犠牲者は増え、混沌は増す
二人の追跡は驚くほど容易だった。
それも当然だ。寧は横山を止めるために攻撃を繰り返していたため、地面に雹の欠片が散乱していたり突風で物を吹き飛ばした痕跡が残っていたからだ。はっきり言ってやり過ぎだ。人や建物への被害は無いのが幸いだ。
落ちたパン屑を辿るようにして行き着いた先は埠頭の一角だった。海を挟んだ向かいに人の姿が見えるだけで付近に人の気配はない。コンテナによって視界が遮られていることもあって、追っ手を撒くには良いポイントであっただろう。逃げるのがもう少し早ければだが。
横山は脚を負傷しているようで、コンクリートを血で濡らしている。そして、そんな奴を仁王立ちで見下ろしている寧の背中が俺の位置から見えた。
「さあ、もう鬼ごっこはお終いね? 大人しく捕まってくれると嬉しいんだけど」
余裕たっぷりに勝利を宣言する彼女はとても自信に満ち溢れている。このところ鬱屈とした想いを抱えながら過ごしてきたので解放感と充実感に酔いしれているのだろう。俺がずっと調査に出向いている間一人我慢を続けてきたのだ。少々ストレスを溜めすぎたのかもしれない。これで発散できていればいいのだが。
「……畜生が。『同盟』にはばれないように済ませるって手筈だったのによ。速攻でばれてんじゃねえか」
敵の誤算は加治佐牡丹の情報収集を知らなかったことだ。場合によっては宮内晴玄が加治佐の存在に気づいて仲間に警戒を促した可能性もあった。
きっと宮内は人手を集めることを優先してそのあたりが疎かになっていたのだと思う。里見が捕縛された件も焦りに拍車をかけたのだ。
結果、尻尾を掴まれる羽目になってしまった。泣きっ面に蜂というべきか、立て続けに不遇に見舞われる運の悪さに敵ながら同情を禁じえない。
「もういいでしょう。下手に抵抗したところで怪我の数が増えるだけよ。安心しなさい、手当てはちゃんとするから。望むなら里見と同じ病室にしてあげてもいいわよ」
寧は良い笑顔でそう提案する。
テンションが上がり過ぎているので、そろそろ介入した方がいいだろう。
横山は悔しげな表情を浮かべると、息を荒く吐いた。
「――ああ、くそ! なんでお前何度も邪魔しやがるんだよ。あの時もそうだ。肝心な時に割り込んできやがって」
「はあ? “あの時”って何よ」
寧は横山の言葉に首を傾げる。
「昔のことだ! 氷見山公園でお前が邪魔してきた時だよ!」
「……?」
俺は奴の言っている意味が全くわからなかった。
あの時? 氷見山公園?
一体何の話をしている?
「ああ? お前憶えてねえのか? まあ、あの時はほんの四、五歳のガキだったからな。無理ねえか」
「……もしかして、それって八年くらい前のこと?」
俺は寧の顔が凍りついていることに気づいた。
彼女の言葉には、まるで触れられたくない記憶が表面に浮かんできたかのような驚愕と動揺が混在していた。
「そうだよ、憶えてたか」
「……あなた何を知っているの?」
寧は鬼気迫る様子で横山を問い詰めた。
「何って……だからあの時のことだ。俺もあの場にいたんだよ――浅賀たちと一緒に」
いよいよもって訳がわからない。
何故、浅賀の名前まで出てくるんだ?
それに寧には横山の話す内容に心当たりがある様子だ。あいつらは過去に直接顔を合わせたことがあるのか? 俺はそんな話一度も聞いたことがない。
「あの時のこと知っているの? 一体何が起きたのかを」
寧の声色は震えていた。言葉の端に心から湧き上がる感情が漏れ出しているのがはっきりわかる。
「教えなさい! あの時私は何をしたの?」
「何したって……まさか、あれを忘れたのか?」
横山は寧の顔をじっと見つめていたかと思うと、急に小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「はっ、それが本当なら笑える話だよなあ。だってそうだろ? つまりお前――」
横山は最後まで言い終えることはできなかった。
埠頭に響いた一発の銃声が奴の言葉を打ち切ったからだ。
横山の頭が揺れた後、そのまま上半身が後ろに倒れる。傷ついた脚を抑えていた腕は投げ出され、身体の下敷きになって見えなくなった。それから間もなく横山の頭部から流れ出る血でできた池に身体全体が侵食されていった。
「え――?」
寧が呆然として間の抜けた声を出す。
俺はその声を耳にして我を取り戻した。
すぐに銃声が鳴ったと思われる方角へ顔を向けた俺の視界に一つの影が映った。コンテナの上に乗っている何者かの姿だ。姿を認識した時、その人物と視線が合ったような気がした。だが、その人物はコンテナの裏側に飛び降りてしまった。
横山の亡骸の前で屈んでいる寧を一瞥すると、彼女は感情の消えた瞳でそれを見つめていた。
今し方見せた情緒不安定な反応は気にかかったが、俺は今成すべきことを優先することに決める。
狙撃手が消えたコンテナの裏側へ回るが、そこには誰の姿も無かった。コンテナの上に登り高所からその姿を探してみるが、もうどこにも見つけることはできなかった。
「……やられた」
コンテナの上から先程いた場所を眺めると、開けた場所の中央に寧と倒れた横山が目立っている。
ここからなら狙撃するのは難しくないだろう。
「じゃあ、その狙撃手は横山を殺しただけで逃げ出したのか」
「ええ、俺たちと戦り合う気は最初から無かったように見えました」
警察が駆けつけ現場検証をする中、俺と凪砂さんは言葉を交わす。
「せめて男か女かでも確認できたら良かったんですけど……」
「少なくとも田上静江ではないな。ざっとコンテナの周辺を見たところ海水に濡れた形跡は無い。それに海に逃げる際に銃は捨てていったからな」
それでなくとも水に濡れた銃は使えない。
横山を殺害したのは別の誰かだ。
「綺麗に頭を撃ち抜かれて即死か」
銃弾は鑑識によって回収され、鑑定に回されている。線条痕から過去に何らかの犯罪に使用されたと判明すれば有力な手がかりになる。凪砂さんの一声で大至急鑑定を行うとのことだ。彼女の人望と親衛隊の結束力がとても頼もしい。
「はあ、田上静江の行方も掴めないし……各務先生は救出できたが収穫はゼロか」
「そうでもないですよ」
「何かあるのか?」
そう、今回の事件で思いもよらない収穫があった。
「監禁場所に突入する前に横山と各務先生の会話を盗み聞きしたんですが、どうやら連中は先生から何か訊きだしたいことがあったようです。それがどうも浅賀の仲間だった九条詩織のことらしくて」
俺は横山が口にしていた言葉を凪砂さんに伝えた。
凪砂さんは険しい顔で頷く。
「先生は今どこに?」
「あちらで休んでおられます。大きな怪我もありませんから会話も大丈夫です」
近くにいた警官に各務先生の居場所を訊き、この場を任せて俺たちは現場を去る。
「それに気になることは他にもあります」
移動する最中、今度は寧と横山の会話について伝える。
「横山が寧と過去に逢っていた?」
「それが引っかかって仕方がないんです。いつ二人が顔を合わせたのか。それに氷見山公園の名を出したのが偶然とは思えなくて……」
氷見山公園――忌まわしき一年半前の事件の舞台であり、寧にとって印象深い地。
寧は八年ほど前のことだと口にしていた。その頃、対立派絡みの事件が何か起きたのだろうか? まだ幼かった寧が居合わせるような何かが。
俺は寧が過去に対立派の事件に巻き込まれたなんて話は聞いていない。礼司さんも紫もそんな話は一度もしたことがなかった。
それに八年ほど前といえば俺が引き取られる前後のことだ。小耳に挟んでもおかしくないはずだが。
「寧にも話を訊きたいが……そんなこと訊けそうな空気じゃなかったな」
寧は事情聴取を行った後、一人になりたいと言ってどこかへ行ってしまった。埠頭から離れてはいないと思うが心配だ。
「よし、まずは各務先生の方から片付けよう。彼が九条詩織の何を知っているのか問い詰めようじゃないか」
威勢よく拳を握る凪砂さん。
そんな彼女の背後からふらふらと覚束ない足取りで加治佐牡丹がやって来た。
「……話は聞かせてもらったッスよ。是非私も同席させてほしいッス」
「大人しく休んでいてくれ。まだ能力酔いが治まってないんだろう?」
“太陽の義眼”を広範囲で使用した代償は相当重いらしい。今にも嘔吐しそうなほど真っ青な表情だ。
「ふふふ……これくらい三徹した時と比べればどうということ……」
「済まない雫、付き添っていてくれないか」
「ああ、任せろ。ほら加治佐さん、車の中で横になろう」
加治佐の後からついてきた雫が彼女を車まで引き摺っていく。
衝撃的な展開に記者根性に火が点いたのであろうが大人しくしてもらいたい。
二人の背中を見送り再び足を動かそうとした時、今度は警官の一人が声をかけてきた。
「警部補、少しお時間頂けますか?」
「どうした?」
「横山の頭を撃ち抜いた弾丸の鑑定結果が届いたのですが、妙なことが判明しまして……」
警官は言いにくそうに語尾を弱める。
「何か気になることがあったのか?」
「殺害に用いられた銃……過去の対立派絡みの殺人事件で使用された物と同一らしいです。証拠品として保管されている弾丸と線条痕が一致したと報告がありました」
「じゃあ、横山を殺害したのは対立派のメンバー?」
田上静江が犯人である可能性はあまりない。
では、丹波秀光か宮内晴玄のどちらかが横山を殺害したのだろうか?
あの二人が狙撃に長けているという情報は資料に載っていなかったが、それでも鋭月の元で暗躍していた中核メンバーだ。多少腕に覚えがあっても不思議ではない。
「……おかしいのはそこなんです」
俺と凪砂さんの顔を交互に見ながら警官は続けた。
「凶器の銃は既に警察が押収しているんです。今回の事件に用いることはできないんです」
「何だと……?」
俺たちは顔を見合わせた。
「どういうことだ……?」
突如浮かび上がった疑問の答えは出なかった。
確かな事実は一つ。
横山修吾を殺害した凶器は、現在警察の管理施設に保管されているということだった。