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ミステリートレイン  作者: 雷紋ライト
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獄卒のバイオリンの音

「ちょっと」

 ユイは上司であるギョロ目の研究員に呼ばれた。歌舞伎役者並みの目力を持つと言われる研究者なのだが、そんな大きな目をしているにも関わらず、なぜかユイとは目が合うようで合わない。もし仮に背後に守護霊といった類いのものがいるとしたら、その辺りにギョロ目の焦点は合っているようで、いつもユイは自分が透明人間にでもなったような居心地の悪さを感じた。ギョロ目は膨大な実験結果のデータをとりまとめるようにユイに指示した。

 ユイは通信系企業の研究所で、研究員補佐の仕事をしている。一カ月前に配属されたのは聴覚と視覚との関係を調べる研究室で、資料作成、データ集計、また実験を受けるモニター達の管理業務を担当している。ここの研究員たちはユイを名前で呼ばない。「ちょっと」がここでのユイの呼び名だ。予算を取った研究単位ごとにサポート役の派遣社員がこの研究室にやって来ては去っていくという。研究者たちにとって派遣社員はおそらく記号としてしか存在していない。


 十時になったのでユイは入力の手を止めて、隣接する実験室に向かった。録音スタジオのような無響の実験室の中では大きなヘッドホンをつけた十人のアルバイトのモニター達がパソコンを見ながら実験を受けていた。モニターはユイと同じ二十代で普段は大学生やフリーターをしている人が多かった。画面に様々なフォントや色の漢字や記号がランダムに次々と表示されては数秒後に消えていく。その見え方や印象についての質問を三十秒や一分といった短い指定時間内にどんどん答えていくという内容の実験だ。出版社も絡んだ辞書関連の研究とは聞いているが、それ以上のことは知らない。その実験の結果がどのような形で研究者たちの役に立つのかも、ユイにはわからない。白衣を着た研究者たちは寡黙で、ユイとはめったに話しをしない。ユイはただ指示されたことをこなすだけだ。


 ユイたちのいる白い研究室自体が特殊な防音構造になっていて、壁中に白い吸音クサビが張り巡らされている。吸音材に部屋中の音が吸われているはずなのに、耳の奥に荒っぽい綿のかたまりを無理やり入れられたような、海底を目指しながら耳抜きがうまくいかない潜水の時のような、いやな圧迫感のある静けさが研究室には宿っていた。


 自席に戻るとなぜかパソコン画面が真っ暗に落ちていたので電源を入れ直した。少し耳障りな蜂の羽音みたいにうなるハードディスクの動作音がやけに大きく響いた。白髪の交じった天然パーマの研究員が出勤してきたので、昨日頼まれた書類を持って行った。

「おはようございます」とユイが話しかけると、天パ研究員は声を荒げた。

「いらないよ! 生命保険は、もう三つも入ってるよ!」

 どうやら、ユイを研究所付きの生保社員と間違えているらしい。

「いえ、保険じゃないです。昨日頼まれた書類のチェックが済みました」

 天パは電池が切れたように黙り込みユイの顔を見ようともしない。ギョロ目の潔癖なまでに整理整頓された机上とは対照的に、天パの所はカッパドキアの奇岩群なみに資料・書類が積みあがっている。

「ここに書類置いておきますね」とユイはいつものようにその隣の空席の机に天パの書類を置いた。今度海外から研究室に招聘されるゲストが座る予定の席だ。席に戻ったユイは胃のあたりに異変を感じた。ユイの胃は海中を漂うくらげのようにおもむろにひらいたりとじたりと妙な動きをはじめた。ユイは腹に手を当てて様子をうかがう。胃の中には湿った暗雲が充満して、濃縮された雲が押し合いへし合いこすれていくうちに紫や銀色のイナズマが破裂した。海溝で沈み込む海洋プレートのように胃壁が体内のどこかにダイナミックにめり込んだり、また元に戻ったりしたが、それに伴ってお腹自体が鳴りだした。ゆっくりとそして長く。地獄の獄卒が力まかせの弓でバイオリンの弦をこすったらこんな音がするかもしれないという割れた鳴りだった。ユイの胃の鳴りに反応して、防音壁がスピーカーの振動板並みに震え出した。ギョロ目はマウスを動かす手を止めて、天パは軽く咳払いをした。目には見えない微細なちりがマリンスノーのようにのんびりと降り注いできた。ユイは書類の束を机の上でトントンと揃えてみたり、紙を強い音を立ててめくってみたり、流れてもいない鼻をすすってみたり、虚しい咳を量産してみたりと、しょうもない隠ぺい工作を試みたが、どうにもこうにも音をごまかすことはできなかった。けれども研究員たちは大した問題ではないと脳内処理したようで、すぐに自分たちの研究作業に没入していった。ユイは隣の実験室に行ってモニター達に休憩の時間を伝えに行った。暑いというモニターと寒いというモニターがいて、いつも空調の調整に苦労する。今日は寒いというモニターは一人だけだったので、ユイは自分のひざ掛けを寒いモニターに手渡した。十五分の休憩の後に、また実験を再開した。


「ちょっと」

 再びギョロ目がユイに声をかけた。

「来週くる研究者の申請の件で、この書類を総務のタジマさんに直接届けてもらえる? あとこれも渡してほしいんだ」

 日本滞在中のホテル滞在費等の事前申請に関する書類と、六花亭のバターサンドを渡された。タジマさんへの北海道旅行のお土産らしい。

 天パが、「なんか暑くないか。空気はたまに入れ替えないとな!」と大きな独り言のように話した。

「今設定温度は25度です。もうちょっと下げますね。あと窓を少し開けましょうか」とユイが言っても天パの反応はない。ユイが意に沿った行動をしない場合には、「それ違う」、「それやめて」と天パは言ってくる。何も言わない時にはOKというのが天パ研究員対応の暗黙のルールだった。少し待って何も言わないのを確認してから窓を数センチ開けると、十二月の乾いた風が入ってきた。研究所は郊外の私鉄の駅からアメフラシ山に向かってバスで十分の位置にある。小山を切り崩した高台に研究棟と実験棟が建てられていて、そこから見渡せる雑然とした街並みからは様々なざわめきが透き通った野火のように空へと立ち上っていた。どこからか救急車のサイレンも聞こえた。銀色に光る細長い車両が透明な炎をかいくぐりながら東から西へと走っていくのが遠く見えた。四階にいるユイはふとすぐ下の方に視線を落とすと、研究棟の隣の枯芝の上でピエロのハルがジャグリングの練習をしているのが見えた。そしてそんなピエロのハルを、黒く曲がりくねった枝がびっしり生えた奇妙な木のすぐそばから細長い影の主がじっと見つめていた。


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