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第一話「怪奇! 蜘蛛男」 02

 百尺制限いっぱいの高さに建てられた鉄筋コンクリートのビルディング。その最上階八階に、有馬吾平の事務所はあった。


 有馬は実態が明らかになれば内閣が吹き飛ぶと言われている「倫敦保険疑獄事件」の証人だった。国会で証言に立つことが決定していた。


 その彼の殺害予告状が各新聞社に届いたのは今朝のことである。送り主は蜘蛛男と名乗っていた。


 とかく自分を大きく見せたがりの有馬は、記者たちには蜘蛛男なんてふざけた名の奴など恐れる必要はないと嘯いた。しかし、その陰で警視庁に身辺警護を依頼してきていた。


 捜査一課長の中村警部に警護の仕事が回ってくるのは見当外れというしかない。


 しかし、警視庁でいちばん優秀なのが捜査一課だと思い込んでいる有馬の要望を、警視総監がそのまま聞き入れたのだ。


 現内閣に任命され、もし政権が替わればたちまち御役御免となる警視総監にしてみれば、疑獄事件の証人などむしろ殺されてくれる方がありがたいのかもしれない。


 そんなうがったことを思いながら、中村は廊下の両端に三人ずつ巡査を立たせた。


 階段を上がってくる者、エレベーターを降りてきた者は必ず警察の検問を受けなければならなかった。


 事務所の前にも私服の刑事をふたりつけた。


「しっかりお願いしますよ」


 青白く太った顔に流れる汗を手拭いで拭いながら、有馬は尊大な態度を崩さなかった。太い指にはめた純金のカマボコ指輪を見せびらかすように、扇子を忙しなく動かした。


 有馬吾平という男はいわゆるリャク屋と呼ばれる政治ゴロだった。テロをかけると脅したりして政治家や財閥を強請るのが生業だが、今回はどこをどう間違えたものか、脅迫にとどまらず本当に証言台に立つことになったのだった。


 挙句の果てに自分が脅迫される立場に回っている。誤算なのか。いやいや、と事情通は首を振る。有馬がそんな金にならないことをするはずがない。有馬には民政党から大金が流れているという噂もあった。


 もっとも、そんなことは中村にはどうでもいいことだった。彼は殺人捜査の専門家であって、政治にはとんと興味がなかった。


 有馬は扇子でバタバタとやかましくあおぎながら、秘書だか愛人だかわからない女事務員にいれさせた茶をすすっていた。


「本当に大丈夫なんだろうな?」


「あんたもよくご存知の壮士気取りみたいな連中ならまあ大丈夫でしょう」


「私は壮士気取りの連中なんて知らん」


「知らないならそれでいいですがね。いずれにせよ、町の与太者と大差ない奴らに怯える必要なんてありゃしない」


「それならいいんだが……」


「安心できない理由があるんですか。それならそうと言っておいてもらわないと困るな。あんたは最悪死ぬだけだが、こっちはその後、任務を警護から捜査に切り替えて犯人を捜さなきゃいかん」


「ひどい言いようだ」


 中村は席を立った。一日中こんな男と過ごすつもりはなかった。


「私は外にいますから」


 そう言い残して中村は事務所を出た。


 昼間のうちから何かあるとは考えていなかった。


 蜘蛛男なる者が冗談でなく本当に有馬殺害を企てているとしたら、何か起きるのは夜になってからだろう。こんなビジネス街で白昼から狙うはずがない。


 もし、それでもあるとしたら、三井の團総裁のようにビルを出入りするときだろう。有馬がこのビルを出るときには、周囲を鉄板を持った巡査で取り囲む予定だった。隙間なく囲めば、匕首もピストルも役に立たない。


 廊下で部下たちと談笑しながら煙草を吸っていると、事務所の扉が開いて事務員の女が出てきた。


「刑事さんたちはお昼はどうされます? 有馬は親子丼が食べたいそうで、いまからお蕎麦屋さんに頼みに行ってきます。もし、お弁当の用意がなければ一緒に頼んできますがどうなさいます?」


「蕎麦屋ですか」と若い刑事が聞き返した。


「ええ、普通のお蕎麦屋さんですよ」


「それならそうだな……」


 若いのが迷っている横から、中村が「お気遣いなく」と断った。


 中村は借りを作るのが嫌いだった。とくに有馬のような男との間にはしがらみは作りたくなかった。


 事務員がエレベーターに乗って降りて行った後、廊下には彼女のつけていた香水の匂いと気詰まりな空気が残っていた。


「こんなこと無駄じゃないですかね?」


 若い刑事が耐えられなくなって言った。


「何がだ?」


「どうせ悪戯ですよ。蜘蛛男なんて名前だって虚仮威しに決まってます。猟奇流行りの昨今ですからね」


「此の夜の主というのはどうだ? あれは虚仮威しじゃないのか」


「あいつはたしかに猟奇好きの変態野郎ですが――わっ!」


 若い刑事が驚いたのは、閉じた扉の中から、ギャーッという男の悲鳴が聞こえてきたからだった。


 中村は扉に飛びついて勢いよく引き開けた。


 正面の窓が開いていて、窓枠に男が登っていた。目がやたらと大きいのに、黒目は逆に小さかった。中村を見ると、大きな口を歪めてニヤッと笑った。夢に見そうな不気味な表情だった。


 中村が事務所のなかに飛び込んだ瞬間、男はひらりと窓の外へ身を翻した。


 おいっ、と怒鳴りながら中村は窓へ駆け寄った。


 机の裏に倒れている有馬がいた。喉を切り裂かれ、白目を剥いていた。絶命しているのはひと目見ただけでわかる。


 死人にはかまわず、中村は窓に飛びついた。


 ここは八階である。飛び降りて無事でいられるはずがない。しかし、下の舗道(ペーブメント)に倒れている男はいなかった。そのかわりに、中村はとんでもないものを見た。

 男が四つん這いになって垂直な壁を駆け降りている。しかも、頭を下にして。それは平地を走っているような速度だった。


 ――蜘蛛男。そういうことか。


 中村は窓から首を突き出したまま、廊下の刑事に蜘蛛男を追いかけるよう命令した。到底間に合わないのはわかっていた。


 蜘蛛男は地面に近くなると、ぴょんと飛び降りた。顔を上げて、中村を見ると、ニヤリと笑ったようだった。


 往来の人びとには、男は突然現れたように見えたかもしれない。男はぴょんぴょん跳ねて車道へ出て行った。はねられそうになるのを危うくかわしながら車道を横切っていく。


 この隙にウチの連中が追いつけるかもしれん、と思ったのも束の間、おりから走ってきた市電に男は飛びついた。


 そして、市電の横っ腹に貼り付いたまま、都通りの方へ消えて行った。

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