病み上がりの朝
薄らと瞳を開けば、朝の日差しがカーテン越しに部屋の中に差しこんでいた。
ゆっくりと上半身を起き上がらせてから大きく身体を伸ばすと、一気に眼が冴える。それから一度深呼吸して、ベッドから床に降り立つ。眩暈はしないし思考もクリアだ。
ベッドの脇にはコップと錠剤が置いてある。一度目を覚ました時に雫が服ませてくれた能力酔い用の薬だ。数回分残っているそれを手に取りしげしげと見つめる。
倒れた原因が能力酔いだったとは意外だ。教えてもらった時はまさかと思ったが、確かに俺を襲ったあの不快感や倦怠感は能力酔いの症状だった。夕方に雫に蓮の事件について語った後の立ち眩みのようなものも、その一つだったのだろう。そう考えると、早い段階から兆候は出ていたと言える。
しかし、何故?
原因は判明してもそれに至るまでの過程がわからない。
納得がいかないまま服を着替え、部屋の外へ出る。ふと視線を横に向けると、隣の部屋から雫も出てくるところだった。また、丁度凪砂さんが廊下の奥からこちらへ歩いてきていた。
「おはよう由貴くん、気分はどうだ?」
「……一応良くなった。薬が効いたかな」
雫への返答は若干気力に欠けた。体調自体は問題ないが普段よりテンションが低くなっている。元々活発な性格ではないので余計に陰鬱な印象を与えそうである。
「それはいい、皆心配したんだぞ」
「すみません、ご迷惑かけて」
「今日はどうする? 念のために休んでいるか?」
凪砂さんが背中を軽く叩きながら訊いてくる。
「いや、薬はまだあるし無理しない程度に動こうと思います」
「また体調が悪くなったらすぐに言うんだぞ、わかったな?」
俺たち三人は連れ立って階下へと下りていく。歩きながら会話を交わすが、内容は当然俺が倒れた件についてだ。
「……それにしても原因不明とは不可解だな。何故、能力酔いを起こしたのだろう?」
「各務先生も首を捻っていたな。大事はないそうだが」
雫と凪砂さんが語る様子を後ろから眺めて、やはりそういう疑問に行き当たるなとぼんやり思う。
原因不明というのはそれだけで不安を煽るのだろう。
「若干空気がぴりぴりしていたから何事もないとわかって助かった。皆口には出さないが礼司さんが倒れた時のことを思い出していたんだろう」
凪砂さんはやれやれと首を振るが、彼女自身かなり焦燥に駆られていたと俺は確信している。自惚れるわけではないが、俺に関わる問題となると常に全力を出すのが香住凪砂という女性である。男冥利につきると素直に思うことにしよう。
食堂前の廊下へ行くと、今度は寧と顔を合わせた。
「おはよう由貴、良い朝迎えられたかしら?」
「お蔭様でな」
義妹は俺の顔を観察するようにじっと見つめてくる。それから一人で納得するように頷き、小声で「大丈夫そうね」と呟いた。
「今日は一緒に調査に行けるの?」
「ああ、そっちは問題ない」
調査の前に、寧にはこれまでの経緯を説明しなければならない。礼司さんからの依頼、雫が来た目的、鷲陽病院の火災に関するあれこれと、内容は豊富だ。四人で行動するならアンコロではなく車での移動になるだろう。移動中に説明を済ませるとしよう。
「それじゃあ、時間を見つけてまた来ますね」
玄関の方から各務先生の声が聞こえたのでそちらへ目を向ける。メイド人形が玄関の扉を開け、五月さんが先生を見送るところだった。
先生にも礼を言おうと足を運ぶ。
「やあ、どうやら気分は良さそうだね」
「昨夜はありがとうございます。何とか持ち直しました」
「由貴くんも一先ずさよなら。一応薬はちゃんと服んでね。また何かあれば気軽に電話していいから」
先生はそう念を押すと開けた扉の向こうへと去っていった。
「では、我々も腹ごしらえと行こうか」
凪砂さんの言葉を機に再び食堂へと向かおうとしたが、そこでまたもや足を止めることになった。五月さんが声をかけてきたからだ。
「……あ、由貴さん」
「ん?」
微妙そうな表情から察するに昨夜の一件に関することらしい。視線で先に行ってくれと女性二人に促すと、こちらも察してくれたのかそのまま食堂へと入っていく。
俺と五月さんは廊下の隅にある日が当たらない小さな空間へと移動し、身を寄せ合うようにして話す。
「昨晩は、その……ありがとうございます。先程、章さんと辰馬様とも話し合いました。今回の事件が落ち着いたら上層部に例の件を報告する予定だそうです」
「そうか……」
辰馬さんは章さんを庇うつもりはないようだ。彼らしい判断だと納得する。辰馬さんは才能に恵まれなかったが故にせめて御影家の名に恥じる振る舞いだけは避けるように心掛けている。俺をやっかむことはあっても、地方支部長としては厳格であった人だ。例え息子の将来を潰すことになっても不始末を隠蔽することだけはしない。
その選択を当然だと思いつつも、心の片隅ではやはり残念だという感情が湧いてくる。後味の悪さはどうしても隠せない。
五月さんは俺の感情を読み取ったのだろう、首を振って否定を示した。
「いつかはこうなる運命だったのでしょう。こちらこそ由貴さんにご迷惑おかけして改めて何と申せば……」
「そっちは気にしてないから謝らないでくれ」
遺体の盗難については正直なところ怒っていない。怒りより困惑の方が圧倒的に勝るからだ。
「それから辰馬様が少し話をしたいと仰っていました。朝食の後で構わないそうです」
「わかった」
「ああ、来たか」
朝食を食べ終えた後、辰馬さんの部屋を訪ねるとすぐに応答があった。
部屋の中には辰馬さん一人だけ。章さんもいると思ったがそうではなかった。
「章のことは済まなかった。お前に余計な手間を取らせてしまったな」
「気にする必要はない、自分の仕事を片付けただけだ」
いきなり頭を下げる辰馬さんを制する。つい二日前まで蛇蝎のごとく嫌われていたのでこの対応はひどく慣れない。
「自分の仕事、か。この手合いの仕事が向いているのかもな。当主補佐としては丁度いい」
辰馬さんの皮肉に笑う姿に俺は何も言えなかった。
彼はすぐに表情を切り替えて本題に入る。
「それで五月から聴いた話だが……蓮の件はどうする?」
遺体盗難の件は裏で捜査することになる。上層部の説得は小夜子さんに一任するのがいい。後は俺たちで進めるほかあるまい。
まず、第一に突き止めるべきは盗難の動機だ。五月さんを脅迫してまで実行したくらいだ。そこには強力な理由が存在しているはずだ。そのためには浅賀と、奴の仲間三人の行動を洗いだす。特に防衛自治派に出入りしていた桐島晴香と接触した者は多い。そして、彼女が特に出入りしていたとされるのが『WHITE CAGE』だ。
「そのことで今日行く所がある。浅賀善則について新情報を見つけられるかもしれない」
「そうか、そちらは任せたぞ。私は別の用事があるからな」
「別の用事?」
「沙緒里のことだ。そろそろあいつの真意を突き止めてもいい頃だろう」
「……そうだな、確かにそっちも気になる」
沙緒里さんの狙いは浅賀の隠し持つ抑制剤の入手。その目的は未だ語ろうとしない。
信彦さんと再婚以前から水面下で手を組んでいたことといい、あの人も陰で策を張り巡らせているのだろう。
一体どこまで全体像を把握しているのか。これまでははぐらかされてきたが、いい加減明かしてもらいたいものだ。
「蓮の事件以降のあいつの行動を洗ってみる。私の権限でどこまでやれるかわからんが……試す価値はある」
警備部を掌握している沙緒里さんは自分の尻尾を易々と掴ませはしない。それでもやってみるべきだろう。
俺は辰馬さんに委ねることにした。
出発の準備を整え、俺は玄関へと向かう。
玄関には既に寧、雫、凪砂さんが揃っていた。小柄な寧、長身の雫、その雫よりさらに背の高い凪砂さんが並んでいると三姉妹のようだ。
「なんだかこの組み合わせって新鮮よね」
全員の顔を見回しながら寧が言う。
言われてみればそうだなと思う。雫を除いた俺たち三人は以前からの付き合いだが、寧が凪砂さんを苦手としていた都合上一緒に行動することはあまりなかった。
「こうして寧と一緒に行動するのは巡回以来だな」
思い出すのはかつてここに住んでいた頃の日々の記憶。もうずっと昔のことのように思えるが、実際にはほんの一年ほど前だ。蓮がいくなってからは登と組むことが多くなったし、そもそも身の回りがばたばたしていたせいで巡回に行く回数自体が減った。
「……よろしくね」
「ああ」
寧が嬉しさに頬を染めたのを見て、俺も微笑む。
丁度その時、秋穂さんがやや駆け足で俺の元へとやって来た。
「由貴さん、お加減は大丈夫なのですか?」
秋穂さんは感情の薄い表情を真っ直ぐこちらへ向ける。少しだけ眉が寄っているので、恐らく俺が外出することに不満を表しているのだろう。
「今はなんともない。そんなに心配そうな顔をしないでくれ」
「本当は引き留めたいのですが……聞いてもらえそうにありませんね」
秋穂さんはすぐに引き下がった。俺の性格を熟知しているが故の対応だ。
「よろしいですか、絶対に無茶は真似はしないと約束してください。あなたに何かあれば悲しむのは他の皆様です」
「わかってる、これ以上迷惑はかけない」
「各務先生から処方された薬は持っていますね? 気分が優れないなら必ず服用してください」
「ああ」
「能力の使用は極力控えてください。凪砂様も含め他の皆様がいらっしゃるのですから、万が一のときは遠慮なく頼るようにしてください」
「……ああ」
「能力を使用しないにしても激しい運動は避けるようにしてください。あなたなら“身体を軽く動かすだけならいいだろう”と考えそうなので」
「……そうだな」
「今日は日が照っていますが風が冷たいそうです。くれぐれも身体を冷やさないようにしてください」
「……」
「それから――」
「秋穂ちゃん秋穂ちゃん、もうそのへんで」
段々と口調がヒートアップしてきた秋穂さんをいつの間にか現われた隼雄さんが止めた。
「そんなに過保護にならなくていいからさ。何なの? 秋穂ちゃんは由貴くんのお母さんなの?」
「一時とはいえ身の回りのお世話をさせていただいたのです。このくらいは当然でしょう?」
「うわあ、素面で言ってるよこれ」
何を言っているのだと秋穂さんが首を傾げる。その様子を見た隼雄さんは引き攣った顔になった。
「たまにこうなるからな、秋穂さんは。俺がここに引き取られた直後もそうだった」
「……だろうね。秋穂ちゃんさ、昨夜君が倒れたって聞いた後凄い慌てようだったんだよ。ただの能力酔いって知ってからは落ち着いたけどね」
その時の秋穂さんがどんな様子だったか想像するのは止めておこう。
「ま、とにかく気をつけてね。昨日みたいに出掛けた先で敵と遭遇なんてそうそう無いだろうけど」
「隼雄さんたちは本部に行くんだよな?」
「うん、夕方くらいには帰るつもりだよ。こっちでも情報は集めておくから何かわかったら連絡するね」
隼雄さんは先に屋敷を出て行く。秋穂さんもそれに続いたが、名残惜しそうに俺に視線を向けてきた。苦笑して一度頷けば、諦めたように肩をすくめて姿を消した。
「さて由貴くん、私たちも行こうか」
「今日は大きな事件もなくゆっくり調査できるといいな」
俺は春の陽気を感じつつしみじみと呟いた。
しかし、この淡い期待は僅か一時間程度で打ち砕かれることになった。