第一話「怪奇! 蜘蛛男」 01
OP曲はトム・ウェイツ『アンダーグラウンド』で。
「追いつめたぞ……間宮中尉……」
継ぎ接ぎの革の仮面の下からしわがれた声が漏れ出た。黒手袋の掴んだ大型拳銃は帝国陸軍の軍服に身を包んだ青年将校を狙っていた。
「さて、そいつはどうかな」青年将校は危機を危機とも思わない大胆な笑みを、女とも見まがう面貌に浮かべていた。「追いつめられたのは私ではなく、おまえのほうかもしれないぞ、此の夜の主」
青年将校は右手をさっと挙げた。
それが合図だった。倉庫の天井の明かりが一斉についた。倉庫の壁の高いところに付けられた回廊に、小銃を構えた憲兵隊が並んでいた。すべての銃口が明るい光の下にさらされた怪人に向けられていた。
「撃てっ!」
間宮中尉の赤い口唇から発された声が深夜の冷気を斬り裂くのと、怪人がマントの下にその身体を沈めたのが同時だった。
間髪を入れず憲兵隊の小銃が火を噴いた。
怪人はマントにくるまったまま床を転がった。
よく訓練された兵士たちが発射した弾丸はほとんど過たずに怪人に命中した。しかし、怪人の動きは止まらなかった。銃弾は怪人のマントを貫くことができなかった。
怪人は素早く立ち上がると、仮面で覆われた頭をかばいながら、倉庫の出口へ向かって走り出した。そこにも間宮中尉はあらかじめ憲兵をふたり配していた。
怪人の拳銃が続けさまに二発銃声を響かせた。出口の扉の前に立ちはだかっていた憲兵がふたりとも血を噴いて倒れた。
怪人は死体を飛び越えて鉄の扉へ体当たりした。扉は大きな音を立てて外へ開き、怪人は後も見ずに逃げ出した。
「追え! 逃がすな」
間宮中尉が叫んだ。憲兵隊が出口へ殺到した。
その間にも怪人は倉庫街を駆けていた。月光が作った影から影へ怪人は走り続けた。漆黒の姿が闇に溶ける。憲兵が撃った銃弾が倉庫の壁や舗道に跳ねた。
「見逃すな!」
間宮中尉の声に焦燥が滲んでいた。
怪人は倉庫と倉庫の間の狭い道へ滑り込んだ。そこに艶消しの黒に塗装されたオートバイが停めてあった。怪人はマントを翻してそれに跨るとエンジンをかけた。
ブルルッと大型獣のようにオートバイが吼えた。
怪人はライトも点けずに猛スピードで飛び出した。通路の入口にまで追いついた憲兵へためらいもなく加速していった。憲兵が横っ飛びに逃げなければ撥ね飛ばされていただろう。オートバイは元の通りへ出ると、急にカーブして間宮中尉に向かった。
怪人は拳銃を片手で構え、間宮中尉を射撃した。
間宮中尉はドラム缶の陰に転がり込んで射線を逃れた。
怪人は間宮中尉の傍らを走り抜け、爆音を響かせながら深い闇に紛れて消えていった。
倉庫街を離れた此の夜の主は矢のような速度で帝都の深夜を走り抜けた。
四谷の辺りまで来ると速度を落とした。鉄筋コンクリートのアパートメントの裏へ回ると、文化住宅の立ち並んだ一画へ滑るように走り込んだ。そして、青い屋根の一軒の玄関先でオートバイを停めた。降りて庭へ手で押していく。
庭の物置にオートバイと一緒に入ると、内側から戸を閉めた。棚に並んだ罐の間に手を突っ込んで見えないようにしてあるレバーを下げた。
低くモーターが唸りだした。その音は足の下から聞こえていた。ガクンとひと揺れして床が下へ沈み始めた。物置の床がエレベーターになっているのだった。
だいぶ地下に潜ったところでようやくエレベーターは止まった。
此の夜の主の前に狭いトンネルが伸びていた。暗くはない。壁に点々と付けられた明かりのせいでむしろ昼間のように明るかった。
此の夜の主はオートバイに再び跨り、ゆっくりとトンネルを走って行った。数分走るとそこが終点だった。此の夜の主はオートバイを降りて壁についている鉄梯子を登った。
ビルの三階分も登ると梯子の先にハッチがあった。ハッチを押し上げて出たところは地上だった。
足元にはよく手入れされた芝生。外国映画のような広い庭。冷たい風が吹き抜けた。
此の夜の主はマントを外し腕にかけると、仮面を脱いだ。二十歳過ぎの青年の顔が現れた。無精髭を生やし、髪はぼさぼさ。鋭い目には理性的な輝きがあるが、薄い口唇は酷薄そうだった。病的に青白い顔色は決して月の光のせいばかりではなかった。
硝子張りのテラスから靴のまま邸に入るとずかずかと応接間へ入り、ソファに仮面とマントを投げた。そのまま建物を横断して勝手口から裏庭に出ると、塀をよじ登り裏側へ飛び降りた。
長屋の路地の突き当りになっていた。振り返っても薄汚れた塀の向こうが豪邸だとはとても見えなかった。
長屋の一軒の戸が開いておかみさんらしい中年女が出てきた。女は青年を見て驚くどころか深々と頭を下げた。
青年は黙って女に二丁の拳銃を渡した。女は着物の袖で大切そうに受け取ると、家のなかへ戻って行った。
長屋を出て、青年は大通りへ向かった。大通りに出たところにタクシーが停まっていた。こんな時間では大通りといえども人通りはない。
青年がタクシーの窓を叩くと、後部座席のドアが開いた。
青年が乗り込むや否や発車した。運転手は行き先を聴こうともしなかった。助手席の若者が振り返り、お疲れ様です、と言った。助手は畳んだ服を青年に差し出した。
青年は車の中で服を脱ぐと服を着替えた。脱いだ服と長靴を助手に手渡した。そして、用意されていたサンダルを裸足につっかけた。
タクシーは郊外に向かって走り続けた。青年は座席にもたれて腕を組み目を閉じていた。眠ってしまったように見えた。
いつの間にかタクシーは人家の乏しい田舎道を走っていた。雑木林を抜けると前方に高い塀が見えてきた。タクシーが近づくと鉄製の門扉が自動で開いた。タクシーは速度を落とすこともなく入っていった。
門柱には風雨にさらされて黒ずんだ木の看板がかかっていた。
看板には薄れてほとんど見えなくなった墨文字で「蒼月堂瘋癲病院」と書かれていた。
「怪我をしていますよ」と白衣の老人が言った。
青年の首筋に血がにじんでいた。
「かすり傷だ」と青年は答えた。
「ここにいる間はあなたも私の患者です。傷から黴菌が入るかもしれませんよ」
老人は脱脂綿に消毒液をつけて青年の傷を拭いた。老人は無言で治療を続けた。深夜の診察室には老人と青年のふたりきりだった。青年は老人を見て笑った。
「ここにいる限り、おれは狂人だ」