死ぬのは満ち足りたあとで
初めに、この作品に興味を持っていただきありがとうございます。あとがきにいろいろ書いているので前書きは短めにしたいと思います。では、私の作品をお楽しみください。
「持ってあと数日だと思います」
「ああ...そうですか」
日々、ただでさえ衰えた自分の体に僅かに残ったその命すら搾り取れらて行く感覚がする。のどが渇くからと水を飲ませてもらう。趣味の読書。見舞いに来た家族との会話。その一挙手一投足が自分にとって命がけである。何がきっかけで死んでもおかしくない。
私は医者に自分の死が近づいたなら遠慮せずそれを伝えて欲しいと頼んだ。残された時間が僅かだとしてもそれさえわかればいくらでもやりようはあると思った。
そういえば若いころ、一度だけ死にたいと思ったことがある。高校生の時、家族で旅行に出かけた帰りに居眠り運転のトラックに正面衝突された。気づいたら病院にいて、事故から二週間が経過していた。自分は運よく生き残り、その二週間前の衝突事故で両親、弟、妹が即死したと警察に聞かされた時はいっそ死んだ方が楽だと思ったことをよく覚えている。
それからのことはあまり覚えていない。学校にはすぐに復帰していたとは思うがどんな風に過ごしていたのかうまく思い出すことができない。そもそも、もうそれも七十年以上も前の事なので当然と言えば当然ではあるが。
ただ、自分が死のうとした日のことははっきりと覚えている。あれは良く晴れた日のお昼だった。その日に死のうと決めていたわけではない。あの縄は丈夫そうだから使えるとか、教室は二階だからいまひとつ高さが足りないとか、理科準備室の薬品を用いれば簡単かもしれないとかそんなことばかり考えていて、その日は良く晴れていたので屋上へ上がり、校庭を見下ろしたときにいよいよ自分の欲求がピークに達しただけの話だ。いつだってそうなる可能性を孕んでいた。
「あの、死ぬんですか」
「は?」
隣に女が立っていた。一目で頭のおかしなやつだと理解した。こいつには関わるべきでないと。
「どうせ死ぬならその命を私に下さい。一緒に銀行強盗しましょう。最後にあなたは一人でその罪をかぶって死んでください。私を幸せにしてください」
その日は結局そのまま屋上を後にした。自分の決意に水を差されたような気がして、明日こそと考えながら帰路に着いたと思う。
「あの、お弁当食べた後にしてもらってよいですか?」
「あの、この本読み終わってからにしてもらえませんか?」
「あの、」
「あんたほんとになんなんだよ」
屋上からの飛び降りにこだわる必要なんてなかったにもかかわらず、頭のおかしな女のいる屋上へ毎日通い続けた。
「今日はいないのかあの女...」
正直に言うとこの時点では名前すら知らなかった。天気も良くて邪魔者もいない。間違いなく絶好のチャンスがついにその日到来したのである。
屋上の縁に足をかける。柵の外側まで来た。満を持して迎えたはずのこの瞬間に胸の高鳴りを感じる。
「そう、これは高揚してるんだ。俺の...俺の悲願だ」
結論から述べると俺はこの日飛ぶことができなかったし、もうお分かりだろうが自分の人生に自分で幕を引くこともしなかった。
「先生...あの...」
「どうした」
ここでようやく女について何も知らないことに気付いてしまった。何かあったのかと先生に訊ねようとしたのだが、名前を知らないので身体的特徴で特定することにした。
「生徒について聞きたいことがあって、髪の長い女子生徒なんですけど」
「それじゃ多すぎてわからんな」
「身長は俺より少し低いくらいで」
「まだ足りんな」
「...よく知りません」
「はは、なんだそりゃ」
毎日顔を合わせている人間の事すら自分は何一つ理解できないくらい身の回りのなにもかもに興味がなかった。
「今日欠席してると思うんですけど」
「あー、今日休んでるのは一人だけだな」
名も知らぬ女生徒は大病を患っていた。それがようやく完治したことで学校に来られるようになったらしいが、いまでも時折検査のために学校を休んで病院に行くとのことだった。
「あんた、体弱いんだってな」
「...驚きました。あなたから話しかけるのは初めてでしたので」
「茶化すな」
「...はあ、それは事実です。でも完治してますし今のところ再発の兆しもありませんのでお気になさらず」
「その...こんな事聞くのは失礼だけど..死にたいとは思わなかったのか?」
「うわぁ...本当に失礼な方ですね」
「っだから...」
この時ばかりは後悔した。失礼なのは間違いないし、何よりこれまでの艱難辛苦を乗り越えた彼女に対する冒涜でもあった。高校まで学校に通うことすらできなかったほどの大病。生きることを諦めたくなったとしてもそれを批判できる人間は間違いなく存在していないのである。
「あんたを否定したいんじゃない。俺が本当に否定したいのは俺自身だ。こんなにも全てを諦めたいのにそれすらできないでいる俺自身だ。家族が死んだのは悲しかったさ。でも初めてその事実を知ったとき俺が感じたのはまず安堵だった。その次に怒りだ。自分に対しての怒りだ。こんな状況になってようやく自分が自分の事しか考えていないことを知った。それでもなお自分を嫌いになり切れない自分を嫌悪する。そうして自己嫌悪は無限に循環する。死にたい理由すら自分のためだ。死ねば全部しまいだ」
なぜ自分だけが生き残ったのか。その理由が全く分からなかった。幼い弟と妹には俺以上の未来があった。両親は優しかったしあんな理不尽な死に方して良い人たちではなかった。ただ日々を漠然と生きていただけの自分が生き残ったところで一体何の意味があるというのだ。
「私は...私も日々を地獄だと思っていました」
彼女は今度こそ茶化すことなく真面目な顔をして語り始めた。
「あの頃私は常に死の淵にいました。体も弱くて病気も患って、いつ何がきっかけで死んでもおかしくありませんでした。正直何度楽になりたいと、死んでしまいたいと思ったのかわからないくらいです。ある時その気持ちをお医者様にぶつけたことがあるんです。今思えばひどい話ですよね。ただの...八つ当たりに過ぎません」
彼女もまた自己を最大限嫌った人間なのかもしれない。
「そしたらお医者様は怒るでもなく励ますでもなくこう言ったんです。生きとし生ける全ての行きつく先が死なら、それが命の結末なんだ。我々はいつだってその決断をすることができる。難しく考えなくて良いんだ。つまりは『死ぬ』なんていつでもできること今すぐしなくたって構わないということさ。それよりも何かしたいことがあって、まだそれを諦めきれないなら死ぬことなんて後回しにして、それでも死にたいならそのあと死ねば良い、って」
その医者と彼女は知っている。人間は過去のどの自分よりも今が一番『死』に近いということを。たくさんの死を見送った医者と死が身近だった彼女はそれを誰よりも知っている。
「学校に行きたかった。行けるようになったらもっと勉強したくなった。もっと勉強したらかなえたい夢ができた。人生が今後どうなろうとも私が死ぬのは私が満ち足りたあとなんですよ」
得意げに、でもどこか儚さをまとったその笑顔を生涯忘れることはないだろう。
「...残念ですがお亡くなりになりました」
「そう...ですか。覚悟はしていましたが...」
いつか来ると分かり切っていたはずのこの瞬間。案外淡々と受け入れられると思っていたが、人間とは想像していた以上に繊細らしい。この歳になってなお知らないことがあるのだから長生きしてみるものだなというのが二番目の感情だった。それでも決して泣いてはならない理由があった。
「今度こそ私は死ねますね。だってこんなにも幸せなんですから。あなたもそうですよね」
誰もが涙するその場面で二人して笑っていた。その笑顔の理由を二人以外はだれも知らない。
私が小説を書くとき、私自身が理解できないことは極力書かないようにしているためこの作品の登場人物の心理描写や思考は私自身のものであると言えなくもありません。ただあくまで一意見ですのでこの作品が誰かの考え方や生き方の指針になるというよりは、判断材料的な役立ち方をすることを望んでいます。大層なことを述べましたが、この作品を楽しんでいただけたら十分ですし、ページを開いてくださっただけでも感謝しかありません。好評酷評どちらでもかまいません。年中無休でお待ちしておりますので何卒よろしくお願いします。最後になりましたが私の作品を最後までお読みいただきありがとうございます。