恋文 ~女生徒~
かつて、青い私は貴方に恋をしていました。
もしも私が貴方への想いを綴ったとして、それを貴方がひと目でも読んでくれる日など、未来永劫にわたって無いのだと最初からわかっていました。
それでも私は貴方へのほのかな恋心を捨てられず、現実を突きつけられ、打ちのめされ、この身に産まれた事を呪ったこともあります。
そして私は、その度にこの想いを綴ることなく筆を置いてきました。
気づけば私の足を縫いとめている地球は、いつも仰ぎ見る事しかできない御天道様の周りを20回以上も周ってしまっていました。
もっと早く、貴方への想いを綴り、この胸から解き放つべきだったのだと今ならわかります。
私が貴方と初めて出会ったのは中学生の時でした。
貴方の書く文章のリズム、翳り、そして心の底では何度裏切られても人間を信じたい……という思いに私は興味を持ちました。
貴方の文章の間から匂いたつそれらを何も感じずに、ただ、ただその片仮名三文字を口にした音だけをなぞって笑う同級生の男子が獣の様に思えたのを今でもハッキリと思い出せます。
でも、彼らを心の内でひっそりと嘲笑う私だって獣だったのかもしれません。
だってもしも貴方が整った顔をしておらず、あんなにやつれてもいなくて、その眼の内に暗いものが澱んでいるように見えなければ、私は果たしてここまで貴方に興味を惹かれたでしょうか。
私は確かにその四角い枠に切り取られた貴方を暗く美しいと思ったのです。
それが貴方以外の誰かが産み出した、「貴方」という演出だったかもしれないのに。
貴方に興味を惹かれた私は、貴方の書くものをもっともっと読みたいと欲しました。
そして、あの一文に出会ったのです。
"よく考えてみると、どっちが図々しいのかわからない。こっちの方が図々しいのかも知れない。"
ああ、私だ。
これは、私の事だ。
この人は、私の事をわかってくれる。運命の人だ。
永い永い時を超えて私の魂を感じとり、それをペン先の黒いインクに紡いで文字に残してくれていたのだ。すべて、私と出会うために。
この地球でたったひとりぽっちだった私の心を唯一救い上げてくれて、理解してくれて、寄り添ってくれるのは貴方だけ……私は貴方の文章にそんな幻想を抱いたのです。
勿論、それは幻想です。
貴方はちっぽけな私など知らない。
それに貴方の文章を読み、私と同じ事を感じた人間がこの世に幾千、幾万といるのでしょう。
でも幻想は偽りと同義では無いのです。
空気の澄んだ藍色の夜空に散らばる満天の星空を見た時だって、
極上と言われる手の込んだ料理を口にした時だって、
プロフェッショナルが奏でる音曲が私の周りの空気を振動させた時だって、
あの時、貴方の文章に感じた気持ちにまさるものなんてなかった。
五感から安易に得られる美しい情報よりも、貴方が文字にして私の脳に、心に語りかけたものの方が上回るなんて始めての体験だった。
それは偽りではなく、間違いなく悠久の時を超えてこの世に存在していたのです。
嗚呼、そんな素晴らしいものの造物主である貴方を、当時の青い私が恋しいと思ってしまうのも無理の無い事だったでしょう。
かつての青い中学生は、結婚し、子を産み育て髪も肌も爪もボロボロのおばさんになってしまいました。
それなりに幸せに暮らしております。
今、もう一度『女生徒』を読み返してみました。
あの時と変わらないときめきが甦り、涙が少しだけ、溢れました。
貴方をお慕いしておりました。
―――――――――太宰治様。
"よく考えてみると、どっちが図々しいのかわからない。こっちの方が図々しいのかも知れない。"
こちらは太宰治先生の作品「女生徒」(「女学生」の場合もあり)から引用しています。