時に体の痛みに気づいた。線路に落下したのは夢なのに、打ちつけた所が実際に傷んでいた。骨折まではしていないようだったので、とりあえず左足をかばいながら会社に向かうバスに乗り込んだ。研究室の中はサウナレベルに暑く感じた。多分前日の帰宅時に研究員が暖房のスイッチを切り忘れたのだろう。なぜか設定温度が三十五度になっていた。一旦スイッチを切ったがすぐには室温は下がらない。上着を脱いでシャツの袖先をまくりあげて現れた左の前腕を見てぎょっとした。腕の内側に走った生々しいみみず腫れの周囲に赤紫のあざが点在していて、その上にいくつかの注射痕があった。ユイには何の覚えもない。異様な腕をまじまじと見ていると、あざは赤紫の蟻の群れみたいに盛り上がり、もぞもぞとざわめき出した。群れは次第に荒く乱れていくユイの呼吸の振動に合わせて不規則に膨らんだりへこんだりした。ユイは掌を固く結んでその様子を眺めていた。拳の爪が手のひらに深くめり込んで新たなあざができそうになる頃、蟻の群れはヤバい溶液をかけられたように黄色に変じて肌色に溶けていった。そのうちみみず腫れもひいていき、魔法棒から粉でもかけたみたいに痛々しい傷はすべて跡形もなく消えていった。注射痕もいつの間にかなくなっていた。知らないうちにドラッグでも盛られて錯乱しているのかとユイはぐらつく頭で考えてみたが、思い当たることは何もなかった。そしてユイの左腕は平凡でありふれたいつもの腕に戻っていた。
ギョロ目が出勤してきた。「おはようございます」とユイは平静を装って言いながらも、袖を伸ばして呪われているかもしれない左腕を隠した。防腐剤を塗られて鼻下から首下までを包帯でキツキツに巻かれている途中のミイラみたいにベージュのマフラーをしてきたギョロ目は、「あっつー」とあえいだ。傷跡は消えたが左腕はまだ少しムズムズと何かの根が残っているようにかゆかった。
一階に到着したエレベーターの扉が開くと、ちょうどフレックスで出勤してきたカナが立っていた。仕立てのしっかりした真っ白のロングコートが似合うカナは、ユイに気づくと、「おはよう」とほほ笑んだ。同い年のカナは別の研究チームの秘書で、自宅の駅がたまたま隣同士だった。帰りのバスで会い何度か一緒に帰るうちに、同じ派遣ということもあって仲良くなった。育ちがよさそうでいつも穏やかな優しいカナの声を聞くと、しつこい夢魔のようにいまだ左腕にまとわりついている忌まわしい幻影の残滓がすっかり掃き浄められていくのを感じて、ユイは清涼の瞳でカナに「おはよう」と返した。
研究棟を出て外気に触れたユイは肩をすくめながら宏大な構内の真ん中を突っ切る坂道を上って本館に向かった。まだ左足は痛かったがあまり気にならなくなってきた。スマホを見ると弟のシンヤからLINEが来ていた。シンヤの手配で今週末に両親を呼んで寿司屋でユイの誕生日会をしてくれるらしいのだが、彼氏の「カイトにも声を掛けておいた」という連絡だった。相変わらず気のいいヤツだなとユイは弟のことを思う。姉弟は小さい頃から一度もケンカしたことがなかった。「ありがとね」とユイはLINEを返す。そこに急にカイトから電話が入った。電話を取ろうかどうしようか、ユイは一瞬迷った。
ある日ユイは母の学生時代からの親友のスミレさんから、「あなたのこと気に入ったという人がいるから一度会ってあげて」と言われた。それがカイトだった。ユイと母とスミレさんの三人は時々一緒にご飯を食べに行くのだが、その日はスミレさん家の近所にある、ボリューム満点のおいしいうどんで有名な居酒屋に立ち寄った。カイトはスミレさん家の隣家の息子でたまたまその日に店で友達と飲んでいてユイ達を見かけたのだった。カイトはユイ達の様子を少し離れた席からずっと見ていたがその時には声は掛けてこず、後日スミレさんにユイとのデートをセッティングしてもらうようお願いした。理系の人と話が合うかと心配なユイだったが、スミレさんが「あなたより三つ年上の二十七歳で、電機メーカーでSEやってる子。すごいいい子だから会ってあげてよ」と八回くらい言うので、スミレさんの顔を立ててとりあえず一度は会うことにした。
横浜の崎陽軒本店ビル一階のカフェで昼に二人きりで会うことになった。無理やりくっつけられても困るので、スミレさんが一緒に来ると執拗に迫るのをユイは断った。カイトは割にがっしりした体格でブルーのリネンシャツに白いコットンパンツ、素足に茶色の革靴と爽やかな出で立ちでやって来た。その爽やかさで結構女性から好かれそうに見えたが、話すと中身はおばあちゃんだった。カイトはおいしいお団子や崎陽軒のシュウマイのホタテや海老名のいちごと言った食べ物の話、それから温泉、あとどこかの特産品の傘屋の話をした。旅行好きらしい。
「今日の格好はスミレさんがこの日のために選んでくれたのを丸ごと買って着てます」とカイトは説明した。カイトはずっとユイの左手中指のネイルのストーンあたりを見つめながら話した。
「普段はTシャツにジーンズです。今なんか緊張して足のうらも汗びっしょりで、靴下ほしいです」と言った。ユイがあまりしゃべらないので、カイトは「お疲れですか」と声を落として、ちらとユイの顔を見た。
「ごめんなさい、寝不足で」とユイは答えた。
「お仕事ですか」
「いえ、実は今朝見た夢が血みどろの夢だったんです。『羊の沈黙』のレクター博士に似た人、ひどく似ているけれど、違う、もっと凶悪なだれかに追いかけられている夢なんです。なぜか街中の銃撃戦にも巻き込まれて、車に乗って逃げようとしたけど、ドアが開かずにパニくってるところで目が覚めました」とユイは一気に話した。
「そうでしたか」とカイトは首をかしげた。
「その博士は物理学者かなにかですか?」
理系かどうかとは関係なく二人は話が合わないようだった。ユイは理系にもおばあちゃんの好きそうなものにも興味がなく、またカイトはユイの好きな音楽、アートやお笑いといった芸術・芸能には無関心のようだった。
「違うっていいですよね」
話が途切れてしばらくした後、カイトがコーヒーを一口飲んでから言った。
「うん?」
「似た者同士も居心地よくていいと思うんですけど、これからの長い人生を一緒に歩いていく人となったら、似ている人より自分と違う人を選んだ方が断然いいと自分は思ってるんです。お互いの足りない部分を補い合うのは、違うものを持っている者同士だからできることかと」
「はい」とユイは話を促した。
「それにどちらかがどちらかに合わすのではなくて、その違いを強調するくらいでいいんじゃないですかね。それぞれの良さを生かしながらも、何かを決める時には、相手との中間点というか妥協点を見つけていくっていうのが、自分の理想なんです」
カイトはユイの目をしっかり見ながらそう語った。カイトと別れた後、ユイは駅の改札口に入る直前に、店のトイレの洗面所にスマホを置き忘れたと思い、来た道を引き返した。すると店近くの自販機で小さいおばあさんがお財布から小銭をばらまいたらしいのを一緒に拾っているカイトを見つけた。カイトはきれいなパンツが汚れそうなのも気にせず自販機の下の小銭も拾おうと手を伸ばしていた。声は掛けずにそのまま崎陽軒本店に戻ったが、結局勘違いでユイの財布はカバンの中にあった。確かにカイトの言うことは一理あった。そういうものかもしれないなとぼんやり考えながら帰途についた。その日の夜カイトから「あの後海老名にいちごを買いにいったら渋滞に巻き込まれました。それ以外はいい休日でした。今度一緒にいちご狩りに行きませんか」とLINEが来た。ユイはたいしていちごが好きでもなかったけれど、そんないちごを狩るのも悪くないような気がしてきてOKの返事を出した。そしてそのまま二人は結婚を前提に付き合うことになった。
ユイはカイトからの電話を取ろうかどうしようか迷った。普段仕事中には私用の連絡は取らないことにしている。けれど今回は何となく気になって電話を取った。
「どした?」とユイ。
「今仕事中だからあまり長く話せないかも」
「あー、ごめん、今日休みかと思ってた」とカイトは言った。
「有給は明日取ったんだ。何かあったの。誕生日会の話?」
「あ、行くよ。うん。でもそれとは別件で。今話しても平気なの?」
「うん、少しなら平気だよ」
「あのさ、ユイは、誰か他に好きな人がいるの?」とカイトは唐突に尋ねた。
「どうしたの、急に」
「いや、なんかさ、自分、ちっともユイから愛されている気がしないんだよね。なんかもやもやが消えなくて。仕事中にごめん。自分でも大人げないとわかってるんだけど」
ユイは坂を上り切ろうとしていた。研究所の背後にそびえる山々が迫ってきていた。太平洋から吹き付ける空気が山並みにぶつかって雨になると言われていた。一番手前に見える山はアメフラシ山と呼ばれ、中腹にある神社には雨乞いの神様が祀られている。今月はまだ一度も雨が降っていなかった。
「あの、本当にごめんなさい、これから総務に行かなくちゃいけなくて。やっぱりあとでもいいかな。それに愛ってなんだろうね?」
「わかった」とカイト。「俺もさ、正直言って愛なんてよくわからないけど、ただ本当に俺のこと好きなら、なんかもっと違うような気がするんだよな」
「違うような気がする…」とユイはそのまま繰り返した。
「たとえば……そう、たとえば、キスした後とかだよ」とカイトが思い出したように言う。
「本当に俺のこと好きなら、キスした後にさ、もっとなんというかなぁ、うっとりした顔をすると思うんだ。それなのにさ、ユイはすごいさめてる。本当のこと言ってよ。男だって結構そういうの敏感なんだよ」
アメフラシ山の頂近くにこぶしのような形の雲がかかっていたが、その雲がふいに捕食するクリオネのようにひらいたりとじたりし始めた。ユイはそっとみぞおちに不安な手をあてた。鋭い汽笛のようなキジの鳴き声がすると朔風が止んだ。足の下のプラタナスの枯葉が音を立てながら砕け散った。
「びっくりした」とユイ。
「カイトってそんなにロマンチストだったのね」
「答えになっていないよ」とカイトは不服そうに言う。
「いないよ、そんな人」とユイは答えながら、あの雨の夜のことを思い出していた。あの日のあの彼との交わりもまた夢だったんだろうか、それとも……。