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第一話「怪奇! 蜘蛛男」 03

「へえ、そいつはビルディングの壁を八階まで登って人を殺し、それからまた壁を伝って地面に降りたんですか」


 靴磨きは感心して、汚れた手で鼻を擦った。それが癖なのだろう、すでに鼻の頭は靴墨で黒く汚れていた。


「何せ蜘蛛男だからな」


 若い男は自慢げに言った。


「どうして降りてくる前に下で待ち構えて捕まえられなかったんですか」


「おじさんが想像しているようなそんなゆっくりしたもんじゃなかったんだ。手のひらと足の裏に何か特別な仕掛けがあるらしい。壁にピッタリ貼りつくんだよ。地面を四つん這いで進むのと同じように壁を上り下りできるんだ」


「へえ、そいつはまた盗人にゃもってこいの仕掛けじゃねえですか」


「うん、そうなんだが、泥棒ならまだしも、ことは殺人だからなあ」


「……へい、終わりましたよ、旦那。五銭になります。けっこう踵が減ってますね。仕事柄よくお歩きになるんでしょう。半張り付けたほうがいいですよ」


 若い男は金を払うと足早に歩き去った。しばらくすると新しい客が靴磨きの前の腰かけに座った。


「あれでよかったんですか」


 靴磨きは目を伏せたまま問いかけた。


「ああ、十分だ。助かった、ありがとう」


 その客の口唇はほとんど動いたように見えなかった。客はポケットに突っ込んでいた手を出して、靴磨きに差し出した。指に一円札が挟まっていた。


「こんなにいただけるんですか。すみませんね」


「また頼む」


 そう言うと、客は靴を磨かせることなくガード下から立ち去った。




 市電の配車場近くの飯屋では、顎の下に生活の疲れが溜まった中年女が、べとつく卓へ丼を乱暴に置いた。


 十銭の玉子丼は美味そうでもなければ、量が多くもなかった。ただ出来たてで温かいだけ。

 男は割り箸を割ると丼を取り上げた。箸の先で葱をつまんで口に入れた。


「こっちは運転するのに真剣なんだから、蜘蛛だか何だか知らないが、そんなものがくっついていたってわかるかってんだよ」


「車掌さんもわかんなかったの?」


 飯屋の隣のカフェでは、いかにも場末のカフェらしい、白粉の浮き上がった厚化粧の女給相手に、仕事帰りの市電の運転手がクダをまいていた。


「車掌はトミ公だったからな。知ってんだろ、トミ公は? 何考えてるんだかわからない、ボーっとした奴だよ」


「ああ、富岡さんのことね」


 飯屋では男が丼のなかをじっと見つめていた。隣の椅子には角の革が剥げた書類鞄。その上に乗せた中折れ帽は形が崩れて汗染みもある。


 男はひと目で吊るしとわかる背広の背中を丸めて、玉子丼を箸の先に少量ずつ乗せて口に運んでいた。そして、不味そうに噛んでいた。


 安月給取りが乏しい小遣いで貧相な夕飯をとっている――ようだった。


 カフェでは女給が雑な手つきでコップに麦酒を注いだ。泡がふわっと盛り上がる。


「富岡さんは蜘蛛男を見たのかしら」


「逃げるときまで気がつかなかったって言ってたな。蜘蛛は洲崎に着く直前で飛び降りたらしいぜ。そのままトラックの荷台にしがみついて行ったそうだ」


「へえ、荷台にねえ」


「蛸の絵が描いてあるトラックだったってさ」


 玉子丼をぼそぼそと食べていた男が丼から目を上げた。丼を置き、湯呑を掴んだ。ぬるくなった茶を飲んで「勘定を頼む」と声をかけた。


「あら、残すの? 口に合わなかった?」


「すまない。思ったより腹が減ってなくてね」


 男はそそくさと金を払って店を出て行った。


「どんな育ちしてんだか。もったいない。バチが当たるよ」


 中年女は舌打ちして男が半分以上残した玉子丼を片付けた。




 蛸の絵に水をかけて、ねじり鉢巻きの男がトラックを洗っていた。


 長い柄のついたブラシで荷台をごしごし擦っている。筋骨隆々とした裸の上半身が汗に光っていた。


 恰幅のいいパナマ帽の男がはねかかる水を避けながら男に近づいて行った。


「あんたが蜘蛛男を乗せた人?」


「人聞きの悪いことを言うなよ。あんたは誰だい?」


 男が手を止めて振り向いた。パナマ帽の男は名刺を出した。


「毎朝新聞の森田さん? 新聞記者か?」


「ええ。おたくのトラックが蜘蛛男の逃走に使われたって社のほうに電話で教えてくれた人がいてね。本当の事なのかい?」


「随分と早耳だな。まだ警察も来てないのに」


「これが仕事だからね。でも、そう言うってことは本当なんだな。蜘蛛男ってのはどんな奴だった?」


 記者は開襟シャツのポケットから手帳を取り出した。


「どんなって言われてもなあ、あんたには悪いがよくは見てないんだ」


 トラックの運転手は頭を掻いた。


 記者は重い口を開かせようと煙草を勧めた。こういうときのための敷島。自分が普段喫っているのはもっと安いやつだった。運転手は一本取ると吸い口を潰して咥えた。


「顔は見なかったが、あいつは青山の交差点まで乗って来て、ゴーストップで停まったときに――」


 記者は鉛筆を舐め舐め取材していたが、ひと通り聞きたいことを聞いてしまうと礼を言って運送屋を出た。


 強い日差しの下、パナマを脱いでハンカチで汗を拭うと、運送屋の塀沿いを大通りのほうへ戻って行った。


 記者が角を曲がったとき、運送屋の門からトラックを洗っていた男が顔を出した。彼は左右をたしかめると記者が去ったほうへ歩き出した。もうねじり鉢巻きではなかった。かわりにハンチングをかぶっていた。


 大通りで男は記者を見つけた。記者は市電の停留所に並んでいた。


 男は記者に背を向け、洋食屋のショーケースを覗き込んでいるふりを装った。ショーケースのガラスに、扇子を使っている記者が映っている。


 すぐに、チンチンッ、と市電がやって来た。玄人らしき女と腰の曲がった老人の間で、記者は市電に乗り込んだ。記者を乗せた市電が動き出すと、男は車道に飛び出してタクシーを停めた。 男はタクシーの運転手に、前の市電の後ろについて行くように注文すると、助手席の背もたれにしがみついて前方を睨みつけた。


 記者は途中で二度乗り換えた。尾行者もそのたびにタクシーを乗り継いだ。


 汗だくになった記者が丸の内の毎朝新聞の社屋へ入っていくと、ビルの陰からその様子をうかがっていた尾行の男はホッと息を吐いた。


 緊張の糸が切れたらしく、壁にもたれて煙草に火をつけた。


 男がたっぷり時間をかけて煙草を吸い終え、鼻唄まじりに歩き出したとき、百メートルほど離れた建物の陰から動き出したもうひとりの男がいた。


 工員風の菜っ葉服を着たその男は、ガード下で靴磨きに金を渡した男であり、配車場そばの飯屋で玉子丼を食べていた男だった。そして、先夜、此の夜の主と呼ばれた青年だった。


 記者を尾行していた男もずっとこの青年に追跡されていたのだった。




 青年と男とはかなり距離が離れていた。


 たとえ男が振り返り青年に気がついたとしても、追けられているとは絶対に思わないだろう。それ以前に、青年の姿を見つけられるかどうか。そのほうがずっと難しいかもしれない。


 しかし、青年は距離を詰めようとはしなかった。必要がなかったのだ。


 青年の目は男の服の小さな皺まではっきりと捉えていた。青年の耳は男の足音や鼻息を都市の騒音から明確に聞き分けていた。煙草の匂いと混ざり合った男の体臭も青年の嗅覚は逃さなかった。


 青年の五感は人間の閾値をはるかに超えていた。そして、その脳は外界から流入する膨大な情報を高速で処理し、第六感ともいうべき高度な認知機能を彼に与えていた。


 青年はしようと思えば目を閉じて誰にもぶつからずに尾行を続けることもできた。ただ、世界が彼に強いる圧倒的な情報の量は、彼をひどく疲れさせた。


 増田医師は昼間の活動は三時間までにとどめるよう言っていた。それ以上は心身の負担が大きすぎ、動悸や頭痛、吐き気だけでなく、意識が混濁したり、失神したりする場合もあるという話だった。


 実際、青年自身、何度か倒れた経験があった。いまも青年はしばらく前からこめかみが鼓動のたびに疼くのを感じていた。すでに医師の制限時間を一時間近く超えている。


 男は市電の停留所で止まった。来たときとは路線がちがう。出発地に戻るのではないようだった。


 ――蜘蛛男のアジトへ行くのか。


 青年は足を速め、男の隣へ並んだ。男の整髪油が痛いほど匂う。


 市電はすぐにやってきた。男は乗り込むと前のほうへ行った。


 青年は後ろの座席を選んだ。頭痛が一秒ごとにひどくなってくる。視界も狭くなったような気がした。


 鉄の車輪がレールを踏む鈍く低い音が、耳のなかでいつまでもこだましていた。


 限界が近い。青年は湧き出る生唾を何度も飲み込んだ。電車は海のほうへ向かっていた。


 男は終点の月島まで乗った。青年は他の客が全部降りきるまで座席でじっとしていた。男との間に距離を開けるためもあったが、悲鳴を上げている三半規管をなだめるのに時間が必要だった。


 ふらつきながら市電を降りた。地面の段差に気づかず転びそうになった。乗り込もうと待っていた禿頭の親爺に「兄ちゃん、真昼間からご機嫌だな」と笑われた。酔っていると思われたのだった。


 青年は四方を見回して男を探した。感覚がだいぶ鈍くなっている。


 男は晴海埠頭のほうへ黎明橋を渡ろうとしていた。


 青年は気持ちを奮い立たせて歩き出した。とても眠い。座ったら二度と立ち上がれそうもなかった。


 悪寒、めまい、吐き気。身体がばらばらになりそうだった。


 男の姿を何度も見失いそうになった。


 後ろから走ってきたタクシーにはねられそうになって警笛を鳴らされた。本来なら一分も前に接近を知覚できていたはずだった。感覚が常人並みにまで低下している。


 青年はもうただ怒りだけで重い身体を引っ張っていた。男の姿がかすむ。視界がだいぶ狭くなっていた。ギラギラと照りつける太陽が憎らしい。


 埠頭へ入ったときには頭を鉄の輪で締めつけられているようだった。思考も切れ切れになって、何のために男を追けているのかもよくわからなくなってきた。


 そして、とうとう青年は膝をついてしまった。


 男の気配が徐々に弱くなっていき、やがて消えた。尾行は失敗。もはや自分がどちらから来たのかもわからない。


 青年はビルディングの壁にもたれて、ずるずるとしゃがみ込んだ。


「具合が悪いのかい、あんた?」


 顔を上げると、顔を影にして五十がらみの女が彼を見下ろしていた。

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