第一話「怪奇! 蜘蛛男」 04
間宮は帽子を脱いで帽子掛にかけた。
ソファに座っていた老人は、彼が入ってきたのに気づかずに眠っているようだった。しかし、間宮が窓際の自分の机に座ると、老人は眼を閉じたまま「遅い」と言った。
「年寄りは無駄に朝が早い」
間宮は他人事のように答えた。老人は目を見開いた。
「失礼な!」
間宮は歯を見せて、ハハハ、と笑った。
「でも、事実でしょう?」
老人は間宮を睨みつけた。
「儂がこんな朝早くから何しに来たかわかるか」
「文句をつけに来たのはわかりますがね、文句を言われるような覚えはないのですよ」
「何を言う。誰があんな目立つことをしてくれと頼んだ」
「私の機関を何だと思っているのです? 政治家が私物化できるとでも勘違いしましたか。文句をつければ代償を値切れるとでも?」
老人は竹の杖を卓に叩きつけた。湯呑茶碗が転んで茶がこぼれた。
「あまり興奮すると脳の血管が切れますよ、ご老人」
「殺害予告を出したうえにあんな化け物まで使いおって世間の注目を集めてしまったではないか。貴様は内閣を潰す気か」
「毀れたところで替えがきく物には価値を見出せない性分でして」
「貴様、何を企んでいる?」
間宮は立ち上がった。左手で縁に触れながら机をゆっくりと回った。
「何も企んでなどおりません。当初の約束どおりの報酬をいただきたいだけです。うちの機関の内実をご存知ならおわかりのはず。正規の予算だけでは到底やっていけないのですよ。あなたが化け物と呼んだあの実験体に一体いくらかかったと思うのです?」
「馬鹿な! 政権が民政党に移ってしまったら元も子もないではないか」
「なぜです? 政友会でも民政党でも皇軍がなくなるわけではありません。民政党が政権を握れば彼らに同じことを要求するだけです。私は国家のために働いている。あなた方のためではありません」
間宮は老政治家の傍らに立つと、微笑んだまま氷のような眼差しで見下ろした。
「中尉風情が――」
「その中尉風情に頼らざるをえないあなた方なのですよ」
老人は歯噛みした。間宮はその怒りに打ち震えている肩にそっと手を置いた。
「……わかった。秘密資金の件、承知した」
「承知ですか? それは約束済みのことなのですから払うのが当然でしょう。むしろ、忙しい私の貴重な時間をこんな不毛なやりとりで浪費させたことに対する謝罪はどうなるのです?」
「つけあがりおって……」
間宮は身体を折って倒れた茶碗を取り上げた。
「聞くところによると、ご老人にはお美しいお孫さんがいらっしゃるそうですね。大層かわいがっておられるとか」
老人は一瞬呆気にとられた顔で、何の変哲もない湯呑茶碗を高価な名器のように撫でている青年将校を見つめた。やがてその皺だらけの口元に嘲侮の笑みが浮かんだ。
「偉そうなことを言ったくせに、結局は貴様も小者だな」
「ほう、小者ですか」
「桃子を娶って儂の閨閥に繋がりたいという腹であろう」
「これは驚いた。老人はそんなに私と親戚になりたいですか。生憎と私のほうは願い下げです」
「ではなぜ桃子のことを持ち出した?」
「私たちの研究に必要なのは資金だけじゃない。もうひとつ、若く健康な肉体も不可欠なのです。これまで大病をしたこともなく、遺伝関係を数代前まで遡れるような肉体が実験体には理想的です」
老人の顔にさざ波のように恐怖が広がった。
「な、な、何を言っているのだ?」
「このくだらない面会の代償として、お孫さんを差し出しなさいと申し上げているんですがね、わかりませんか」
「桃子をあの蜘蛛男のような化け物にすると言うのか」
「さあ、蜘蛛女になるか、蛸女になるか、それはわかりませんな」
「ば、馬鹿を言うな!」
間宮は茶碗から手を離した。茶碗は床に落ちて音高く割れた。
「馬鹿なことなど何ひとつ言っていません。よろしいですか。私の機関には小娘ひとりさらうくらいいつでもできます。あなたの承諾を得るまでもない」
「そんなことをしてみろ、貴様たちだってタダではすまんぞ」
「もちろん、そうなればあなたやあなたの仲間たちもタダではすまないでしょう。まさかそれだけの犠牲を払えば、桃子さんが無事に帰って来ると考えているわけではありませんよね?」間宮は軍靴の底で茶碗をパリパリと踏み潰した。「あなたの手元に戻ったときには蛸女か蛞蝓娘か――」
「どうしたらいい! 桃子を守るにはどうすればいいんだ?」
老人は間宮へすがるように手を伸ばした。その手は邪険に払われた。
「そうですね……、今回と同じ金額を四半期ごとにお支払いいただきましょうか」
「無理だ。政府の機密費からはそんなに出せない」
「ならば正規の予算に潜り込ませればいい。まあ、それが決まるまではお孫さんは担保としてお預かりしましょう。まあ、早めにお願いしますよ。こう見えて意外と堪え性がないんです。三か月以内で決まらなければ、桃子さんは担保物件から実験体に変わります」
「駄目だ。桃子は連れて行かさん」
老人は思わず立ち上がっていた。
「そう思われるのはそちらの勝手です。警察でも何でも頼ったらよろしい。ただ、ご老人が殺してくれと依頼してきた有馬も警察には頼っていましたよね? 結果はあのとおりです。私としては無駄に抵抗するより、うちへの支払いをどうやって国家予算からひねり出すか、そちらへ頭を働かせることをお薦めします。ああ、もうこんな時間になってしまった。これ以上、私の時間を無駄にしないでください。どうぞ、お引き取りを」
「頼む。このとおりだ。桃子だけは、あの子にだけは手を出さないでくれ」
老人は床に頭を擦り付けて土下座した。
間宮の顔から微笑が消えた。
「みっともない。他人の命は何とも思わないくせに、身内はそんなに大事ですか。およしなさい。私にはあなたの土下座など一文の価値もない。頭を下げるなら、それが役に立つところで下げるんですね。もう出て行ってください。早くしないと人を呼びますよ。そんな姿を見られたくはないでしょう?」
老人はよろめきながら立ち上がった。その額は割れた茶碗の破片で切れて、血が流れていた。老人はもはや何も言わず、間宮を見ようともせず、魂を抜かれたかのように部屋を出て行った。
間宮の口元に微笑が戻った。彼はしゃがみ込んで茶碗の破片をひとつひとつ丁寧に掌へ拾っていった。