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 初夏が終わり梅雨になった。雨はほとんど毎日のように降った。通学路に紫陽花が咲き、雨粒で濡れた葉に蝸牛が這っていた。僕は相変わらず毎朝早く起きて飼育小屋の掃除をした。放課後になって小屋に行くと、時々教頭がジャージ姿で小屋を掃除していることがあった。


「やあ、ご苦労様。いつもありがとうな。今日は時間ができたから先生がやっておくよ」


 不登校の生徒はまだ学校に姿を見せずにいた。彼はどうなっているのか、いつまで毎朝小屋を掃除しなければならないのか聞きたかったが、勇気が出なかった。悪いがずっと一人でやってくれ、そう申し訳なさそうに言われるような気がして怖かった。


 教頭はおがくずの上に散った羽を掃きながら、僕に鶏の世話は楽しいかと聞いた。僕は少し詰まったあとで、楽しいです、と小さく答えた。本当に言いたかった言葉がふと頭に浮かんで、声にならないまま消えていった。


「卵はちゃんと処分してくれてるかい」

 

教頭は会うと必ずそう聞いた。その質問をするときはいつも、口元はほほえんでいても目の奥に鋭い光が宿った。


「はい、捨ててます」


 僕は教頭の鋭い目にたじろぎながらもそう答えた。教頭の目つきが安心したように緩み、少し張り詰めた空気をほぐすように別の話題へ移った。


 梅雨は例年よりも早く開け、七月の二週目には眩しい青空が高く広がっていた。僕はいつも通り、眠い目をこすりながら小屋の掃除に取り掛かった。地面に落ちた糞を掃いていると、小屋の隅におがくずと土で汚れた卵を見つけた。僕はいつものように拾い上げて、処分するために小屋の裏に回った。


 卵を石に落とそうとしたとき、アーチェリー選手の言葉をふと思い出した。せめてひよこでもいればね。僕は卵を落とせなかった。ひよこがいれば、鶏の世話も楽しくなるかもしれない。小さな雛鳥が可愛らしい声で鳴きながら、おぼつかない様子で歩き回る様子はきっと生徒たちの興味を引くに違いなかった。


 ひよこのいる物珍しさがそれほど続くとも思えなかったが、それでも何人かの生徒は雛の成長を気にかけて時々飼育小屋を覗いていくかもしれない。そうすれば自分のやっている小屋の掃除も無駄ではないような気がした。僕はもう一度小屋に入り、小屋の隅のおがくずに誰にも見つからないようこっそりと卵を埋めた。


 

 給食が終わると急ぎ足で図書室へと向かった。カウンターを見たが、今日はクラスメイトの図書委員はいなかった。隣のクラスの女子生徒が、児童書を持った下級生に貸し出しの手続きをしている。僕は動物についての本が並んでいる書架から鶏の育て方が書いてあるものを選んで、テーブルについて読み始めた。



 目次に「雛が卵からかえるまで」という項目があった。鶏の卵は三十七度ほどの温度で温めると二十一日間で還り、雛が生まれます。雌鶏は卵を五つほど産むと、卵を温める抱卵期に入ります。



 ここまで読み、卵を孵すのが思っていたより難しいような気がしてきた。雌鶏は産んだ卵が一つだけでは温めようとしないらしいのだ。だからといって五個も産ませるわけにはいかなかった。孵った雛が一羽なら、卵を割らなかった理由に見落としていたという言い訳もできそうだが、五羽も孵ってしまえば信じてくれるとは思えない。



 ページにはひよこのカラー写真が載っていた。柔らかそうな、黄色い羽毛に包まれたひよこを僕は未練がましく見つめてため息をついた。頬杖をついてぺらぺらと本をめくっていると、「おもしろい鶏の習性」というページが目に入った。鶏はなぜ朝鳴くのか。鶏が黒い点をつつきたがる理由。そんなことが書かれている中で、一つ僕の目を引く文章があった。雌鶏は自分の卵と、卵に似た形のものの区別がつきません。同じくらいの大きさであれば、他の生き物の卵、それから石やボールのようなものでも温めようとします。




 放課後の小屋の掃除を終えて家に帰ると、僕は近くの公園や河原へ石を拾いに出かけた。卵と同じくらいの、手のひらに包めるほどの丸い石を探し回り、ちょうどいい具合の大きさの石を五つほど手に入れた。



 翌朝鶏小屋へ行くと、おがくずの中に隠した卵を囲むように拾ってきた石を並べた。雌鶏は卵とその周りの石には関心がなさそうに、餌入れに首を突っ込み穀粒をついばんでいる。一日の授業を終えた放課後、なかば諦めた気持ちで小屋へ入ると、小屋の隅、ちょうど卵と石を並べたあたりのところに、雌鶏が卵を覆うような形でうずくまっていた。くるるるる、くるるるる。喉を震わせる声がそう聞こえた。


 僕は職員室まで急ぎ、教頭を探した。教頭は自分の机でパソコンの画面を見ていた。


「やあ、どうしたんだい」と教頭はいつもの優しそうな笑顔を僕に向けた。


「飼育小屋の掃除なんですが」僕は興奮で震えそうになる声をなんとか抑えた。教頭の手元のマグカップから、コーヒーの匂いが強く立ち上っていた。


「しばらく僕だけでやりますから教頭先生はお越しいただかなくても大丈夫です」


「どうして? 大変だろう」


「いえ、もう慣れたのでそれほど大変じゃありません。それより教頭先生の方がご自身のお仕事でお忙しいでしょうから、鶏の方はすべて僕に任せていただけますか」


「そうかい? まあそう言ってくれると助かるんだがね。学期末で忙しくてね。夏休み中の鶏の世話も任せても平気かな。どこかご家族で旅行に行かれたりする予定はあるかい」


「いえ、今のところはなにも」


「そうか。まあ何か決まったらその時知らせてくれればいい。夏休み中でも先生たちはだいたい毎日学校にいるから、何かあったら職員室においで」


「分かりました」


 教頭は微笑みを浮かべたまま眼鏡の奥の目を少し緊張させて、いつものように「卵はちゃんと処分してくれてるかい?」と聞いた。


「はい、大丈夫です」


 僕は口元に微笑みを浮かべて、教頭の目をまっすぐ見ながら嘘をついた。


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