Scene1 -Restarted Story-
マーク・ウェイドはその時、デスクの上でのたうつような痛みにうなされていた。
とあるオフィスビルのワンフロア。無数のデスクが並べられた広い部屋だった。その中を、多くの社員がせわしなく行き交っている。
部屋の一番東に一際大きいデスクがあった。天井から吊り下げられた札には厳めしい字体で“部長”と役職名が書かれている。マークはその席で、酷い頭痛に肉付きの良い顔を歪めていた。
こん棒で何度も撲られるかのような激しい痛み。その痛撃は、よく言えばリズミカルにマークを襲う。歳を取ったせいかもしれない、昔に比べて回数も程度も酷くなる頭痛に、マークはいつかの不安を反芻させた。
――クソッ、畜生ッ、もうたくさんだ! やめてくれ!
マークは痛みに耐えるように歯をぎりと食いしばった。額を汗が伝って、はい回るような悪寒に全身が震えた。
「大丈夫ですか? 部長」
背後から聞き慣れた声がして、マークは急いで振り返った。そこには部下の女性社員が立っていて、心配そうな目で自分を見下ろしている。手にはトレイが乗っていて、どうやらコーヒーを運んでいるらしい。
「……ああ、ありがとう」
マークは彼女が差し出したカップを受け取った。元気の無い声色に彼女は一層顔をしかめた。
「部長。 何だか辛そうですよ?」
「大丈夫、心配いらないよ。少し頭痛がしていただけだ」
「そうですか……、頭痛薬でもお持ちしましょうか?」
「いやいや、すぐに治まるだろう。歳を取るとこれだからいかんな」
マークは彼女を落ち着かせるためにも、笑顔で言ってみせた。
「そうですか……」
そう言って彼女は、不安そうな顔のまま、他のデスクにコーヒーを配り始めた。
「ふう……」
マークは一つ大きく息を吐くと、左手の腕時計を見た。くすんだ時計盤は、5時も半ばを回ったことを示していた。顔を上げると、窓の向こうには小麦色の斜陽がビルの谷間に落ちていくのが見えた。
頭の痛みは、機関車が目の前を通り過ぎたように、すうっと抜けてどこかへ遠退いていた。激痛が去った後の奇妙な虚脱感だけが、まるで余韻の様に、頭の中で響いていた。
ふとマークは、側にあった濃紺色の予定帳を手に取って栞の所で開いた。
ページに記された日付と予定を、手でなぞりながら読み進めていく。
やがて納得したように小さく頷き、マークは予定帳を閉じた。立ち上がって、椅子の背もたれに掛かっていた背広を取って羽織ると、机の上の私物を皮鞄に片付け始めた。それが終わると、すぐ近くにいた直近の部下に、先に失礼する、と断りを入れて足早に部屋を出た。その間、あの女性社員がずっとマークのことを見ていた。不安げな顔だった。
エレベーターで地下まで降り、社員用の駐車場に入る。一般社員でさえ停めることが出来ない重役用の駐車場。殆どは黒塗りの高級送迎車が停められていたが、マークはそれらに見向きもせずに隅にある深緑のセダンに乗った。運転席に座り、エンジンをかける。慣れた手つきで発進させると、開いた自動ドアをくぐって地上に出た。
フロントガラス越しの空は、一層その明度を落として、街に夜の訪れを告げていた。車のテールライト、明滅する信号機、光輝くショーウィンドウとネオンサイン。降り始めた夜の帳と反比例して、街はけばけばしく色付いていた。
マークは目抜き通りを少し走ったあと、横路地に逸れた。いくつか交通量の少ない道を選びながらしばらく走ると、繁華街を離れたのか、背の低い建物が増えてきた。そのまま郊外を走り、住宅街に入る。様々な風体の住宅の間を素早く走り抜け、ようやくマークは緑の屋根が特徴的な自宅にたどり着いた。
既に駐車している別のセダンに気を配りながら、マークは手際よく車を車庫に入れた。荷物を持って庭に入り、玄関から中に入る。
「ただいま……」
トーンの低い声でそう言うと、マークはリビングに入った。扉が開く音に、夕飯の支度をしていた女性が顔を上げる。
「あらあなた。帰ったのね」
そう言ってそこにいた彼女は優しく笑んだ。
「ポーラ。それじゃあまるで帰って欲しくなかったみたいに聞こえるぞ」
ポーラの笑みに気を良くしたのか、マークは冗談めかして言った。
「それは心外ね、愛する夫の為に集中して夕飯を作っていたら、当人が帰って来たのに気付かなかっただけだわ」
そう言いながらポーラは、ゆっくりとマークに近付いた。マークとは違って細身で碧い瞳だった。長い金髪は今は結わいて留められている。
マークは目の前の鮮やかな碧眼を見つめ、やがて愛おしそうにその目を細めた。
「ただいま。そして愛しているよ、ポーラ」
「お帰りなさい。私もよ、マーク」
そうして、二人は僅かな時間、お互いの唇を重ね合わせた。