「卵は必ず割ってから捨てるように」
委員会活動は次の日から始まった。生徒たちは放課後になると委員会を監督する先生の元に集められ、各委員会の活動内容の説明を受けた。飼育委員は設立した二年前から教頭先生が担当していた。
教頭は長身で肩幅が広く、高い鷲鼻の上に黒いフレームの眼鏡をかけている。見た目は厳しそうだが、廊下で挨拶をするといつも優しそうに笑って二言三言声をかけてくれた。放課後、鶏小屋の前でジャージに着替えた教頭が待っていた。教頭は僕の名前を覚えてくれていた。空の兎小屋ではところどころに緑の雑草が伸びたままになっている。
「動物は好きかい」
「はい、好きです」
「家では何か飼っているのかな」
「水槽で金魚を飼っています」
教頭と話していると、男子生徒が一人遅れてやってきて、何も言わずに教頭に会釈した。もう一人の飼育委員は隣のクラスの生徒だった。色の白い、木の枝のように痩せた生徒で、ふてくされたような顔をしたままずっとうつむいていた。
「飼育委員は君たち二人か。飼育委員は餌やりなどで朝が早かったりして大変だけど、やることはそんなに難しくはないから。一年間よろしく頼むよ」
朝、登校時間より三十分ほど早く学校にきて飼育小屋の掃除をする。地面に落ちた羽と糞を箒で掃く。糞は肥料になるので花壇に撒く。朝と放課後、水と餌を新しいものに取り替える。これを僕ともう一人の生徒が一日交代で行う。学校が休みの日は一日のどこかで学校に来て餌と水やりを一回してくれればいい。
教頭は僕たちと一緒に飼育小屋の中に入り、ひとつひとつの作業を実際にやりながら説明した。小屋の掃除に使う箒とちりとりは扉の脇に立て掛けられている。生徒に怪我を負わせた柱の釘は取り除かれて、ささくれだった小さな穴だけが残っていた。木の柱には何度拭いても落ちない薄黒い染みがうっすら滲んでいる。
「それから、たまに雌鶏が卵を産んでいる時がある。その卵はあげるから、持ち帰ってかまわないからね」
「持ち帰っていいんですか」
「もちろん。それでお母さんに卵焼きでも作ってもらいなさい。ただし」教頭の声が少し緊張したように感じられた。「もしいらなければ、卵は必ず割ってから処分してほしい。いいね?」
必ず割ってから、に力を込めて教頭は言った。
「大丈夫だね? 必ずやってくれるね?」
教頭はしつこいほど念を押した。どうして割らないといけないのか理由はわからなかったが、教頭の強い目に気圧されて、僕はわかりましたとうなずいた。
翌日から僕は三十分早く学校へ行き、教頭に言われた通りの作業を開始した。鶏小屋のドアには緑色の掛け金錠がつけられていて、丸い輪のところにダイアル式の南京錠がかかっている。教頭から教えてもらった三桁の数字をダイアルに合わせてドアを開けると、小屋にこびりついた家禽の体臭と糞のにおいがした。小屋に射し込む朝日は金網を通すせいで幾分ぼんやりとしていた。箒とちりとりを持って小屋に入るとつがいの鶏は驚いた様子で反対側の隅へ駆けたが、少しすると何事もなかったかのように首を動かしながらのんびり歩き始めた。床に敷き詰められたおがくずの上にはあちこちに茶色い羽が散らばり、ところどころに白い糞が落ちていた。
掃除と餌やりを終え、ちりとりに集めた糞を花壇に蒔いた。糞を蒔いている僕を、通学してきた低学年の男の子が三人、立ち止まって興味深そうに見守っていた。
「ねえ、何してるの?」
「これ? 鶏糞を花壇に蒔いてるんだ」
「けいふんって?」
「鶏の糞だよ」
「鶏の糞? うわー、きったねえー」
三人は大げさに驚き、馬鹿にしたような笑い声をあげて逃げるように走り去った。僕はちりとりを鶏小屋に片付けると、小屋のにおいが服に移ってしまったような気がして、何度も何度も嗅ぎながら教室へ向かった。
もう一人の飼育委員の生徒に会ったのは委員会の初日が最初で最後だった。生徒は新学年が始まってから一週間もしないうちに不登校になり、学校へ姿を見せなくなった。
「申し訳ないが、しばらくの間は毎日鶏の世話をしてやってくれないか」
教頭は僕を呼び出し、気の毒そうな顔をしてそう告げた。先生も時間のあるときにはできる限りの手助けをするし、不登校の生徒がまた元気に学校にこれるよう他の先生たちとも力を合わせて精一杯の努力をする。きっと彼もすぐ登校できるようになるから、それまでは大変かもしれないが、少しの間一人で頑張ってほしい。
それから僕は毎朝、他の生徒たちよりも早く学校に行って鶏小屋の掃除と餌やりをした。花壇に行く時は誰も周りにいないことを確かめてからこそこそと糞を撒いた。どれだけ掃除しても、鶏小屋は朝になると抜けた羽と糞にまみれていた。
雄鶏はよく無意味な羽ばたきをしては僕を脅かし、雌鶏はときどき卵を産んだ。掃除をしているとおがくずの中に白い卵が転がっているのに気づくことがあった。羽毛にまみれた卵をつまみあげてみるとかすかなぬくもりがあった。冷蔵庫に入った冷たい卵しか知らなかったせいか、生みたての卵の暖かさは不思議な感じがした。小屋の後ろは校庭を囲む金網のフェンスになっている。小屋とフェンスの間には人が一人通れるほどの隙間があり、子供の頭くらいの大きさの石がひとつ転がっている。
教頭から卵は割って処理するようしつこく言われていたので、僕はその石の上に卵を落とした。白い殻が砕けて破片が散り、中から透明な白身と丸い黄身が溢れた。割れた黄身が形を崩しながら石の上をゆっくり流れ落ちていった。