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第一話「怪奇! 蜘蛛男」 05

 増田医師は十四号室の扉を叩いた。


 トントントン、少し間をおいて、トントン――なかから閂のはずれる音がした。


 この病室はなかから鍵がかけられるようになっているのだった。


 老医師は扉を開けた。薄暗い廊下の明かりがぼんやりと部屋のなかを照らした。壁際の椅子に人影があった。なかへ入って後ろ手に扉を閉めると部屋は真っ暗になった。


「明かりをつけてください」


 医師が言うと、フィルム写真を現像する暗室のように赤いランプがついた。


 赤い光に照らされた部屋は、殺風景で異様だった。床も天井も壁もコルクが貼られていた。ぶつかっても怪我を負わないためではなく、音を吸収させるためだった。


 扉を閉めてしまうと恐ろしいほど音がなくなった。自分の鼓動さえ聞こえそうだった。


 調度品は寝台と椅子しかなかった。


 椅子にいたのは此の夜の主と呼ばれていた青年だった。


 青年は医師に傍らの寝台を指差した。室内には青年が座っている物のほかに椅子はなかった。医師は固い寝台に腰を下ろした。


「憔悴していますね。かなり神経が昂ぶっているようだ。しばらく外出はお控えなさい」

 青年は無言で首を振った。


「昼間の外はあなたには刺激が強すぎるのですよ。昨日も今日も出かけたでしょう。しかも制限時間を超えても戻ってこなかった」


 青年は医師をじっと見つめた。やがて口を開いた。


「仕方がなかった」


 医師は、はあ、と大きくため息をついた。


「しかし、そのせいで苦しんでいるのですよ」


「ちょっと疲れただけだ」


「ちょっと疲れただけ? そんなに興奮してよく言えますね。鎮静剤を打ったほうがいいのではありませんか」


「駄目だ。感覚が鈍る」青年は断固として言った。


「何を言っているんです? その感覚が元凶なのではありませんか。あなたの人間離れした五感は本来ひとりの人間に耐え得るものではないのですよ。あなたの鋭敏すぎる感覚器官は、現にあなたを苦しめている」


「慣れている」


「それは慣れたのではなくて我慢しているだけです」


「じきに休めるはずだ」


「じきとはいつのことです? その前にあなたの精神が壊れてしまうかもしれない。責任は持てませんよ」


「大丈夫だ。頭痛薬さえ出してくればいい」


 医師は口唇を固く結んで顔を伏せた。青年も何も言わなかった。気まずい沈黙が続いた。それを破ったのはやはり医師のほうだった。


「ミス・アグネスが会いたがっています」


「本心を言えば会いたくない。が、そうもいかない。先生、予定を調整してください。それから、師匠に会わせてもらえないだろうか」


 医師はしばらく考えていたが、やがて肯いた。


「……いいでしょう、後で会えるようにしましょう。ただし、彼はいま、あまり具合が良くないのです。ここへは来られません。あなたが彼の病室まで行かなければなりません。よろしいですか」


 青年は何か問いたげな表情を見せたが、結局何も言わなかった。




 中村は怒っていた。


 有馬の警護が不首尾に終わったことはいい。元々慣れぬ仕事を押し付けられたのだ。被害者の無残な死体を見ても責任はまったく感じなかった。大きな声では言えないが、リャク屋の生死などどうでもよかった。


 そんなことより腹が立つのは本職の殺人捜査が上手くいかないことだ。蜘蛛男の行方は杳として知れず、あろうことか新聞記者に特ダネをすっぱ抜かれてしまった。


 すっかり面子を潰された中村は部下に当たり、物に当たって、周囲を辟易させていた。そんなところへまた警護の命令である。冗談じゃないと上司のところへねじ込んだ。しかし、敵はまたあの蜘蛛男らしいと聞かされて、中村は俄然やる気を出したのだった。


 警護対象は政友会の大物の太田黒清右衛門の孫娘桃子。


 今年十七歳の美少女という話だった。蜘蛛男が誘拐せんと狙っているという。


 中村としてもリャク屋風情と同列に扱うわけにはいかないと気を引き締めた。


 太田黒の屋敷を訪ねると太田黒本人に出迎えられた。よほど孫娘を大事に思っているらしい。前回の失敗はすでに耳に入っているらしく「大丈夫かね?」と心配そうに聞いてきた。


 中村は怒りと恥ずかしさで茹で蛸のようになった。それでも目を剥いて胸を張った。


「この前は不意を突かれたのです。今度はもう奴の手口はわかっていますのでみすみすお嬢さんを奪われはしません」


「お願いしますよ」


「わかりました。それでは、脅迫状を拝見できますか」


「脅迫状はない」


「はっ? ないのですか。では、脅迫電話ですか」


「まあ、そのようなものだ」


「そのようなものとはどういうことでしょう?」


 中村は首をひねった。太田黒はそこをはっきりさせたくないらしく、目を逸らした。


「そんなことより孫を紹介しよう」


 太田黒は控えていた書生に合図をした。しばらく待つと、陽の下に一度も出したことがないような色白の美しい少女が応接間に入ってきた。


「孫の桃子だ」


「桃子でございます。中村警部でいらっしゃいますね。お世話になります」


 少女の目は必死の決意を固めた者のようだった。そこには怯えなど微塵も見られなかった。見た目よりもずっと強い精神を内に秘めた子のようだった。


「ご安心なさい。あなたのことは警視庁が必ず守り抜いてみせます。蜘蛛男なんぞに指一本触れさせやしませんから」


「ありがとうございます。私なんかのために申し訳ありません」


「学校は休ませている」太田黒は不機嫌な声で言った。「当分は家から一歩も出さないつもりだ」


「蜘蛛男はいつまでと期限を切っているのですか」


「いや、そうではない」


「では、奴を捕まえない限りケリがつきませんね」


 太田黒は大きく肯いた。


「それで一計がある」


「一計ですか……」


 素人の計略ほど危ういものはない、と思いながら、中村は年寄りの思いつきを傾聴した。


 太田黒は罠を仕掛けるというのだった。来週、桃子は満十七歳の誕生日を迎える。大勢の客を呼んで誕生パーティーを催せば、蜘蛛男は必ずその機会を狙うにちがいないと。


 中村は案外名案かもしれないと感心した。


 有馬殺害の前にも新聞に予告状を送りつけた自己顕示欲の強い犯人である。誕生パーティーがあると聞けば、あえてそこを狙って犯行に及ぶ可能性は高い。


 中村は太田黒の計略に乗ることにした。


 この日から少女の警護は始まった。太田黒の屋敷の内外に二十名余の警官隊が配備されることとなった。


 そして、翌日の朝刊各紙で、太田黒桃子十七歳の誕生日パーティーが各界の著名人を集めて催されると報じられたのだった。


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