1 邂逅
【1 邂逅】
今日から2年目。長すぎる春休みを終えて大学の最寄駅に到着した。
車内、随分とマスクを付けた乗客が多かった。花粉症の人はこの時期大変なのだそうで、酷い人はあまりの痒さに目ん玉取り出して丸洗いしたい、なんてことを言っていた。アレルギーとは風馬牛の俺はどうにもその苦しみが分からないのだが、国民病にまで昇り詰めた花粉症。いつからか気象情報と一緒に花粉情報まで伝えられる。それだけの需要があるのだろう。少なくとも占いよりは有益か。アレルギーといえば食べ物もそう。大学構内のカフェテリアのメニューには必ず、アレルギー物質の情報が表示されている。生命に関わる問題。人が弱体化を始めた、身体も、心も。マスクを付けると素の自分で人と接触できるらしい。目元以外の箇所を隠すことで臆することなく会話ができる。その気持ちが俺にもどことなく理解できてしまう。
駅からのんびり歩いて10分どうしてこの色を選んだ、という暗紫色の地面にかかとをぶつけながら大学の門を通過した。構内の掲示板を確認し、特に連絡事項のないことを承知してから教室を目指した。
一人暮らしを始めてから掃除の大変さが身に染みている。いや、掃除自体は苦にならない。そうではなくて、すぐに埃が溜まる、髪の毛が落ちている、風呂場にカビは生える、玄関に砂が残り、蜘蛛や細かい虫が入ってくる。生活とはこんなにも身の回りを汚してしまうのかと嫌になってしまう。別に部活をやっているわけでもなく、一日の多くの時間を大学で過ごしているし、家では静かにしているだけなのに。
休み明けだから特別ということではない。ここ201教室はいつも、他の教室や講堂以上に清掃が行き届いていた。
「おはよう、水谷君。」
「ああ、おはよう。」
大学の講義は基本的に座席が自由。そうなれば進んで知らない者同士でくっつくことはない。仲の良い奴で固まって授業を受ける。固まってとはいえ、荷物、人間、荷物、人間・・・という感じか。人間同士隣同士で並ぶのはカップル位のもの。教室が満席になる講義は滅多にないので座席ひとつ、ふたつを荷物置きとして使用しても差し支えない。机も余裕を持って使えるので有難い。これだけで精神的にも非常に楽である。朝の電車とは開放感がまるで異なる。息が詰まらないというだけでも学び舎の環境としては合格ラインだと俺は思うのだが。
やっと大学生という実感が湧いてきた頃から、由良とは、何がどうしてこなったのかは忘れてしまったが、大学内で行動を共にしている。全くもって余計なお世話なのだが、由良が女子グループに混じっているのはほとんど見かけない。敢えて避けているように見えるのは男の欲望の為か、人の不幸に喜びを感じているのか。
荷物を下ろし筆記用具を準備する俺に、様子見がてらの質問が降ってくる。
「元気だった?春休みは何してたの。」
答える前に目に入ったのは指先の絆創膏。料理でもしていたのだろうか、その程度の乏しい想像力の自分に嫌気が差しながらも由良に聞くことはない。尋ねない。理由は明快。億劫なのだ。興味のないことに時間を費やすのが。答えた相手に感想を述べるのが。
「いや、特に何も。普通に―」
言いかけた所で踏み留まった。以前に指摘を受けていた。
「映画を見に行ったかな。あとは本を読んだり、料理したり。」
俺なりの精一杯の回答、その判定やいかに。
「ウフフ・・・そっか。」
俺の答弁に納得したのか、あからさまな軌道修正に思わず吹き出してしまったのか。とりあえずは笑顔が出たということで及第点を頂けたのだろうか。短い挨拶と近況報告を終えると、由良は教科書に目を落とした。
百歩譲って映画は良しとしても、何だ、読書と料理って。普通の週末の話じゃないか。実家に帰ったとか旅行に行ったとか、そういう話題を作れるだけの休暇をまるで過ごしてこなかったことを改めて痛感した。本当に会話が続かないというか、面倒臭がりというか、気配りができないというか。独りで生きていくつもりなのだろうか。
由良も俺も朝は比較的早い方で。余裕を持って教室に入り、落ち着いて時間を潰しながら始業を待つ。これを時間の無駄と捉える人もいるし、何事においても最低限10分前行動が人としての常識だと考える人も少なくない。尤も、俺の場合は遅刻に怯えているだけなのだが、時間感覚のズレは時に、積み重ねてきたひとりの人間を壊すことになってしまう。該当者と周囲の人間を。
人数が増えていき、比例して静かだった教室を徐々に雑音が満たしていく。休み明けとういこともあっていつもより音量は高めだ。久し振り、何してた、髪型変えた、少し太った、お土産あるよ。俺が参考にすべき会話が耳に入ってきたが、講義に向けた集中力が欠落することはなかった。それよりも視界に割り込むのは独りで入室し、隅や離れた席に座る者。珍しい光景ではない。俺だって講義によっては独りになる。大学生活の多くを独りで過ごす、はずだった。
独りの方が楽というのは正直な俺の実感だ。何に置いても自分のペース、思うがまま。他人のペースに合わせる必要はないし、振り回されることもない。
もしも今も独りだったら、自論はここで終結していたことは間違いないだろう。そうならなかったことに感謝している。
始業5分前。雑音の音量が最大のこの時間帯、洋服と肩から下げたカバンの擦れる音が近付いてくる。聞き逃さない。昨年度と変わりない、俺の好きな、心落ち着くサインである。
「藤近君、おはよう。席、空いてるよ。」
「サンキュー、由良さん。助かるよ。水谷、また宜しくな。」
「おはよう。相変わらず元気だな。」
「おうよ!」
こんな遣り取りをしている内に懐かしさすら覚えるチャイムが鳴った。入室する時刻は決まって始業の5分前。ギリギリ、慌ただしい奴だなと最初は思っていた。押取り刀で入ってきて、せかせか教科書や筆記用具を準備していては、落ち着いて講義を受けられないだろうと。でもそれが毎度寸分の狂いなく5分前となると話が変わってくる。妙な安心感が生まれてくるのだ。そして毎日、何時何時でも明るい。元気。多少、体調が悪いくらいで一般人の精神状態と一致するのではないか。偉くテンションが高い。何がそんなに楽しいのかは分からないが、人間色々な奴がいるのだな、と、改めて実感させられている。
講義中、誰よりも集中しているのは藤近だ、ちょっと信じられないかもしれないが。俺だって目を疑っていた。藤近ばかり気になって授業に集中できないことまであった。普段はオチャラケているし、外見も薄い茶髪にピアス。口調も軽い。だのに、90分間、集中力が途切れることはない。板書の書き取りは当然のこと、自身の意見や疑問点などもノートに書き込んでいる。暗記が必要な所はその場で全て済ませてしまっているし、目付きが普段とまるで違うのだ。獲物を狩る肉食獣のように鋭い。あの身形でその眼光では、さぞ先生も怖かろうて。
終業と共に。高校までと違って、大学では同じ教室で講義が続くということがないので、すぐに教室移動の準備を進める。荷物を整理したら早急に移動開始なのだが。
「なぁなぁ、飲み会いつにする?」
教室の密度は時間経過と共に薄くなっていく。別人である。二重人格かと疑ってしまう。
「飲み会?」
藤近の提案に思わず聞き返した。何とはなく予想はつくのだが。
「進級祝いだよ~。3人とも無事に2年に上がれたんだしさ。やろうぜ、の・み・か・い。」
瞳が輝いている。活々と喋る。やらないなんて選択肢は考えていないだろう。
「うん、やろう。進級祝い。」
由良があっさり左袒する。その顔は幼子を子守りする母親の微笑、ではなく、子供っぽい同級生に余裕を持って合わせている。立場が一つも二つも上。万が一、由良が断れば今回の話もなかったことになるだろう。けれどもそれは有り得ない、ということを3人共しっかりと認識している。もっと言えば藤近の提案そのものを予測できていた。
「曜日は金曜か土曜だな。水谷はどっちがいい?」
「俺はどっちでも―」
「だよな。由良さんは?」
この瞬間、俺はどんな顔をしていただろう。願わくば無表情ではなく、少しでも後悔を表していて欲しい。2人が気付くように。
「私は金曜日の方がいいな。」
「分かった。また追って連絡する。一応今今週か来週の予定で。じゃ、俺、トイレ。水谷、次の講義遅れるなよ。」
「お前がな。」
お約束の掛け合いに由良は笑っていた。締めに、俺へ会話を振る所が藤近の優しさだ。
停止と早送りを繰り返す。再生ボタンは故障中のようで。慌ただしいを通り越すと危険な香りが漂ってくるはずなのだが、藤近からは能天気の雰囲気しか伝わってこない。安心できる。とはいえ、藤近がこんなだから、教室移動は俺と由良でということが珍しくなかった。
増えることも減ることもない。高校時代からの俺の体重だ。食いすぎたり風邪をひいたりで誤差は出るが。
社交性の高さからいえば藤近なんかは俺とは比較にならない程友人が多いことだろう。女子からも人気がありそうだ。由良にしたって女性同士の付き合いは大切なはず。けれども時々見かけるくらいだった。ほとんど3人で行動している。授業中はもちろん、昼食も教室移動も、日によっては夕食まで。最初は友達のいない俺に付き合ってくれているのではと思っていた。由良と藤近は付き合っていて、でもまだ付き合い始めたばかりなので無害な奴を間に挟んでおくか、なんて妄想に耽ったこともあった。大学日程が前期の内は遠慮しながら探りながら疑いながらで、全ての文言を練り考え見直した上で言葉を発していた。必然的に口数は少なくなり、聞き役がほとんどだった。2人がいつ離れても不思議ではないと。別に独りでもやっていけると。その不安は日程後期、秋の訪れと共に消えていった。
年末の忘年会、3人だけの集まりを「会」と呼べるかは置いておいて、何の気なくそのことを伝えると、
「え~、いくらなんでも遅すぎでしょう、水谷。ちょっとショックだよ、俺は。泣いちゃうぞ。」なんて言ってくれた。
「今はもう大丈夫だもんね。」
由良にも慰められた。嬉しかったし、情けなかった。
何がきっかけでこの関係を築いたんだっけな。何がどうなって親しくなったんだっけな。俺から近付いたなんてことはありえないのだが。
大学生の飲み会に憧れはあった。「サークルの乗り」というものに一度参加してみたいと。大勢の友人、先輩、後輩と大声で盛り上がりながら、喉を痛めてもなお塵芥のような話と軟骨の唐揚げを肴に酒を飲みまくる。ろくに味わうこともなく、また味などまだまだ分からないのでその価値が大幅下落していることは否めないものの、酒が宝であり、飲むことが正義。飲むこと、喋ること、笑うことで己の存在を確かめている。下品さが濃密かつ、嫌悪するまでは汚らしくない絶妙の限度こそが盛り上がりの鍵であり、振り返った時に合格点を与えられ、無事思い出として刻まれる。
やはり酔い潰れる者も出てくる。傍から見れば狂喜乱舞。輪の外にどれだけ迷惑をかけても心の中の御守りは多勢に無勢。数と自己責任の軽さで言えば怖いものなし、憂いなし。大学生という特権を活かしながら日本一幸せな時間を過ごしている。何人たりとも邪魔立てすることは許されない。周囲の目を気にすることなく自分達の世界の中で。そこに身を置きたいと思ったこともあった。今でも心のどこかで思っている。我希うは、強き一団に身を置くこと。錯覚でも構わないから己を強く見せたかった。けれども冷静に妄想してみれば、隅っこで独り口を噤んで飲んでいる姿が浮かんでくるから困ったものだ。強き輪の中心に自分が座している姿はどうしても思い描けない。
「え、知り合ったきっかけ?いや、謝ることはないけれど、相変わらず水谷は変な質問するよな。」
進級祝いの席のこと。藤近の提案から4日後。その間俺は何もしない。店を決め、時間を決め、予算を決めてくれるのは藤近であり、由良である。ただ待っているだけの俺に嫌な顔一つせず日時を教え、目的の店へ導いてくれる。さすがに申し訳なく、一度手土産がてら2人にお菓子の詰め合わせのようなものを持っていったことがある。
「水谷君、今回は頂くけど次からは要らないからね。変な気回さないの。」
「水谷~、俺、太っちゃうよ。だからもうナシな、こういうの。嬉しいけど、悲しいぜ。」
空気が読めない、というのだろうな。俺の好意を傷つけないようにという心配りが情けなかったのをよく覚えている。
自分のペースで好みの酒を料理と共に進めていく。コース料理は頼まず各々食べたいものや3人で突けるサラダなんかを注文する。周囲の賑わいからすると落ち着いてというよりも暗く映っているだろうが、これが俺たちの飲み会である。藤近はずっとビール、俺は焼酎、そして由良は日本酒を飲む。最初は驚いたが見慣れると格好いいと思う。どこで覚えたのかは聞いたことがないが、上品にお猪口を口に運ぶ。普段は意識しない唇の湿った感じが艶かしい。俺はすぐに酔ってしまうので水を飲みながら、藤近は気が付くとおかわりを注文している。そして由良はちびちびと、しかし決してペースが落ちることはない。初めから最後の最後まで飲み続ける。ほとんど顔に出ないし、何か悪い癖が現れるということもない。格好いいと思う。軽くお猪口に添える左手の中指には例のごとく絆創膏。どうしたことか色っぽく見える。そんな、酔いの回ってきた俺が妙な質問を投げかけてしまったようだ。
「いや、ほら。俺はあんまり・・・人と喋るのが苦手というか、人といるのがしんどい―違うな。人見知りで、他人に話しかけない。だから俺が2人意外と話したり、一緒にいる所なんか見たことないだろう。それがさ、こうして大学生らしい生活を送って、飲み会にまで参加している。どうしてだと思う?不思議だろう。」
こんな恥ずかしい内容を堂々と喋れるはずもなく、赤面は酒のおかげでごまかしながらも俯き加減の俺だったが、人に問うというのはそういうことで、意識なく由良と藤近の顔を見合わせる様子が目に入ってしまった。苦笑い。困った表情、二言三言のひそひそ話。それはそうだろうな。
「水谷君は覚えてないの?」
由良が聞いてきた。顔は笑って首は傾げて。一方の藤近は広角を上げたままグラスを口に運んでいる。答えなければならない。
「全く覚えていない、申し訳ないのだけれど。気が付いたらこういう、もちろん良い意味でこういう生活になっていて・・・時々は思い出そうとしてはいるのだけれど、うまくいかないというか。全然記憶がないんだよな、本当に。」
「藤近君は覚えてる?」
「俺?もちろんっ、はっきりとね。」
あっさり言い切る藤近に、思わず零れそうになった溜息を飲み込んだ。一般的には覚えているものなのだろう。友人や付き合いの多い藤近が思い出として刻んでいるのにこの俺が、という思いと共に。
口を開いのは由良だった。
「水谷君はね、私のハンカチを拾ってくれたのよ。覚えてないかな~。事務室前の階段で『落としましたよ』って。多分、履修申請を提出した時だと思うな。お気に入りだったから本当に助かっちゃって。気付かない振りでもしていれば面倒な対応もしなくて済んだのに。わざわざ拾って優しく声をかけてくれたのよ。人見知りの水谷君にしたら物凄いことよね。」
「・・・・・・」
「でね、お礼を言おうと思ったらサーって歩いて行っちゃうんだもん。信じられる?ハンカチを受け取って『ありがとう』の『あ』を言う前に消えちゃうんだよ。」
誇張も含まれた由良の話に全く反応できない。まるで記憶がないのだ。階段ですれ違ったとかであれば覚えていなくてもおかしくはない。けれども。ハンカチを拾って手渡しただと。
「そ、そんなことあったっけ?ご、その、ごめん・・・記憶が・・・・・・」
「本当に覚えてないんだ。ヒドイな~。泣いちゃうぞ。私の思い出を返せっ。」
ここまでくるとにこやかに語る由良への申し訳なさよりも、自分の記憶、脳みそが心配になってしまった。あまりに手掛かりが、引っかかるものが皆無で混乱ばかりが身体中を迸った。それでもやはり、自分を信じてやりたいのだ、人間というものは。
「悪い、本当に覚えていないんだ。もしかしたら人違いなんてっことはないかな。俺だったかな、その人。」
「う~ん・・・」
あごに手を当て首を傾げわざとらしく考える仕草を見せる由良。視線をこちらに預け、チロっと舌を出す。ちょっと可愛い。
「人違いではないと思うよ。作り話だからね。ほら、飲も、飲もっ!」
酒が喉を通らない時、人はどうすればいいんだろうな。
徒歩圏内に住んでいる由良と藤近に別れを告げて駅へ向かった。足取りはしっかりしている。吐き気と眠気もなし。尤も、電車に乗れば心地良い揺り篭に落とされてしまうのだろうが。時刻は23時。だいたい5時間店にいたことに驚きながら、喜びをこっそり噛み締めていた。嫌らしいことに他者への優越感も。正確に言うなれば、自分の中の劣等感が消失した。俺は楽しく時を過ごせた、友人と宴の席を設けることができた、他者の羨む週末だった。いつか語れる思い出を作ることができた。
静かな夜だった。店が閉まっているとか人通りが少ないというのではなく、風がない。風のない夜は気配が殺される。香りが和らぎ、抵抗と反発は収まり、無心に近付いてどこか落ち着く。昔から嫌いじゃない。
改札近くのいつもの通り、いつもの場所に、いつもの女性が座っている。彼女の前には絵がズラリ。前だけではないから包囲されていると言うべきか。普段、講義を終えて帰宅する時はほぼ毎日見かけるのだが、こんな遅くまでいるのか。厳しい冷え込みはなくなったが、いや、そういう問題ではないか。自分で描いた作品なのだろう。ただ路上で売っている絵をじっくり眺める勇気など俺は持ち合わせていない。今日という日でも奇抜な色彩のコンクリートだけを見つめながら改札に向かった。
小学1年でサッカーのクラブチームに入った。始めたきっかけは覚えていない。兄弟はいないのでお兄ちゃんの影響で、ということはない。なかなかの強豪だったようで全国大会出場はならなかったが、都内ではそれなりに名の知れたチームだった。5年生の時からトップチームのレギュラーだったから、俺もなかなかのものだろう。フォワードで、チームの点取り屋だった。そう考えると一番続いたのはサッカーか。中学からは学校の部活動に入り、高校でも2年までサッカー部に籍をおいていた。大学では運動自体ほとんどしなくなったのでボールに触れることもなくなったが、国内、海外、代表戦問わずテレビ中継がやっていればチャンネルは合わせておく。昔みたいにかじりついて観るということは少なくなったが、嫌いになったわけではない。誰に対しても詳しく解説を行う自信はある。大概独りで見ているけどな。
小学3年生からはピアノを習わされた。あの頃は嫌で嫌で仕方なかった。毎週水曜日に先生のお宅へ伺うのだが、危うく水曜日が嫌いになりかけた程だ。歌、ピアノ、音楽は女子がやるものという偏見を持っていた。小学校の音楽委員とかピアノの伴奏を思い浮かべると、男子がそういった印象を持つのも致し方ないか。断っておくが、音楽鑑賞は俺の数少ない趣味の一つである。
ピアノのレッスンなんて聞くと、あんな有名な曲を弾いて、テレビで流れているこんな曲を練習して、という幸せな空想を抱く人がいるかもしれない。けれども現実は練習曲、練習曲、練習曲。知っている曲なんてこれっぽっちもない。曲名なんてありゃしない。自分の体、自分の指なのに、まるで思ったように動かない。俺の場合は特に左手の薬指。これは結局、克服できなかった。
性根が真面目で臆病なのでレッスンを休むことはなかった。自宅での練習もサボらなかった。中学生にもなると本屋で楽譜を買ってきて、自分の気に入った曲を弾くこともできるようになった。自分の気に入った曲を弾くこともできるようになった。テレビで流れた曲、ゲームや映画音楽、時には親からのリクエストも。それに応えることができる。こうなってくると楽器は楽しい。こうなって初めて楽器は楽しい。ようやく、文字通り音を楽しめるようになるのだ。それまでのストレスが嘘の様にいつまでも鍵盤に触れていることができた。気分転換のひとつとしてピアノが成立するようになった。
それでも、である。
サッカー部は2年の時に退部した。ピアノも高校卒業と同時に辞めた。毎日蹴っていたボールは目に触れることもなくなり、実家を出てしまったのでピアノを弾く機会も失われた。学生の本文、勉強だってそうだ。これ以上、理系の知識が増えることはないし、英語の能力、具体的には単語、熟語、読解力は受験期が最大だったし、世界史を学ぶこともないだろう。
終わっていくのだ、何事も。
「あれ、休講・・・か。」
大学の講義が飛んでしまうことは意外と多い、ということを最近実感している。ウチの大学が妄りなのか教授というのは忙しいのか、たまたまなのか。休みの知らせが事前に掲示されていることもあるし、教室に入ると黒板に張り紙が、ということもある。理由が添付されていたことはない。今回は後者。
既にほとんどの生徒が意気揚々と教室を出て行った。思いがけずに出来上がった自由時間をむだにしまいと。死ぬ気で勉強しに来ている人間であれば苦情のひとつでも入れるのだろうが、そんな話は聞いたことがない。自分も同じ。一言で感想を言うなればラッキー。
5分前に入ってきた藤近も含めた俺達3人はというと、立ち往生。さて、どうしようかなという所。ちなみに3人共、今日はこのあと講義がない。帰ってしまって問題ないのだが。
「ねぇ、買い物でも行こうか。せっかく近くにアウトレットモールがあるんだし。」
俺達は由良の提案に乗って表に出た。
時計の針は12と3。目を細めてしまうほどのすこぶる上天気に平日のド真ん中。勿怪の幸いとはいえ、こんな冥加な空間でのんびりできるのは大学生の特権である。だから日本の大学は入るまでが大変なんて言われ方をするのかもしれないが、嵐のまえの静けさ。働きすぎと称される日本のサラリーマンに変身する前の猶予期間ということで弁解は宜しいのだろうか。時間が余って暇潰しの為にフラフラできるなんて、しかも半日、完全な休日気分でというのは社会人がお金を叩いても買えない代物なのかもしれない。
足の運びは自ずとゆっくり、緊張感から解放された体は程よく脱力される。余裕から視野は広がり、頭は冴え渡る。一見矛盾した状態が最もリラックスできている証拠だと、格好つけて歩いていた。2人に出会えて、調子に乗れるようになった。
まずは藤近ご希望の靴屋へ。有名スポーツブランドの直営店だ。言われてみれば藤近は同じマークの印刷された靴ばかりを履いている。好きなんだよな。気付いて話を振って、思いの丈を聞いてやればよかった。そうやって会話が成立していくのに。今度、靴とかこのブランドに関して質問してみようかな。俺から話題を提供できるだろうか。
靴なんぞ履けるヤツが一足、予備で二足目があれば事足りると考えている俺を尻目に靴選びを始める藤近。まずはぐるりと店内を一周。ここまでは由良と俺も付いていく。藤近は自分のお目当てのコーナーを見つけるとピタリと足を止めて振り返った。まるでドラマか演劇のワンシーンのようだ。ピンッと、人差し指まで立ててやがる。
「由良さん、水谷。ちょ~っと待っててくれよな。10分くらい時間をおくれ。」と言い残すと自分の世界に入っていった。どうぞごゆっくり、という由良の声は聞こえていなかったかもしれない。店員に行って違うサイズや色違いを持ってきてもらったり、3、4足は試し履きもしていた。え、靴紐も買うのか。付いているのじゃ不満か。ダメなのか。
靴選びの間、由良と俺には目も呉れず。講義中の集中力がここでも発揮されていた。置いてきぼりで待ち惚けの2人に会話が生まれる。
「藤近君、楽しそうだね~。」
そうか、由良には楽しそうに見えるのだな。講義が急遽なくなって、自分の好きな店で好きなものを物色。楽しくないわけがない。
「全く、小さな子供みたいだ。」
でも俺には、そうは見えなかった。どこか鬼気迫るような、全力必死で選考している印象が拭えなかった。小さな子供はサイズを気にしないし試し履きもしない。ましてや別途で靴紐を購入するなど考えもしない。大学生だから金はない。予算と相談しながらより良い一足を、という解釈で間違ってはいないと思うのだが。
次の引率者は由良だ。彼女に導かれたお店はCDショップ。やや意外だった。宝物の入った手提げ袋を左手に持つ藤近からは、やれビジュアルバンドだ、やれアイドルグループだという話は幾度となく聞かされてきた。俺の好みの音楽を喋った途端、藤近の頭上にはクエスチョンマークが乱立していたが。由良から音楽の話が出たことはほとんどなかった。藤近と音楽の話になった時も話題に入ってくることはなかった。ちなみに俺がよく聴くCDはゲームや映画のサウンドトラック。藤近に好きな歌手がいるように、俺にも心惹かれる作曲家がいて。ただしその知名度は低く、藤近の反応は言わば一般的である。
由良はどんな音楽を聴くのだろうか。入口を抜け、藤近と並んで由良に続いていく。そして立ち止まったのは『クラシックコーナー』。思わず男同士で顔を見合わせてしまった。
「うーん、あるかな・・・この前、お風呂にCDを落としちゃって。これに入っているかな―あ、あった、あった。」
あっさりとお目当ての品を探し出した由良。1枚のCDに複数のクラシック曲が入っている、廉価版コーナーでよく見かけるようなジャケット。クラシックならば、会話が可能なのは俺だ。
「どの曲がお気に入り?」
「『G線上のアリア』。」
「G・・・上?マリア?」
藤近はクラシック音楽には疎いようだ。悪戯心とちょっとした仇討ちの欲求も手伝って、頼まれてもいない解説を教授してやった。狩りにも10年以上ピアノを習っていたのだ。聴覚のみならず視覚的のも音楽に触れてきた。たまにはいいだろう。主導権を握っても。
「そう、バッハ。名前は聞いたことがあるだろう。」
由良はレジにて精算中。
「あれだろう、あれ。ベートーヴェンとかモーツァルトとかの―」
とかの、の意図する所は分からなかったが、音楽の教科書に載っている奴だろう、という意味に解釈した。
「そうそう。聞いたことないか、『G線上のアリア』って。」
「ないな~。っ言うか、曲名の意味もひとっつも分からん。曲を聴いたら知ってる、知ってるってなるのかな~。」
「一度くらいは聴いたことがあると思うぞ。」
由良が精算から戻ってきた。
「アニメとかドラマとかにも使われているしね。一応正式名称は『管弦楽組曲第3番ニ長調の第2曲』・・・だったかな。」
「俺、聴いたことなくていいや。」
互いに目を見て声を出して笑う姿はまるで恋人同士。そこに割って入るようだが、友人と笑いを共有できるというのは心強い。無事にお目当ての曲を手にした由良は、お気に入りのクラシックを流しながら半身浴でもするのだろう。のぼせないようにな。
「さ、私の番はおしまい。水谷君、何か買い物は?」
こういった気配りというか、周りに目を向けられる余裕が俺には欠落しているのだろう。とはいえ、俺に買い物の予定は無し。
「んっ?俺は何もないよ。」
ふらふら、ぶらぶら3人で絵画通りを歩く。『絵画通り』は最近、勝手に俺が命名した。まぁ、どんな絵が並んでいるかもまともに見たことはないのだが。
「うわ~、スゲーな。キレイな絵。風景画っていうのかな。お姉さん、これ全部鉛筆ですか?」
藤近、お前が凄いよ。俺には真似できない。絵画を眺めるだけでなく、お姉さんに質問まで。そうこうしているうちに由良も絵に吸い込まれていく。簡単な敷物シートに置かれた二十点程の風景画。二人程には絵に近付く勇気が持てない俺は一点、二点と絵画の枚数を数えることで精一杯だった。両膝に手を当て腰を屈めて目を注ぐ由良と藤近。少し距離を置いて2人を静観する俺。順当に考えれば声が届けられるはずはないのだが。
「君、いつも通る子だよね。良かったらお友達と一緒に見ていってよ。」
2人の視線は絵から人へ。
「はい。」
目を瞑って歩いているわけではないので、伏し目がちの俺の視線にも路上の絵は映り込んでいた。だから色のない白黒の絵だということは薄々感付いていた。細い線の、どこか頼りない、心細い絵だな、と。藤近の言う通り鉛筆かボールペンで描かれとものなのだろう。
心の内ではなく声に出さなくては。何かを話さなくては。勝手に焦りだした所で、女性の方から話しかけてくれた。
「万年筆で描いているんです。」
「万年筆ですか・・・へぇ~。すごく細かくて綺麗ですね。」
予期した通りというか、これ以上会話は続かなかった。直に俺達は絵を離れ、その日は其々の帰路についた。
お世辞抜きに綺麗な絵だったと思う。細かい線で描かれているからスッキリしていて見やすいということもあったろうか。何だろう、懐かしさを思い起こさせる絵だった。どこかで見たことのある景色が黒白の招待状から伝わってきた。テレビ画面か雑誌の写真か、教科書か。教科書か資料集の類であれば名に負う場所なのだろうが、絵画には価格もタイトルも添えられていなかったので特定できなかった。藤近と女性の会話を盗み聞きした所では写真をもとにというニュアンスで伝わってきた。遊歩道、鉄道、滑り台、雲、大樹、などがあったと思う。
落ち着いて考えれば、懐かしさの理由は白黒だからというところに落着するだろう。セピア色の写真というだけで随分と歴史を感じてしまう。色のない世界が俺に錯覚させたのだ。そうであれば、良かったのかもしれない。
【1 邂逅 終】