第一話「怪奇! 蜘蛛男」 08
蜘蛛男は一晩中、此の夜の主をいたぶった。
逃げられるのがよほど怖いのか、蜘蛛男はこれでもかというほど糸を吐きつけて、此の夜の主は繭玉のように膨れ上がった。
もう指一本動かせなかったが、かわりに分厚く巻かれた糸が緩衝材となって、殴られても蹴られてもさほど堪えなくなった。
しかし、此の夜の主はずっと口唇を噛んで無反応を通した。
朝になると手下たちがポツポツと戻ってきた。彼らはグルグル巻きの此の夜の主を見て、驚いた。
「お葉の奴に知らせなくていいんですかい?」
「いいんだよ。娘といっしょに見せるほうが小出しにするより高い値をふっかけられるからな」
「そういうもんですか」
さすがカネのためなら自分の肉体さえ犠牲にできる人だと、手下たちは妙なところに感心した。
帰ってきた手下たちはそのままそこら辺に転がって寝た。蜘蛛男も此の夜の主に飽きてしまうと、自分の糸でハンモックを作って眠った。
此の夜の主は目を閉じ、全身の痛む部分をひとつずつその度合いをたしかめていった。そして、すべての感覚から意識をひき剥がして自己の深みへ沈潜した。精神的な仮死状態に入って休息をとっていたのだった。
昼近くに男たちは目覚めた。頭の上では貿易事務所が日常業務を始めていた。
「おい、どうなってんだ?」と蜘蛛男が言った。
手下のひとりが「今日は半ドンで、じきに皆んな帰るはずですぜ」と答えていた。
その言葉のとおり、正午のベルが鳴るとバタバタと慌ただしい音が聞こえてきて、やがて静かになった。
「帰ったようですぜ」
「じゃあ、こっちが働くとしようや」
蜘蛛男たちは一階へ上がって行った。彼らがそこで何をしているのか、此の夜の主にはよくわからなかった。何か作っているらしいことしかつかめなかった。
三時前には作業は終わったようだった。蜘蛛男がひとりで地下に降りてきた。
「さて、我々はちょっと外出しなければならぬのだ。そこで、君にひとつ、留守番を頼みたいと思うんだがどうだい? 我々が戻ってくるまでここを見張っていてくれたまえ。怪しい奴が来たら、吼えてくれると助かるな。ははは」
蜘蛛男はそう言い残して出て行った。建物のなかに此の夜の主ひとりが残された。
日本庭園のあちこちに制服警官が立っている光景というのは、妻につきあって上野で見た超現実主義とかいう絵画のようだ、と中村は思った。
パーティーは夕刻からだった。
銀座の一流洋食店からコックが呼ばれ、有名ホテルから給仕たちが借り出されてきていた。警察はその全員の身元を改め、少しでも怪しい人間は屋敷のなかへ入れさせなかった。
中村は、運び込まれた食材や酒もすべて、薬物が混入していないか確認させた。
「完璧な警護態勢ではないかね?」
中村が開宴前最後の状況報告に行くと、太田黒はいささか不興な顔で言った。
「蟻の入り込む隙間も作らないよう部下には命じてあります」
「おいおい、中村さん、今日の目的を忘れてやしないだろうな?」
「わかっています。蜘蛛男を逮捕し、後顧の憂いを断つことです」
「それなら蜘蛛男が犯行を諦めるような厳しい警戒ではまずいだろうに」
中村はゆっくり首を振った。
「どんなに警戒しようと奴は来ますよ。新聞に広告までうってるんです。面子にかけて襲ってくるはずです」
この朝、有名紙はどれも一面で、蜘蛛男の犯行予告が新聞社に送られてきたことを報じていた。
太田黒邸の周囲は警官隊が取り囲み、さらにその周りを報道陣が取り囲んでいた。
記者たちは皆、事件が起きることを心待ちにしていた。疑獄事件の証人が殺害されたように、政治家の孫娘が誘拐されることを願っていた。
いや、望んでいるのは記者だけではない。彼らの背後に控えている大衆という名の化け物こそが、少女の不幸を願っているのだった。
その少女は朝から思いつめたような表情をしていた。中村はその表情を見るたび、この子のために今日は奮闘しなければと決意を新たにするのだった。
日が暮れると招待された客たちが集まってきた。警察はそのひとりひとりを、あらかじめ渡されたリストに照らし合わせながら、確認していった。
客たちも皆、蜘蛛男の予告を知っていたから、心ここにあらずといった感じでやって来ていた。世間が注目する事件を特等席で見られるくらいのつもりでいるようだった。何かの拍子で自分たちにもとばっちりが――とはいっさい考えていないのだった。
帝国主義の傲慢さだな、と中村はまるで左翼活動家のようなことを思うのだった。
もっとも、さすがに政界財界の大物たちは自分では出席しようとはせず、名代を差し向けてきていた。また、要らぬ危険にさらさぬようにという配慮から、級友の少女たちは招かれていなかった。
そんなわけで、宴会場には、いわば中途半端な名士たちが続々とたまっていった。このなかの誰が怪我をしても新聞の紙面を派手に飾るだろう。だが、だからといって、それでこの国の何かが変わるなんてことはいっさいない連中だった。
中村は宴会場を離れて裏に回った。
居間には普段着の洋装から振り袖姿に着替えた桃子がいた。少女は強張った表情でじっと中村を見つめていた。
中村はにっこり笑ってみせた。
「お嬢さん、そんな怖い顔をしないでください。今日はあなたのお祝いだ。あなたのことは警察が全力でお守りします。あなたは安心して楽しめばいいんです」
「でも、警部さん」
「何です?」
「あいつが――蜘蛛男が捕まらない限り、私は安心できないのでしょう?」
「ええ、ですから、我々はあれを逮捕できるよう万全の態勢で備えているのですよ。ご安心なさい。あなたは安全です」
少女はどうにか表情を緩め、お願いします、と頭を下げた。
やがて庭に張り巡らされた飾り提灯に灯が入った。赤いランタンに照らされた巡査たちの厳めしい表情は昼間よりもさらに幻想的だった。
敷地内には警官が一定間隔で配置されていた。蜘蛛男がどこから侵入しようとも死角はなかった。建屋内も死角を作らぬように私服警官が配置された。
蜘蛛男が目標の娘にたどり着くまでには最低でも三人の目に触れるはずだった。それだけの監視をくぐり抜けてどうやって娘に忍び寄るというのだ。
ひとたび発見されれば複数の警官で追い詰める計画だった。
先日のビルディングの殺人のときとはちがい、この屋敷ではいちばん高くても庭木の桜だった。その高さは二階の屋根と大差ない。蜘蛛男に手の届かないところへ逃げられてしまう心配は、今回は必要なかった。
ただ、中村は蜘蛛男に共犯者がいるのは承知していたが、せいぜい二、三人だと見積もっていた。十人有余の大所帯だとは予想していなかった。