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短編

History will tell you nothing,but we can tell you everything.

この物語は創作であり、史実そのものではありません。

第一のメモ

「ゾンダーコマンドAの告白」

 ガス室の外壁傍に埋められていた紙片、その一


 私が生まれ育った街はポーランドの首都ワルシャワから南西に百キロほど離れたウッチという繊維工業の盛んな都市だった。両親はユダヤ人であったが、宗教や民族に全く興味はなく、日々の生活を営むことに必死になり繊維工場で汗を流していた。私は学業が優秀だったのだが、金銭の事情で大学への進学を断念し、両親と同じ様に工場で働いた。私も両親と同様に宗教や民族に興味はなく、自分がユダヤ家系であることすら忘れている程だった。

 自分がユダヤ人だと否が応でも知る事となったのが、ドイツ軍のポーランド侵攻である。ドイツ軍はユダヤ人に対して居住の変更を強制した。しかし、それは死への片道切符だったのだ。

 家畜同然に貨車に輸送され、疲労を訴えた者はその後見かけることはなかった。貨車から降ろされると、SSが数人、私たちを値踏みし幾つかのグループに分けた。老人、子供、女のグループ、線の細い若い男子のグループ、そして私が属したグループは如何にも丈夫そうな男性ばかりだった。さらに私のいたグループは、話せる言葉によって細分化された。私は学業のお陰でポーランド語、ドイツ語、ロシア語、イディッシュ語が理解できた。それから意外にも言葉が通じ難い数人のグループが幾つの作られた。

 皆、不安を隠しきれなかった。そんな状況の中、SSは銃を向けながら私たちを部屋に押し込み、私たちを睥睨するようにこう言ったのだ。

「貴様らに仕事を与える。簡単な仕事だ。収容所にいる連中をシャワー室に押し込む。そしてシャワ-が済んだ連中を外に運ぶ。それだけだ。ただ仕事の内容は誰にも一切漏らすな。誰にもだ。これを破った者は死に匹敵する苦痛を味わってもらう事になる。よく覚えておけ。以上だ」

 私はそれが何を意味するか、考える事をしなかった。いや考える事を放棄したのだ。余りにもおぞましいものを予感させたからだ。また同時に、死の恐怖が自分の中にあるエゴイズムを肥大化させ、他人という存在を消し去った。この時から私は心と言うものを捨てのかもしれない。



第一のメモ

「ゾンダーコマンドAの告白」

 ガス室の外壁傍に埋められていた紙片、その二


 この収容所には三種類の人種がいる。命令をする人種。命令された作業をする人種。死を強制される人種だ。私は幸か不幸か、命令される人種になった。私は死を強制される人種はただの物体として見ていた。そうしなければ、私自身正気でいられたのか自信がない。ガス室に入る前には確かに生きていた人間たちが半時間後、ガス室を出る時は動かなくなっている。簡単に人は死ぬ。信じられないくらい簡単に人は死ぬ。そんな現実を受け入れたくなかったのかもしれない。

 ゾンダーコマンドに選ばれた人種は、同じユダヤ系であっても出身地が違い、話す言葉を違えば価値観も違う。この極限下の中で、価値観や言葉を共有できないとその人間に対して不信感を持ってしまうものだ。相手が裏切るではないかと不安、相手より自分の方か格上であると言う根拠のない優越感、それらが渾然一体となり感情を支配してしまう。私はSSと同じ様に彼らを信頼も信用もする気は一切なかった。

 バイエルン訛りの若い青年が私と同じ作業をしていた。彼はツヴァイ(*ドイツ語:二番目)と呼ばれ、勿論本名ではないだろうその名とは違い、我々の中では一番の働き者、即ち死神だった。

 我々の仕事はガス室に人間を導く役目とガス室から遺体を外に運び出す作業だ。3月最後の月曜日、流れ作業のように人々をガス室に向かえと命令していた時、四歳くらいの男の子が少しぐずった。彼はその子供の背を押してガス室に向かわせようとした、まさにその時、誰かに手を撥ね退けられたのだ。驚いた彼はその手の主を見た。その子供の母親だった。すぐに彼女は子供を守るように両腕で抱き、彼をじっと睨んだ。

 私はその眼を見て恐怖を感じた。それは私たちがSSに良心と魂を売った事へのあからさまな侮蔑と憎しみが込められいた。それだけでなく、この世を悪と正義に分けたなら、私たちが言い逃れが出来ないくらい悪の側に居る事を知らしめるものだった。私は罪悪感、後悔、後ろめたさなどが入混じった負の感情から込み上げてくる吐き気と涙を堪えながら課せられた作業を黙々とこなした。その母子の姿は見たくなかった。見るのが怖かった。自分が自分でなくなるような気がしたのだ。幸運なのか、不運なのか判らないが、その後私はその母子の姿を見る事がなかった。

 翌日、ツヴァイ青年は上着で首を括った。そして、何事もなかったかのように新しいゾンダーコマンドが補充された。

 生きたい、生きたい、私は生きたいのだ。それだけを考えてきた。それ以外何も見ない、聞かない、感じない。そのようにしてきた。両親はもう死でいるに違いない。私はもう疲れた。逃げたい。

 火事になった時に、人は高い階層から火と煙から逃れる為に、死ぬのが解っていても一時の恐怖から階下に飛び降りる、今そんな心境だ。

 私はごく普通な一般人だと思っていた。そんな人間でさえ、極限状態では狂人になれるのだ。私は自分の罪をここに告白し、この場所で行われている狂気の一部を書き残しておく。誰かがこの手紙を見つけることを願って。


  der 1.September



第二のメモ

「ゾンダーコマンドBの告発」

 歯磨き粉のチューブに入れられ運び出された紙片


 わたしはこのメモが英国にあるポーランド亡命政府の手に渡り、そこから世界へ発信されることを何より願う。

 今わたしが立っている場所は地獄。人間が創り出した地獄だ。老若男女問わず、ガス室に送り込まれ殺害される。毎日毎日、決められた時間になるとガス室に人々が押し込まれ、また決められた時間になると遺体が運び出され、灰になるまで焼かれる。まるでベルトコンベアで造られる製品のような流れ作業だ。何の罪もない多くの人々が無意味に殺されている。その数は一日で五百は下らない。これが地獄以外の何ものであろうか。

 それだけでない、この場所に連行された人々には人としての尊厳を奪われている。人間扱いされていないのだ。名を奪われ、過酷な労働を強制され、飢え、不衛生からくる蔓延する病気に晒され、ただ生きているだけの屍に成り果てている。彼らの極限までやせ細ってしまった肢体と顔、極度の栄養失調で起こる腹部の膨張、生気のない瞳、激しい脱毛、ここまで人間を貶める事ができるのかと思う程である。

 また未確認ではあるが、人体実験を行っていると噂もある。SSの所業を見ていると人体実験に手を染めても何ら不思議な事はない。


 どうか皆さん、耳を傾けてください。ユダヤ人と言うだけで殺される私たちの悲しみ苦しみを。そして一秒でもの早く多くの罪なき人たちを救ってください。

 もし可能であれば、SSの人体実験についてもお願いします。

 

  der 25.Januar



第三のメモ

「英国外務官Cによる密書の下書き」

 清書後、燃されたメモ用紙


 我が英国に於いてユダヤ系の人口は20万人を超え、英国社会に対して少なからず影響を与えるまでになっている。彼らの多くは下級労働に従事し低賃金で労働することから、今までその地位で働いていた英国労働者からその仕事を奪う形になり、両者の間には緊張が高まりつつある。恐らく貴殿の国でも同様の事が起こっていると推察する。今は小さな火種として見ていられるが、今後ユダヤ系の人口が増える事、即ち移民や難民を受け入れる事があれば、大きな社会問題に発展するのは火を見るよりも明らかである。

 ドイツが秘密裏に実行していると告発があったユダヤ人に対する殺戮行為について、もしドイツに対して軍事力を行使し彼らを解放した場合、我々は人道的に彼らを保護せざるを得ない。現状として、我が国は可能な限りそれを回避したいと切に希望をする。欧州において軍事緊張が高まっている今、自国内の問題は可能な限り起こしたくはないのは当然の帰結である。

 貴殿の国も同意見であると願う。


  der 6.June



第四のメモ

「ゾンダーコマンドDの遺言」

 壁の隙間に埋められていた紙片


 私はこれから何処かに連行される。どういう形であれ、待っているのは死だけだろう。我々の計画、ガス室の破壊がSSに漏れていた節がある。考えたくはないが、裏切り者がいたのだろうか。それとも我々が連行されるは偶然なのだろうか。今となって判らない。ただ解る事はガス室がこの先も同胞を殺し続けるという事実だ。

 私はゾンダーコマンドとなり多くの同胞を死に追いやった。言い逃れは出来ない。この罪は私が生きている限り消えることもなく、私が一生背負うべきものだ。だが罪は償う事は出来る。ガス室を破壊すれば少しでも死を免れる人が増えるはずだ。この計画が成功するにしろ、失敗するにしろ、首謀者である私の死は決定的なものであっただろう。

 正直、死は怖ろしい。しかし何もせずただ死んでしまっては、罪を償うことさえ出来ない。私はそれが何よりも怖いのだ。私は人間の心を持っていると自分に示したい。誇りある人間でありたい。その気持ちは多くの同胞に共感され、この決起を促した。

 残念ながら我々の思いはここで潰えるようだが、このメモを見た同胞よ、我々の意思を引き継いでくれ。今はそれだけを願う。


  der 6.Januar



第五のメモ

「元ゾンダーコマンドEの後悔」

 デミアンの表紙の裏に挟んであったメモ


 これは後悔である。

 わたしは生き残った。わたしには生きる意思、いや生きる事への強い欲望があった。何があっても生きたかったのだ。そしてわたしは生き残った。多くの人間を死に追いやってでも。

 これも後悔である。

 わたしは死ななかった。わたしは死ぬ事が怖ろしかった。だから、死から全力で逃げたのだ。そしてわたしは死ななかった。多くの人間の生きる道を踏みにじってでも。

 ()の地で惨殺された人達の無念さや痛みに比べれば、わたしの苦悩など取るに足らないものだろう。ガス室から運び出される人たちの苦悶の表情、人形の眼球のような瞳、それらは今もわたしの脳裏からはなれない。それだけでない。生きている間さえ、彼ら死に等しい苦痛を味わっていた。パンのひと欠片、コップ一杯の水さえ、彼らには満足に与えられなかったのだ。

 今わたしは喉が渇けば水が飲める。暖かいベッドに入ることが出来る。お腹いっぱいに食事が出来る。手に届くところには家族がいる。わたしはとても幸せなのかもしれない。

 幸せになることが、こんなにも苦痛で怖くて、脆く尊いものであることをわたしは誰よりも知っている。同時に、それがエゴが生み出した虐殺への復讐であることも。


 わたしは誰かに自分の事を知って欲しくて、赦して欲しくて、このメモを書いたのかもしれない。神は何も語ってはくれないのだから。

 

  der 8.Mai



第六のメモ

「近隣の学生Fの日記より」


 Montag.

 定時になると丘向こうの工場の煙突から煙が上がる。毎日きっかり正確な時間だ。まるでA.ランゲ&ゾーネのように。その工場では、ユダヤ人が働いているらしいが、何を造っているかは知らない。はっきり言って何を造っているかなど興味がない。興味があることはヤツラがそこにいる事だ。

 現在ドイツが陥っている経済的な不況はユダヤ人が元凶である。ヤツラはいつの間にかドイツ経済や社会に入り込み、我々ドイツ人が得るべき報酬を横取りしている。そんなヤツラを工場に閉じ込めて働かすことはドイツ人、ひいてはドイツ国復興の証となるに違いなく、それはドイツの正当な権利でもある。

 ユダヤ人を閉じ込めて働かさせることを、多くのドイツ人が認知したその時が来たら、ぼくは誇らしげにこう云うのだ。

「ユダヤ人を工場で閉じ込めて働かせる事を、ぼくは事前に知っており、その効果について理解していた」と。


  Fine.

Do you know Milgram Experiment ?

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