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第一話「怪奇! 蜘蛛男」 06

「こっちへ来い、十四号」


 猿のように皺くちゃの老婆が青年を手招きした。青年は窓辺の寝台に横たわる小さな老婆に近づいた。


「師匠、ご無沙汰しておりました」


 老婆は眉をひそめた。


「何を言う? 昨日も来たではないか」


 青年は戸口に立つ増田医師を振り返った。医師が肯いた。


「フッ、あんな者のことは気にするな。袁世凱の犬っころなど相手にする値打ちもない」


 袁世凱が死んですでに二十年近い年月が過ぎている。老婆の時間は止まっていた。


 自分では辛亥革命で故国を追われた宣統帝の後宮にいたと言っていた。が、彼女が中国語を使うところを誰も見たことがない。そして、老婆の話す日本語には寸毫の中国訛りもなかった。


 老婆の言うことは彼女の妄想だった。だから、ここに入院しているのだ。


 孫文ら謀反人の手を逃れて日本に渡ってきたが、東京で袁世凱の手下に捕まりここに監禁されている、と老婆は信じ込んでいた。


 しわぶきをひとつして、老婆は身体を起こした。はだけかけた浴衣の前を整えると寝台から降りた。立っても青年の胸までしか届かなかった。


「稽古をつけてやろう」


「無茶はお控えください」


 医師がとどめた。


「黙れ」


 老婆は一喝した。


 青年の脇を抜けて部屋の真ん中まで出ていった。すれ違いざま饐えた尿の匂いがした。老婆は青年に向かって無造作に立った。


「さあ、かかってまいれ」


 老婆の声は小さく柔らかかった。


「およしなさい、十四号」


 医師の声を無視して青年は老婆の側頭部へ蹴りを見舞った。常人の目にはとらえきれない迅さ――武道の有段者でも避けえない一撃だった。


 しかし、青年の脚は空を切った。


 老婆はほんの半歩後ろに退がっただけだった。その鼻先紙一重を青年の爪先は通過していた。


「未熟者。〈イ〉が丸見えじゃ」


 青年の頬が鳴った。老婆の掌が打ったのだった。青年の目にもその手がいつ動いたのかわからなかった。


 老婆はその拳法を〈()(けん)〉と呼んでいた。


 老婆によれば人は動くとき、その前に必ずその身体に〈イ〉が現れる。


 たとえば単純に歩くときでさえ、一歩足を前に踏み出す前に、重心の移動、前方の視認、脚を上げようとする太腿の筋肉の緊張などの予備動作がある。


 老婆はこれらをすべて〈イ〉と言った。〈イ〉とは〈意〉であり〈息〉であり〈行〉であり〈生〉であった。


 古来、武術の達人は敵の〈イ〉を察することで「後の先」を取ってきたのである。敵の〈イ〉を読んで守れば不敗、己の〈イ〉を見せずに攻めれば必勝。


〈無イ拳〉とは清の帝室に伝承されてきた無敵の秘拳であった――とは言っても彼女は魚屋の女房にすぎなかったのですよ、と増田医師はその来歴を否定していた。


 しかし、老婆が青年の渾身の一撃をかわし、隙をついてその頬を打ったのは事実だった。


〈無イ拳〉は老婆の妄想の一部であったが、老婆の肉体に実際に存在していた。


 なぜ素養も修行もないところに達人が誕生したのかという問いに、医師は脳がそれを完全に信じているからだと答えた。


 いわば〈無イ拳〉とは偶然であり、誰にも知られずこの瘋癲病院のなかで消滅するものなのだ。唯一の伝承者である青年にしても、それを誰かに伝える可能性は皆無だった。


 青年が老婆の蹴りをぎりぎりで受け流すと、老婆は顔をくしゃくしゃにして「よしっ!」と言った。しかし、青年の攻め手はすべてかわされた。


「心に乱れがあるな、十四号」


 老婆は青年に背を向けて寝台に戻ると、その縁に腰かけた。サイドボードの水差しからコップに水を注ぐと、突然その水を青年の顔にかけた。青年は避けられなかった。


内外打成一片ないげだじょういっぺん!」


 老婆の鋭い声が狭い部屋に響いた。


「何です?」青年は眉をひそめた。


「禅ですかね」と医師が言った。


「どういう意味です、師匠?」


 老婆はもう横になっていた。青年に背中を向けて何も答えなかった。


 青年は医師を振り返った。


「どういう意味です?」


 医師は首を振った。


「何しろ禅ですからね」




 窓のない地下室には煙草の煙が充満して目に染みるほどだった。


 聖林映画のギャングのような男たちが、廃物置場から拾ってきたようなソファや椅子にだらしなく座っていた。


 ウイスキーを壜から直接飲んでいる男がいる。「キング」を開いたまま顔に乗せて鼾をかいている男の横では、ブローニングを分解掃除していた。彼らの周りの床には大量の吸殻が散らばっていた。


 蜘蛛男は素足で天井からぶら下がっていた。


 扉が開き、着物姿の女が入って来た。女は煙草の煙に眉をひそめ、男の手から酒壜を奪って卓子に置いた。


「あんたたちたるみ過ぎだよ」


 女は男たちを見回して言った。


「仕事か、お葉?」


 逆さ吊りの蜘蛛男が聞いた。


「当たり前だろう。あんたたちにタダ飯食わせるつもりはないよ。(おあし)が欲しいんなら働くこった」


「誰も働かねえとは言ってねえよ」


「じゃあ、そんなとこにぶら下がってないで、降りてきて真面目に人の話を聞きな」


「おれは真面目だぜ、お葉。蜘蛛男にとっちゃこの格好が当たり前なんだ。え、誰がこんな身体にしたって言うんだよ? おれから頼んだわけじゃねえぜ」


「ちっ、仕方ないねえ。じゃあ、そのまま聞きゃあいい。そのかわり、頭に血が上って覚えられませんでしたとか、寝惚けたこたあ言いっこなしだ」


「頭ははっきしてる。股座にだってちゃんと血は回るぜえ。何ならおまえ、試してみるか」


「試してもいいが、妾のには歯が生えてんだ。噛みちぎられてもいいなら相手してやるよ」


 男たちが笑った。お葉も笑った。


「あの方の指示だ。今度は太田黒清右衛門の孫娘をさらってきな。ただし、いつでもいいってわけじゃないよ。来週、太田黒の屋敷でその娘の誕生会をやるんだとさ。そこからかっさらってこいってのがあの方のご希望だ」


「何でわざわざ仕事を面倒にするんだ?」


「馬鹿だね、あんたは。目的は娘の誘拐だけじゃないのさ。蜘蛛男の宣伝も兼ねてるんだよ」


「おれはべつに宣伝してもらわなくてもかまわねえが……」


「調子に乗るんじゃないよ。蜘蛛男はてめえだけだなんて思ってんじゃないだろうねえ」


「へ? ちがうのかよ?」


「馬鹿。あんたは見本なんだよ。あの方にゃ蜘蛛男ぐらいいくらでもこさえられんのさ。評判が良けりゃ一部隊作ろうってことになるんだよ」


「おれはお試しかい?」


 蜘蛛男が不満そうに言った。


「そうだが、働きが良けりゃ、いずれ蜘蛛男部隊ができたときにその隊長にしてもらえるかもしれないんだから頑張りな」


「仕方ねえな。あの方に認めてもらえるよう、せいぜい気張るとするか」


「そうそう、それがいちばんだ。ほら、これを渡しておくよ、軍資金」


 お葉は分厚い封筒を懐から出すと、逆さまの蜘蛛男に手渡した。


「無駄使いするんじゃないよ。あの方は厳しいからね。失敗は絶対に赦さない。いいね?」


「お、おう。わかってらあ」


 蜘蛛男は気圧された様子で封筒を握りしめた。

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