第一話「怪奇! 蜘蛛男」 10
「ラヂオ自動車だ、ラヂオ自動車一号を使え」
オイルライターで足にからまる糸をどうにか焼き切った中村が庭へ走り出て怒鳴った。
無線通信機付自動車は警視庁が採用したばかりの最新鋭の装備だった。中村は桃子が祝宴会場から略奪された場合に備えて、邸内に潜ませていたのである。
ラヂオ自動車一号の運転を担当していた巡査は、ここが腕の見せ所だと中村の声を聞くや飛び出した。
目標のトラックは赤い尾灯を揺らしながらはるか前方を走っていた。ラヂオ自動車は猛然とスピードを上げてトラックを追跡した。さすがに国産の貨物自動車とビュイックの改造車では性能が段違いだった。瞬く間にトラックとの差が詰まっていく。
その状況は一号車の助手席に座った巡査が無線で逐一報告していた。
「こちら一号車。現在、渋谷区大山町を通過中。蜘蛛男のトラックは前方百メートルを西に向かっています。どうぞ」
無線通信は一号車を追いかける二号車と桜田門の警視庁本庁で受信されていた。中村は二号車に乗り込み、そこから一号車と本庁へ指示を出していた。
「一号車、トラックにもっと近づけ、どうぞ」
「トラックの前に出て停止させますか」
「いや、人質が乗っている。娘の安全が優先だ。いま、西東京全域に非常線を張っている。どのみち奴は逃げられん」
包囲網が徐々に絞られていることを知ってか知らずか、トラックはさらに速度を上げた。その後をラヂオ自動車が付かず離れずついていく。
中村の指示により西東京には非常線が張られ、幹線道路には検問が設けられた。トラックは前方に検問所が現れるたびに方向を転じていたが、やがて行く場所を失って同じ道をぐるぐると巡り始めた。
包囲網はさらに狭められ、やがて一号車に追いついた中村警部の号車や他の警察の自動車に取り囲まれて、交差点の中央で停止した。
「人質を解放しろ」
中村の声に運転席の扉が開いて、男がひとり両手を上げて降りてきた。蜘蛛男ではなかった。
巡査たちが跳びついて男を組み伏せた。男はにやにや笑いながらされるがままにしていた。
その間も、中村は荷台から目を離さなかった。そこにはまったく動きがなかった。ひとりの刑事がタイヤに足をかけて荷台へ登った。そして、中村を振り返った。その顔には困惑があった。
「どうした?」
「いません」
「いないって?」
「誰もいません。蜘蛛男も太田黒の孫娘もいません。荷台は空です」
巡査に取り押さえられていた運転手が大笑いした。
笑い声が暑い夜に虚しく響いた。
そのころ、蜘蛛男は東に向かうタクシーのなかにいた。隣には蜘蛛の糸に包まれた桃子の姿があった。彼女は諦めたのか、死んだようにじっとしていた。
「クックック、警察の奴ら、今ごろは空のトラックを追いかけて世田谷辺りをうろうろしているところだろうよ」
蜘蛛男は上機嫌で自分の膝を叩きながら大笑いしていた。
蜘蛛男はトラックが省線のガードをくぐるときに糸を吐いてガードの天井へ張りついたのだった。百メートルほど離れていたラヂオ自動車からは一瞬の移動が見えなかったのである。
警察の自動車をやり過ごした後、蜘蛛男は地上に降りてタクシーに偽装した自動車に乗り込み、トラックとは反対方向――東へ向かったのだった。
目指すのは晴海埠頭のアジト。初めからの計画どおりだった。
「安、あんまりとばすなよ。怪しまれないように、ゆっくりやれ」
蜘蛛男はハンドルを握っている子分に注意した。
「承知してますって、親分」
安と呼ばれた子分が半笑いで答えた。
「わかってりゃいいが、ここでおれたちが捕まっちまったら、せっかく囮になってくれた弥吉に申し訳ないからな。あいつは知らぬ存ぜぬを決めていれば、トラックを走らせただけだ、そう長い勤めにはなるまいて。その分の割り前もたっぷり渡してあるしな」
蜘蛛男は仕事が上首尾に進んで自ずと饒舌になっているようだった。
「親分、本当に上手くやりましたね」
「おうよ、安、あとはこのお嬢さんをあの方に引き渡すだけだ。アジトに縛ってある此の夜の主もオマケにつけてたんまり割り増しをいただくって寸法だ。そのあとは上海辺りでほとぼりを冷ますつもりだが、おまえはどうすんだ?」
「どうしましょうかねえ」
やがて、タクシーは東河岸から朝潮橋を渡って月島第三小学校の前を抜けると、埠頭の端へ突き当たった。右に折れてしばらく走ったところで、急停車した。
「おい、どうした?」
「着きましたよ、親分」
「何をとぼけたことを言ってやがる。ここはアジトじゃねえぞ。まだ三町はあらあ」
「いや、ここが終点さ。降りてもらおうかな、お客さん」
蜘蛛男は目を細めて運転席を睨んでいたが、すぐにうなるように言った。
「てめえ、安じゃねえな。何者だ?」
「そうか、蜘蛛男。おまえにはこの顔でお目にかかるのは初めてだったな。じゃあ、これならどうだ?」
運転席の男は座席の陰に身をかがめた。そして、また身体を起こしたとき、その顔には屍人の顔を剥がしたような皮の面が着けられていた。
「お、おまえは此の夜の主! どうしてここに?」
「我は夜の主。闇は我が領土――」
此の夜の主の手には拳銃が握られていた。