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雪の朝、階段で。

作者: ばんこ。





 カーテンを開けて、一面に広がる真っ白な雪に喜んでいられたのは何歳までだったろうか……。



 社会人になって数年が経った現在(いま)、その光景に私がまず思ったのは「電車は動くかな……」というロマンチックの欠片もない感想だった。


 しかも、昨夜からぬかりなく天気予報をチェックし積雪を予想した出勤を考えて、早起きまでしている始末。

 悲しいかな、すっかり仕事に飼いならされている証拠だ。


 先週から連日続いた残業は、昨日の夕方からちらつきはじめた雪によって一旦中断された。

 帰宅困難になる前に早く帰るようにとの上からお達しがあったのだ。

 早く帰りたいのはやまやまだけど仕事の進捗状況にやや不安を覚えるのも事実、ほとんどの者がためらいを見せたものの「このまま会社に泊まるのもよし!」という上司の徹夜覚悟宣言で、みんな一目散に帰宅の途に着いたのだった。


 何だかな……。


 仕事にやりがいをもって取り組めるのはありがたいのだが、それ一色の極端な生活にやや不満も募る。

 私だってドラマや小説の中の様なロマンチックなオフィス・ラブなんて現実にあるとはさすがに信じていなかったけれど、まさかここまで皆無とは……。


 まぁ、その「もしかして」という淡い期待も綺麗サッパリと捨て去る事が出来たおかげで、仕事に邁進できているのかもしれないけれど。


 雪が積もった朝は、一段と冷え込んでいる。

 キンとするような冷たい空気に身震いしながらストーブのスイッチを入れると、のろのろと身支度を始めた。


(嫌だな〜)


 と、心の中でぶつぶつと文句を垂れるも、まだそれを実際に口に出さないようには気をつけている。

 だって、それを気にしなくなったら何だか一気に転げ落ちそうな危機感がまだ私の中にもかろうじて残っているのだ。

 それもあと数年そこそこの問題だとは思っているけれど……。


 コートを羽織り鏡で最終チェックを済ませると、玄関で普段のパンプスは紙袋に入れ代わりのウォーキングシューズを履いて、いつもの出勤時間よりだいぶ早く部屋を出た。


 その瞬間、あまりの寒さになけなしの気力があっという間にぺしゃんこに潰れてしまった。

 雪は止んでいたが憂鬱なまま歩き出す、当然足取りは重い。



◇◆◇



 そんな雪の日の通勤に、最大の難関が早くも私の前に立ち塞がる。


 駅を降りて、会社までの近道である大きな緑地公園。

 ここを突っ切れば15分は違う。


 回り道も考えたけれど、今朝は案の定、積雪の影響でダイヤは乱れいつもより早く出た余裕もすっかりなくなっていた。

 というか、もう面倒くさくてそんな気力も最初から尽きていたのだけれど……。


 ただ、目の前にある公園の下り階段の雪は既に踏み固められていて、見るからに滑りそうな危険をはらんでいるのがうかがえる。

 ちなみにスロープはスケートリンク並に凍っていて、誰も(とお)っている人はいなかった。


 最後の頼りは階段の手すりに目をやったが、これまたきんきんに冷えていそうなステンレスパイプに怖気づく。

 けれど、あ、と数日前使用してそのまま鞄のサイドスペースに突っ込んだままの手袋の存在を思い出した。

 取り出して洗濯した覚えもないのでもしかしてと期待をしながらゴソゴソと探しすと右手の手袋が見つかったが、あともう片方がどうしても見つからない。


「はぁ……ツイてないな〜」


 でも、無いよりはマシかとひとまず片方の手袋だけ着けて手すりを掴むと、おそるおそる階段に足を踏み出そうとした瞬間、不意に後ろから呼びかけられた。


「あの……もし差支えなければ、(つか)まってください」


「え?」


 声がした方向に振り向くと、ビジネスマン風の男性と目が合った。


 パッと見た感じは私とそう年は離れていなさそうだけど、一目見ただけで上質だと分かるスーツとコートを見事に着こなし、鞄から靴まで隙を感じさせない洗練された印象に思わず気圧されてしまった。


 一瞬、自分に向けられた言葉かと思い振り返ってしまったが、こんな素敵な人が私なんかに声を掛けるはずがない。

 ほら、よくあるじゃない。

 向こうがこちらに手を振ったから思わず振り返したけれど、実は自分の後ろの人に向けてのもので恥ずかしいってなるやつ。


 だから、もしかして別の人に対してのものを私が勘違いしちゃったのかと、きょろきょろとあたりを見回してみたが……。


「いえ、階段が凍っていて滑りそうなので、良かったら僕の肩にでも掴まっていだだければと思いまして……」


 男性の真っ直ぐな視線が、間違いなく私に声を掛けてくれたことを証明してくれた。

 途端に、けたたましく鳴り響き始めた私のゲンキンな心臓に焦る。


「あ、そんなご迷惑ですし、ゆっくり降りれば大丈夫ですので……」


 私だけならまだしも、恐らく出勤途中であろうこの男性にも時間をとらせてしまうことになると思うと、遠慮せざるを得ない。


「しかし、片手だけだと心許ないかと……」


 彼はちらりと手袋をしていない方の私の手を見ながらそう言った。

 その優しさにドギマギしながら「でも……」ともう一度だけ迷ってみせたが、最終的には男性のその厚意に甘える事にした。


(だって、初めて見た瞬間から素敵だなって思ったんだもん)


 別にどうせ階段降りる間だけの事なんだからさ……。

 仕事ばかりの日常にほんのちょっとくらいこんなトキメキがあったっていいじゃない、と心の中で言い訳をしながら手袋のないほうの手を彼の肩に乗せた。


 けれど、見た目よりも遥かに肌触りが良いコートの生地に思わず伸ばした手を引っ込める。

 冬なのに緊張して、思わず手汗の心配をしてしまう。


「しっかり、掴まってください」


 けれどそんな私の焦りをよそに彼が平然とした様子でそう言ってくれたので、私は平常心を取り戻すと再び彼の肩に添えた手に今度は少しだけ力を込めた。


 ふと、その指先を見て私は少し安心した。

 昨日、早く帰れたおかげでお手入れをしたばっかりの爪。

 ベースコートしか濡っていないけれど、残業で剥げかけたマニキュアに気がつかない状態よりか遥かにマシだ。


(ケアをサボらなかった昨日の私、グッジョブ!)


 もし、彼に近くで見られてもとりあえず大丈夫なレベルだ。


「ゆっくりで、大丈夫ですよ」


 そんないらぬ心配をよそに、男性は私の一段先をゆっくりこちらを気遣いながら降りてくれる。

 手袋をした右手で手摺りを掴み、左手は彼の肩を支えにして私もそれに続く。


 たったそれだけのことが、何だか妙にくすぐったい。


「すみません。お時間を取らせてしまって……雪が降ると何かと大変ですよね」


 滑りやすい階段に集中しなければと思いつつも、無言のままというのも落ち着かず先程から会話の糸口を必死で探し、とりあえず無難な話題を持ち出してみた。


「確かに、通勤が気がかりですし、足元の心配もありますが……、その……」


 さっき会ったばかりだが、これまで堂々とした紳士的な対応の彼が初めて言いよどむ姿に、何だか可愛いと思ってしまった。


「恥ずかしながら、この歳にもなってやはり雪が降るとワクワクしてしまって、自然と早く目が覚めてしまいました」


 照れくさそうに言いながらも、彼の素直なその言葉に胸を突かれてしまった。

 同じように早起きしても、この人は私とは違ってまだ「あの頃」の自分を忘れていないんだと感じた。


 私からは彼の後ろ姿しか見えないのでどんな表情をしているのか分からないけれど、肩に乗せた手に感じるかすかな振動に彼がくすりと笑った気配が伝わってきた。


「それに……」


 男性が何か言いかけて不意に言葉を止めたので、思わず聞き返す。


「それに?」


「……それに、雪が降ってくれたおかげで貴女に話しかけるキッカケが出来ました!」


「えっ……」


 思いもよらなかった台詞に、息を呑む。


「あの、実は……以前から出勤時にこの公園でお見かけしていて……」


 階段の途中で、二人の足が止まる。

 彼の耳がみるみるうちに赤くなっているのは、寒さのせいばかりじゃないのだろうか。


「だから今朝、階段の前で困っている貴女の姿に、思い切って……っ! おわっ……!!!」


 ほんの少しの沈黙のあと、彼が急に振り返り身を乗り出すように口を開いた瞬間、つるっと足を滑らせた。

 咄嗟(とっさ)に、私は彼の肩に乗せていた左手でコートをグッと掴むと、彼もまたその手を掴んだ。


「っ!」


 一瞬緊張が走ったが、何とかこらえることが出来て転ばずにすんだ。


「だ、大丈夫ですか?」


「す、すみません。助かりました」


 無事を確認すると、思わず同時にホッとため息をつく。

 けれど重ねられたお互いの手に、私の心臓は別の意味でバクバクしたままだ。


「あ、あの、咄嗟に強くコートを掴んでしまって……、シワになってしまったら申し訳ありません」


 しどろもどろになりながら、あわてて引っ込めようとしたその手を彼がグッと力を込めて引き止めた。

 ドクン、と大きく心臓が跳びはねる。


「……とんでもない。こちらこそ危険な目に遭わせてしまって申し訳ありません」


 お互い向かい合う形で謝り合ったきり、次の言葉が見つからず沈黙がおりる。

 重なり合った手がじんじんと熱い。


「……っ、ふふふ……」


 こんな時、思わず笑いが込み上げてくるのはどうしてだろう。

 体温が上がると、緊張の糸も緩み表情もほぐれるのかもしれない。


 きっと私も耳まで真っ赤になっているだろう。


 何だか小説で読んだようなベタなシチュエーションに、そのままくすくすと笑みをこぼしてしまった私に目の前の男性も破顔した。


 それだけで、起きてからの憂鬱な寒さがすべて吹き飛んだような気がした。


 雪の朝、階段で。

 出会ったばかりの男女とほんの少しのハプニング。


 いつの間にかまたちらほらと降り始めた雪の粒が、私の唇にあたった瞬間、じゅんと溶けた。



 恋に落ちるには、それだけで充分だ。



 私は、捨て去ったはずの「もしかして」を、うっかり拾ってしまった。

 でも、そもそもあれはオフィス・ラブの事であって、ラブ・ストーリー自体はまだ捨てていないと自分に言い訳をしてみる。


 心の中でもう一人の私が「鏡を見ろ」「自惚れるな」「きっと思わせぶり」とさっきから辛辣なツッコミを入れまくっている。


 言われなくても、分かってるよ……。

 こんな素敵な男性が私なんかをと思う気持ちもあるけれど、良いじゃない……。



 たまには、私の人生にこんな“ときめき”があったって良いじゃないか!




 幸せは自分の心が決めるんだ。 

 出社時間が刻一刻と迫る中、それでも私は聞きたい。


 雪の朝、階段で。

 出会ったばかりの貴方の言葉の続きを、待つ。





Fin.





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[良い点] 雪の朝なのにいつもと変わらないような日常感と主人公の心のつぶやきがとても面白かったです。 もちろん、男性と出会ったハプニングにドキドキしました。こんな"ときめき"あっていいと思います。たと…
[良い点] 共感できる雪に対する気持ちに、物語に惹き込まれました [一言] きゃあ~、素敵な出逢い!! 思わず雪降ってこないかなぁ……って思えるほど自然で素敵なふたりが微笑ましかったです。
[良い点] おおぉ完璧なサクセスストーリー(о´∀`о) 仕事の出来るキャリアウーマンはイケメンも引き寄せるのですね!( ・∇・) [一言]     ま ほ う てっきりマニキュアが解ける12時前に慌…
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