第一話「怪奇! 蜘蛛男」 11
時間は遡りこの日の昼間、場所は蜘蛛男たちが出かけたあとのアジトである、貿易事務所の地下――。
此の夜の主は蜘蛛男が吐いた糸に全身グルグル巻きにされて部屋の中央に浮かんでいた。指一本自由にならない。体力はさほど消耗していないものの、十時間以上の拘束はすでに彼の精神に過大な負担を与えていた。
蜘蛛男一味が出かけて十分ほど経過していた。此の夜の主の超鋭敏な聴覚は、建物のなかにはもう誰も残っていないことを知覚していた。
逃げるには絶好の機会だが、動けなくてはどうにもならない。とはいえ、彼は希望を失っていなかった。いまは待つべきときだった。
さらに十分ほどしたころ、彼の耳は一階の玄関扉の鍵が開けられる音を捉えた。
扉が開き、ゴム底靴の微かな足音が聞こえた。その歩調が伝えるわずかな癖は、彼が待ち望んでいたものだった。
「豆六、こっちだ。おれは地下室だ」
此の夜の主は大声を発した。何度も繰り返すと、ようやく階上の侵入者も気づいた。
「どこです、兄貴?」
「地下だ。階段を降りてきてくれ」
侵入者が足音をひそめることもなく階段を降りてくるのが聞こえた。やがて最初の部屋に入ってきたのがわかった。
「どこですか」
「もうひとつ扉があるだろう?」
「ああ、これですね」
侵入者が此の夜の主の囚われている部屋の前に立った。把手の回る音がした。
「待て!」
「何です?」
「慌てて入ってきてはいけない。おまえまで罠にかかったら笑い話にもならない」
「落ち着いてやれってことですか。いいですよ。ゆっくりやるのは苦手じゃない」
扉が開き、小柄な少年が戸口に現れた。
「おやまあ、兄貴、こいつはいったいどういうことです?」
少年は蜘蛛の巣に囚われている此の夜の主を見て呆れたように言った。
「見てのとおりだ。蜘蛛の巣にかかっているんだよ」
「へえ、こいつは蜘蛛の糸なんですか」
少年は部屋中に張り巡らされた蜘蛛の糸を掻いくぐって此の夜の主のところまで来た。
「切れないんですか」
「自分で切れるくらいなら、おまえを待っていたりはしない」
「そりゃそうですよね」
此の夜の主は万一に備えてこの豆六少年を連れてきていたのだ。少年を自動車に残してひとりで蜘蛛男のアジトに侵入したのだったが、結果としてはそれが功を奏した。豆六少年は戻ってこない此の夜の主の安否を確かめるため、蜘蛛男一味が出払うのを待って忍び込んだのだった。
「これって、どうすればいいんですかね?」
豆六少年は真っ白く巻かれている此の夜の主を眺めて呆然としていた。
「おまえはライターを持っているか」
「燐寸ならありますが」
「じゃあ、新聞紙を丸めたのに火をつけろ。炎で糸を焙るんだ。蜘蛛の糸なら火に弱いはずだ」
「なるほどね、さすが兄貴、頭がいいや。で、新聞紙ってのはどこにあるんです?」
「それくらい自分で探してこい!」
此の夜の主に怒鳴られて、少年は慌てて部屋を飛び出した。そして、すぐに火をつけた新聞紙を松明のように掲げて戻ってきた。
少年は此の夜の主の身体に絡みついている糸に炎をかざした。糸はチリチリと溶けるように切れていった。
数分で此の夜の主は自由になった。ふたりは隣の部屋へ出て行ってほっと息をついた。
此の夜の主は覆面を取って、十四号の顔を見せると大きく息を吸った。圧迫され続けていた全身に血が巡った。
「蜘蛛男を追いかけますか」
「いや、いったん出直しだ」
「そんな悠長なことで大丈夫なんですか」
「奴らの計画は全部聞いたからな。慌てる必要はない。蜘蛛男が娘を攫ってひとりになったところを先回りしてケリをつける」
「院長先生がまた出してくれますかね?」
「出られるさ」此の夜の主は寂しげに笑い肯いた。「文句は言うだろうが、おれを戦わせることが彼の雇い主の意向でもあるからな」
豆六少年が自動車を取りに建物を出て行った。此の夜の主の恰好は昼間の東京を歩くには異様すぎた。
――此の夜の主の手に銃があるのを見た蜘蛛男は反射的に口を開いた。糸を吐くのだ。銃の撃鉄ごと遊底に粘着して動かなくすれば安全装置がかかっているのと同じことだ。
しかし、それは此の夜の主に読まれていた。というより、此の夜の主は蜘蛛男に糸を吐かせるために銃を見せたのだった。
糸を吐く寸前、蜘蛛男の肩に〈イ〉が現れる。此の夜の主はアジトでそれに気づいた。そして、いま、蜘蛛男に〈イ〉が見えた。此の夜の主は拳銃を離した。拳銃は座席に落ちた。
背もたれを乗り越えて此の夜の主は身体ごと蜘蛛男にのしかかっていった。
蜘蛛男の喉から糸が噴き出た。
すでに〈イ〉を読んでいた此の夜の主は狙いから身体をずらし、糸を右手に受けた。そのまま右手を蜘蛛男の口へ突き入れた。
蜘蛛男の大きく開けた口腔へ手首まで埋まった。
一度吐き始められた糸は短くても一秒は吐き続けられる。それも此の夜の主は前夜に学んだことだった。
此の夜の主の手で塞がれた口のなかで糸は吐き続けられ、喉をふさぎ、手と口の隙間から溢れた。
蜘蛛男はギョロ目を白黒させて、此の夜の主の腕を両手で掴んで引き抜こうとした。自分の吐いた糸で気道が塞がっているのだった。
此の夜の主は右手を口から引き抜いた。しかし、黒い皮手袋は糸に囚われて口腔に残っていた。
蜘蛛男は手袋を口から引き抜こうとしたが、手の力では糸の粘着力には敵わない。舌が生き物のように蠢いていた。此の夜の主はその様子をじっと見つめていた。
蜘蛛男は救いを求めるように此の夜の主の腕を掴んだ。此の夜の主は無造作にその腕を振り払った。
やがて蜘蛛男は顔を紫色にして動かなくなった。窒息して意識を失ったのだ。放っておけば絶命するだろう。
此の夜の主は少女を抱きかかえて自動車の外へ出した。娘は恐怖の表情で此の夜の主のすることを見つめていた。此の夜の主はオイルライターをつけると、彼女を雁字搦めにしていた糸を焼いた。
「あなたは――?」
「此の夜の主。聞いたことはあるだろう? 新聞によれば恐怖の猟奇殺人鬼だそうだ」
少女の目が絶望に濁った。次の瞬間、彼女の手は帯の間から何か摘まみ出していた。その手はそのまま口元へ持ち上げられた。
「馬鹿!」
此の夜の主の手刀が細い手首を打った。
少女の手から小さな白い錠剤が地面に落ちて転がった。それを追って少女は手を伸ばした。しかし、指先が薬へ届く前に此の夜の主の手が彼女の細い腕を掴んでいた。
「毒か……」
うつむいた少女が震えているのが、掴んだ手首から伝わってきた。此の夜の主は少女の手に目を落としたが、小さくうなるとぐいと引っぱった。
「痛いっ」
少女は此の夜の主から逃れようと身をよじった。
「荒れた手だな。こんな手をしたお嬢様はいないぞ。おまえは替え玉か」
少女は肯いた。
「何で替え玉なんかになった? 脅されたのか」
少女はぶるぶると首を振った。
「うちは父がいないのです。母は病弱で、下にまだ小さい弟がいるんです。だから、三千円もいただけるなら誰だって承知するでしょう?」
「死ぬかもしれないのに?」
「今のお給金じゃ弟が一人前になるまで働いたってそんなにはなりません」
「毒を渡したのは太田黒か」
「旦那様が、捕まったら死ぬよりつらい目に遭うからその前に楽になりなさいってくださったのです。……お願いです、どうせ殺すなら、いまひと思いに殺してください」
「死ぬよりつらい目か……そういうことか。よく聞くんだ、贋者のお嬢さん」
此の夜の主は屍人の覆面を取った。少女の両肩を掴んで自分のほうへ向かせた。
「太田黒の孫を狙っているのは蜘蛛男じゃない。蜘蛛男の後ろに糸を引いている奴がいる。蜘蛛男が逮捕されたり死んだりしても、そいつがいる限り太田黒の孫は狙われ続ける。太田黒にとってはきりのない話なんだ。ケリをつけるには黒幕を倒すか、孫娘が攫われるかしかない。だから、太田黒は孫娘を攫わせることにしたんだ。もちろん、本物を出すわけにはいかないから、代わりの娘を使うのさ。そして、その娘が贋者だとばれないよう、捕まったら自害しろと因果を含めておく」
「え、それじゃ――」
「そうだ。太田黒の計画じゃ、おまえは初めから攫われて自害することになっていたんだ。親切ごかしに毒をくれたのも、自分の孫娘を守るためなのさ。出しに使われた警察も舐められたもんだがな」
少女はまだ信じられないという顔で此の夜の主の顔を見つめていた。海から吹く潮臭い風が少女の髪を乱した。
そのとき、ヘッドライトの光がふたりを照らし出した。夜の闇よりも濃い黒塗りの自動車が滑るように走ってきて、ふたりの前へ停まった。運転席の窓が下りて、豆六少年が顔を出した。
「おまちどおさま」
此の夜の主は立ち上がり、少女に右手を差し伸べた。
「いまさら生きて帰るわけにもいくまい。日の光の下に生きられぬなら、おれと来い。夜の闇を棲み処とすればいい。死ぬよりつらいかもしれないが、漫然と生きるよりは面白いさ」
少女はおずおずと目の前の手に触れた。が、次の瞬間、決断したように強くその手を握った。
「連れて行ってください、あたしも夜の世界へ――」