第一話「怪奇! 蜘蛛男」 07
「ストップ、ストーップ!」編集長が叫んだ。
電報を届けにきた郵便配達が飛び上がって驚いた。
どうした、どうした、と記者たちが編集長の周りに集まった。
編集長が手にしているウナ電は、蜘蛛男からの予告状だった。大物政治家大田黒の孫娘を誘拐すると言っていた。朝刊にぎりぎり間に合う時間を狙って送ってきていた。
編集室は騒然となった。
森田は騒ぎのなかをそっと抜け出して一階の自動電話へ向かった。
瘋癲病院へかける。
「はい、蒼月堂病院です」
「もしもし、毎朝新聞の森田ですがね、十四号を呼んでもらえますか――」
麻の上下に白いソフト帽をりゅうと着こなした洒落者が、海へ向かう人気のない夜道を歩いていた。空は雲に覆われて月も星も隠れているが、男の姿だけ幽鬼のようにぼうっと浮かんでいた。
間遠に灯っている外灯から外灯へと辿って歩く男の足元は、酒が入っているらしく危なっかしい。ふと何か感じたのか男は立ち止まった。後ろを振り返り、深い闇にじっと目を凝らした。
男は煙草をつけるのに手間取ったがまた歩き出した。しかし、しきりと後ろを気にしていた。数歩ごとに振り返り、足音が聞こえないか、耳を澄ましている様子だった。
男は煙草の煙をたなびかせて潮の匂いの濃いほうへ向かっていた。男が目指しているのは十日ほど前から使っているアジトだった。
夜は更けていたが、まだ仲間たちが寝る時間には早い。大概の仲間は出払っているが、残っている数人には帰るのが早すぎて馬鹿にされそうだ。
明日は大きなヤマだから娑婆は今日が見納めかもしれないと、男は踊り納めにダンスホールへ出かけたのだ。しかし、久しぶりに顔を出したホールには馴染みのダンサーはいなかった。
ボーイの話じゃ株屋の愛人に収まって赤坂のアパートメントで優雅に暮らしているという。当てが外れて、代わりの女も見つからなかった。
こんなことなら仲間と一緒に吉原なり玉の井なりにくり込めばよかったと思ったが後の祭り。ただ盃ばかりを重ねて早々に酔っ払ってしまい、まともにステップも踏めなくなったので引き上げてきたのだった。
不完全燃焼もいいところ。弱そうな奴がいれば因縁をつけて財布のひとつでもまきあげてやりたい気分だった。
埠頭の入口までやってきた。
次の角を曲がれば目指す建物というところで、さすがに経験を積んだ犯罪者らしく足を止め、ぐるっと周囲をうかがった。
追けられている様子はなかった。親分はそういうことを全然気にしないのだが、その裏にいる奴がうるさいのだった。
殺すぞと脅されるのは少しも怖くないが、実験台にするぞと言われるのは得体の知れない恐ろしさがある。実際、怪物に変えられた親分という実例を見ていればなおさらだ。もっとも、親分の場合は何かの懲罰ではなく、高額の報酬に惹かれてのことだった。
男は角を曲がり、貿易会社の看板を掲げた三階建のビルディングに入って行った。灯りは消えているが玄関扉は開いていた。
一階はごく普通の事務所だった。灯りをつけずに机の間を抜けた。奥の扉を開けると地下に降りる階段があった。
降りようとした瞬間、男は後ろから首を掴まれ壁に押しつけられた。額が壁にぶつかり一瞬、意識が切れかけた。
「蜘蛛男は下か」
地獄から響いてくるような、しわがれた声だった。男は振り返ろうとしたが動けなかった。首を押さえつけられて声を出すこともかなわなかった。
「下か」
首にかかる力が強まった。相手が本気で首の骨を折ろうとしているのがわかった。男は恐怖にかられて肯いた。
ふっと首にかかる力が弱まった。男は身体を回そうとした。その瞬間に髪を掴まれ、頭を壁に叩きつけられた。
男が意識を失う前に見たのは、屍人の顔のような皮製のお面だった。
森田からの連絡を受けて、此の夜の主は先日蜘蛛男の手先を見失った場所へ一縷の望みをかけてやってきたのだった。
それが功を奏して蜘蛛男の部下らしい男にぶつかった。
白帽子の洒落男は森田を尾行していた男と同じ「匂い」がした。喩えではなく此の夜の主の鼻は本当に同じ匂いを感じたのだ。
男についていくと営業時間をとうに終えた貿易事務所に入っていくではないか。此の夜の主は気配を殺して男に近づくと、背後から襲いかかった。
男は簡単に秘密を吐いた。
――蜘蛛男は地下にいる!
此の夜の主は気絶した男の身体を引きずって事務所の机の下に隠した。
拳銃を抜いて階段を降りた。階段の下に鉄の扉があって「関係者以外立入禁止」の札が掛かっていた。
此の夜の主は扉に耳をあてた。
聞こえてくる微小な音で、扉の向こうを視覚的に認識する。なかは意外と広いようだ。天井も高い。男が三人いる気配。扉を開けて右手の近くにひとり、左側の奥にひとり、正面の壁際にもいる。正面のが蜘蛛男だろうか。
男たちは酒を飲みながら話していた。どうやら仲間たちは皆、出かけているらしい。
此の夜の主は慌てずに彼らのお喋りを聞いた。「太田黒」という名が出てきたので、三人とも蜘蛛男の一味であるのは間違いなかった。しかし、三人のなかに蜘蛛男本人はいないようだった。
外出しているのか。此の夜の主は舌打ちした。しかし、そうではなかった。手下たちの話では、扉の向こうの部屋の奥にもうひとつ部屋がある。蜘蛛男はそこにいるらしい。
此の夜の主は銃をしまった。蜘蛛男に気づかれる前に三人の男を片づけることを考えた。手下たちは一瞬でケリをつけて、蜘蛛男と一対一で勝負できれば負ける気はしなかった。
黒手袋が扉の把手をそっと握り、静かに回した。
鍵はかかっていない。ほんの数センチ、扉を引き開けた。男たちの話声、酒と汗の匂い、湿気、熱――この隙間から一気に情報が溢れ出した。
此の夜の主は男たちの位置を瞬時に把握して部屋のなかへ飛び込んだ。
右にいた男が最初の餌食だった。そいつはまだ此の夜の主の侵入に気づいていなかった。そして、気づく前にみぞおちに鋭い突きを入れた。男は躰をふたつに折って床に崩れた。
此の夜の主は反転して左の男に向かった。その男は壊れかけた安楽椅子に埋もれて酒瓶を抱えていた。酔眼は此の夜の主を見ていたが、何の反応も示さなかった。
此の夜の主は跳んだ。長靴の爪先が男の顎を砕いた。
男の手から滑り落ちた酒壜が床へ落ちる前に、此の夜の主は受け止めた。
壜をそっと置いて顔を上げたが、三人目の男もまだ状況を認識できていないようだった。男がようやく懐の拳銃を掴んだのと同時に、此の夜の主の手刀が頸を襲った。男は白目を剥いて床に伸びた。
すべて一瞬の出来事だった。音はほとんど立たなかったが、蜘蛛男もこの夜の主ほど鋭敏な聴覚を有しているなら気づいたかもしれない。此の夜の主は銃を引き抜いて目の前の扉を睨みつけた。
扉は開かなかった。
耳をすませると何かが動いている微かな音は聞こえた。
――扉の向こうに蜘蛛男がいる。
此の夜の主は銃把を握りしめた。殺さずに警察へ引き渡せればよいのだがどうなるかわからない。彼は扉を一気に引き開けると身体を低くして侵入した。
暗い部屋の奥に蜘蛛男の姿が見えた。
斜めに跳びながら銃口を蜘蛛男に向けようとした。しかし、腕を上げられなかった。
手首にからみつく物があった。膝と腿も何かに阻まれた。何か粘りつく物にからみつかれて、手足が自由に動かせなかった。
此の夜の主の身体は跳んだ姿勢のまま空中に浮かんでいた。
粘りつく物から逃れようとして、もがけばもがくほど、そいつは身体にからみついてきた。
「ははは、馬鹿だなあ。どこを襲うつもりだったんだ? おれは蜘蛛男だぜ」
部屋の奥にいた男が前へ出てきて天井から下がった裸電球をつけた。
「壁にくっついているだけなら、そこらの虫と変わらねえじゃねえか。蜘蛛ときたら蜘蛛の巣だろう。蜘蛛の巣を張らない蜘蛛なんて格好がつかねえじゃねえか、ははは」
此の夜の主は身体に粘りついて彼の自由を奪っているのが白っぽい糸だと気づいた。細い糸が凧糸ほどの太さに撚られていた。無数の糸が天井や床、そして壁の間に、網目状に張られていた。
此の夜の主は網のなかへ自分から飛び込んでしまったのだった。
かろうじて動く手首を回して、蜘蛛男に銃口を向けようとした。
蜘蛛男はそれに気づくと大きく口を開けた。耳まで裂けているのではないかと思うぐらいぱっくりと口は開いた。そして痰を吐くような音をさせて何か吐き出した。
喉から出てきたのは痰ではなく、糸だった。拳銃を持った手に生温かい糸はからみついて動かなくさせた。
「あんたは此の夜の主さんだろ? わざわざそっちから飛び込んできてくれるとはありがたいかぎりだぜ。これであの方も大喜びだね。太田黒の娘におまけがついた。生け捕りだからなおさらだな」