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エンゼルプラン  作者: 夏多巽
間章
82/173

計画続行

 暗闇に包まれた廊下の中、点々と燈る光源の下を一人の男が歩いていく。

 紺のスーツには皺が寄り、髪には寝癖がつきろくに手入れされていないのが一目瞭然、その上顎にはやや伸びた髭が薄く黒いラインを描いている。

 この二日間あちこちを駆け回って目の回るような仕事をこなしていた彼は、顎を(さす)って少しばかり不快な髭の感触に目を細めた。


 せめて髭だけでも剃るべきだったか、と反省する。

 風呂に入れないのは仕方ないが、目に見える部分には気を使ってもよかっただろう。


 明日の朝までには剃っておくかと心の中にメモをして男は廊下を進む。

 ナースステーションに差しかかった所で、看護師と何か話をしていた警官が男に気づき敬礼した。男はそれに軽く手を挙げて答えた。


「中井くん、お疲れ様。ちゃんと休んでるかい?」

「先程休憩から上がったところです。警部は?」

「今日は働きづくめだったよ……いろいろ起こって捜査本部も大変だ」


 男を警部と呼ぶ若い警官は、この日の昼まで浅賀善則の屋敷を警備していた中井巡査だった。

 浅賀邸の異界が解除された後は尊敬する上司の命令でこの病院に詰めていた。


「どうだい、里見の様子は?」

「現状問題はありません、大人しくしています」


 中井は里見修輔が“収容”されている病室がある方に視線を向けるとそう告げた。


 里見が簡単な受け答えができる程度に快復したのを確認した警察は、病室の前や同じフロアの廊下、さらに正面玄関や非常口等人の出入りがある場所に警備を配置して、経過を待つことにした。いずれの場所にも戦闘に長けた者を複数置き、万全の警備態勢を敷いている。例え、相手が奪還するにしろ始末するにしろ突破は困難だろう。

 ようやく捕らえることができた敵の中核メンバーだ。絶対に手放してなるものかという強い意思が見てとれた。


 現在、病室の前とその廊下に四名の警官がいる。その内の一人は中井巡査と同じく昼までは浅賀邸を担当していた深尾巡査だ。彼らは左右に伸びる廊下の端を見つめ、誰一人見逃さないといった様子だ。また、里見が脱走を図った場合に備えて彼の能力に相性の良い警官も混じっている。内外双方の敵に対処できるようなバランスの良い布陣であった。


 彼らに決して油断はない。ただ、数多く存在する血統種の能力にはそんな場面でも有効に活用できるものがあるというだけだ。


 厳戒態勢の警官たちをたった今この場で眺めている(・・・・・)男もそういった能力を保有する血統種の一人である。

 彼にできるのは大きく分けて二つ。隠れること、それにあらゆる場所に潜り込むことだ。


 四名の警官のいずれかが驚異的な索敵能力を持っていたとしたら、この時天井を這う一匹の蜘蛛の姿を発見できていただろう。そのまま蜘蛛が壁を這って床へと下りていき、扉と床の隙間から病室に入り込む光景もまた視認できていたに違いない。

 蜘蛛は病室の中へ入った後静止して、見渡せる範囲内にある物をチェックした。

 天井の隅には監視カメラが一台、ベッドの近くに集音マイク、そしてベッド。

 蜘蛛は病室の壁際を通りベッドの脚に近い所まで移動すると、そこから脚を上っていき柔らかなシーツの上に降り立った。

 ベッドの上には布団に包まる男がいた。里見修輔だ。

 蜘蛛はシーツの上をちょこちょこと踏み荒らしていく。辿り着いた先は里見の耳元から数センチ離れた場所だった。


 里見は目を瞑っていた。


『里見さん、起きてますか?』


 じっと里見を観察していた蜘蛛から女性の声が響く。

 彼はゆっくり目を開くと、蜘蛛の姿を見つける。彼はわざとらしく寝返りを打ち、布団を大きく動かした。それにより蜘蛛が布団に覆われて完全に外からは見えなくなる。

 布団に抱擁された一人と一匹は暗闇の中、ぼそぼそと会話を交わす。


「静江さんですか?」

『はい、どうやら喋れる程度には回復したみたいですね』


 蜘蛛から伸びた一本の糸を辿った遥か先で田上静江は答えた。




 “盗賊蜘蛛(イリーガルウォーカー)”と呼ばれる丹波秀光の能力は、小さな蜘蛛を生成して自在に操ることができる。

 この蜘蛛の特性は大きく二つある。圧倒的な気配遮断能力と、隙間さえあればどんな遠く離れた場所にでも送り込める行動範囲。

 かつてこの能力を保有していた彼の祖先はこれを活かし盗賊の頭として名を轟かせた。“盗賊蜘蛛”という名もその祖先に(ちな)んでいる。

 さらに、この能力は脈々と継承される中、近代になって新たに加わった性質がある。それが蜘蛛から伸びた糸をケーブルやパイプとして利用することにより、ライフラインを疑似的に再現できる能力だ。

 電線、水道管、ガス管もたった一本の糸で代用可能。街中であればどこにいても自由に水や電力を確保できると言えよう。

 丹波本人の戦闘能力は決して高くないが、潜入が得意であるため鋭月からは重宝された。蜘蛛を潰されたり、糸を切られたりすれば容易に無力化できてしまうのが難点だが、それを補って余りある優秀さだ。


 静江と丹波がいるのは、病院から離れた商業ビルの屋上庭園だ。二人の傍を素通りする他の客たちは目の前に指名手配犯がいるとは露ほども思っていない。ましてや、転落防止の柵に寄りかかっている男の手から注視しなければ見えないほど細い糸が伸び、それが幾つものビルの上空を渡って病院まで辿り着いているとは。


「ええ、頭に痛みは残っていますが平気です。『同盟』の方々が必死で看護してくれたお蔭ですね」


 里見の口から出た皮肉に静江は答えなかった。この男が冗談を口にするときは何かしら苛立ちを覚えているのだと経験的に知っているからだ。従って、余計なことは何も言わずこのまま本題に入るのが最善だと思考する。


『……それで、そっちの状況は如何ですか?』

「脱走は無理ですね。警備は万全ですし、病室にもカメラが設置されています。今だって布団を被って誤魔化しているんですから」


 蜘蛛はカメラの死角を通ってベッドに潜り込んでいるため、今はまだ知られていないだろうと里見は推測した。外にいる警官の反応が全くないのもそれを裏付けている。


『うーん、それだとこちらで手引きするしかありませんが……正直期待しないでください。そちらに余力を割くのは難しいです』

「致し方ありません。全ては私の油断が招いたことですから」


 ただでさえ人手が少なくろくに動けない状況だ。見捨てられたところで文句は言えない。最悪自決することも想定している。

 だが、それはあくまで最終手段だ。人的資源をこれ以上失うのはまずい。ぎりぎりまで挽回の機会を窺うべきだと判断した。


『まさか警察が張ってたとは予想外でしたね。浅賀はまだマークされていないとばかり思っていましたから』


 静江の言うとおり、里見は異界に侵入する際に浅賀邸が警察に見張られていないことを念入りに確認した。それはこの街に入ってからすぐ下見に行った際も同様だ。そうして安心していたところに香住凪砂の登場である。彼にしてみれば理不尽極まりない展開であった。


 警察が監視を伏せていたとは考えにくい。恐らく里見たちが侵入してから数時間の内に駆けつけたのだろう。


 彼の推測は正しかった。里見と西口龍馬が異界に侵入した時刻と、最上由貴が御影辰馬から聞いた話を凪砂に伝えた時刻はほぼ同じだったのだ。

 これは里見にとって最悪のタイミングだった。もし、由貴が前日の夜の段階で凪砂に伝えていれば、彼らが浅賀邸に現われた頃には既に警官が配備されており侵入を断念するだけで済んだのだ。その順序が違ったがために、あのように異界の中で鉢合わせする羽目になってしまった。


「ええ、それに……香住凪砂以外にも気になる人物がいましたよ。それも二人」

『ほお、それは?』


 里見はすぐには答えず、不機嫌そうに額に皺を寄せた。


「まず、最上由貴。今は御影礼司の養子となっているあの少年です」


 ははあ、と静江は苦笑した。


 里見が最上由貴を嫌っていることは仲間内では皆が知っている。その理由は御影礼司と縁の深い人物だからではない。里見が昔から想いを寄せている女性の愛情を一身に受けているからである。


 里見は養護施設で過ごしていた頃から同じ施設にいた布施秋穂に惹かれていた。当時の秋穂は人見知りが激しく他者に対して心を閉ざしていたため孤立していたが、里見だけはそんな彼女のことが気にかかって仕方がなかった。

 彼は何かにつけて秋穂に声をかけ共に時間を過ごす切欠を得ようとした。しかし、いずれも失敗に終わる。秋穂は冷たく一瞥するだけで、すぐに読んでいる本に目を落とすだけだった。それでもめげない里見はアプローチを続けた。それは二人が鋭月によって血統種としての才覚を見出され引き取られるまで止まることはなかった。


 それから長い歳月が経ち大人になった後も、頻度は減ったものの恋心を諦めなかった。秋穂は相変わらず心を開こうとしないが、かといって邪険にするわけでもない。最初から関心がないようだった。少なくともマイナスイメージを持たれていないのは明らかであったので、彼は前向きに捉えることにした。


 風向きが怪しくなってきたのは、秋穂が最上精一との距離が近くなったことを耳にしてからだった。

 秋穂は精一の監視役として天狼製薬に送り込まれ、彼の部下という肩書で法務部に所属していた。精一も彼女が鋭月の配下であることは承知していたし、表面上の付き合いをするだけの間柄のはずだった。

 それがいつからか精一とその妻と親しくなり、挙句家に招待されるまでになった。それはある意味青天の霹靂というべき出来事だった。あの布施秋穂が他者に心を開くなどあり得ない話だと思われていたからだ。当然里見もその口だ。一体どんな経緯を経たのかと秋穂に問い質す者がでてきたが、彼女ははぐらかすだけで詳細は何も語ろうとはしなかった。ただ、その時の彼女は過去に見せたことのない微笑みを浮かべていたという。


 秋穂は精一と鋭月との関係改善に努めるようになった。二人の衝突を阻止するため裏で各所と交渉し、燻る火種を消すことに専念した。それが鋭月ではなく最上夫妻に配慮していたのは明白だった。彼らが鋭月の魔の手から逃れられるようにと。

 その努力も空しく最上夫妻は“事故死”した。その知らせを聞いた時、里見は密かに歓びを覚えたものだ。秋穂から親愛の情を受けていた二人は彼にとって邪魔者でしかなかった。


 これで秋穂はまた鋭月の手元に帰ってくる。そう思っていた矢先のことだった。

 秋穂が御影礼司を頼って『同盟』入りしたのだ。しかも最上夫妻の息子と親密な関係を築いているという話まででてきた。


 その時の彼の荒れようを静江はよく知っていた。


『最上由貴……彼がいたということは『同盟』も浅賀の裏に興味津々なんでしょうか?』

「だとすれば浅賀の裏側――例の研究についても知られている恐れがあります。いや、もう知られているという前提で動くべきでしょう」

『でも、その割には『同盟』の動きが鈍いんですよね……つまり、まだ核心にまでは迫ってないかと思います』

「ですね」


 里見もその推測に同意した。


「異界で彼らと逢った時、私がいたことに心底驚いている風でした。核心を知っていたのならあの反応は不自然です」


 全てを知っているなら里見があの場にいた理由もわかったはずだ。だが、そんな話は一度も出てこなかった。

 つまり、彼らはまだ知らない(・・・・・・)のだ。


『それでもう一人は?』

「雫世衣さん、憶えてますか? 優様の御友人の……」


 静江は「え」と小さな驚愕の声を漏らした。


『世衣ちゃんですか? あの子がいたんですか? 本当に? いやあ、懐かしいですね』

「私も驚きましたよ。もう四年ほど逢っていなかったものですから。見違えるように綺麗になっていました」

『あらー、見たかったですね』


 近所の子供の成長を喜ぶが如く和やかに語るテロリスト二人を見て人々はどう思うだろうか。それに答えられる者はここにはいない。


『うーん、世衣ちゃんが最上由貴と一緒にいた? じゃあ、やっぱり優様との縁で知り合ったのでしょうか?』

「推測ですが、あの家に糸井夏美の行方を示す手掛かりがあるのではと期待して来たのでしょう。警察に事情を明かして同行を許してもらったのではないかと」

『きっとそうでしょうね。しかし、参りましたね……どちらが夏美ちゃんを先に確保するかの競争になるなんて……』


 ビルの屋上で頭を抱える静江を、近くに立つ丹波が不思議そうな表情で見つめる。


 静江は心の中で悪態を吐いた。それもこれも全て浅賀の所為だ。

 あの男は早い段階、遅くとも鋭月が逮捕されるまでには糸井夏美を確保していた。それを隠しておきながら裏で独自の勢力を築き上げ、主導権を奪おうと画策していたのだ。


 それを里見や静江が知ったのは去年の春のことだ。

 魔物に襲われた市民を救ったという治癒能力を保有する正体不明の少女の噂。

 糸井夏美とその噂を結びつけた彼らは浅賀とのコンタクトを図ろうとした。その過程で知ったのが鷲陽病院の元スタッフの相次ぐ失踪だった。

 失踪した三人はいずれも例の“計画”に参加していたスタッフであり、あの火災の当事者でもある。

 妙だと思った時にはすでに遅かった。浅賀は彼らが現われたことを察知して身を隠してしまった。


 手酷い裏切りだと憤慨した。あの男の優秀さを買ったのは他ならぬ鋭月だというのに、その恩義を忘れて自己の利益に走った。

 この報いは必ず受けさせると誓った彼らは一度街から離れて態勢を整えることにした。

 それから一年近くが経過した今、彼らは再びこの街を訪れた。浅賀が自宅に隠した“薬”を手に入れるために。


 それがどうしてこんな面倒な事態になってしまったのか?


「向こうには組織力がありますからね。不利な戦いは避けられません」

『ああもう、どうしてこのタイミングで御影家に襲撃する馬鹿が現われるんですか。完全に予定が狂っちゃったじゃないですか!』


 混迷を加速させる要因はさらに増えた。御影家に大量の魔物が襲撃し、さらに婿入りした男が殺害された。事件は里見たちが引き起こしたものであると疑いを持たれ、街の警戒レベルが一気に上昇する結果となったのは不幸というほかない。


「あの事件のせいで御影家とその周辺に多数の警備が配置されてしまいました。恐らく“ターゲット”にも監視と護衛を兼ねた警官がついているでしょう。事件の関係者だと聞いていますから」

『ちょっとくらい油断してくれませんかねえ』

「無理でしょうね。病院(こちら)にいる警官も神経張りつめていましたから」


 静江が微かな期待を込めて呟くが、里見は残念そうに否定するしかなかった。


『はあー……仕方ありませんね。明日は私と横山さんで向かうとしましょう』

「丹波さんと晴玄さんは?」

『他に協力してくれそうなところ当たってくる予定です。西口くん捕まっちゃいましたからねえ』


 静江は元同級生の(よしみ)を利用して巻き込んだ西口龍馬に心の中で詫びた。

 しかしながら、まあそれほど酷い目には遭うまいと楽観する。


「では、明日はよろしくお願いします。私の方は最悪放置で構いません。いざとなれば自決する所存です」

『忠誠心溢れるのは結構ですけど、ただでさえ少ない人員減らしたくないんですから早まらないでくださいね?』

「承知しています、あの方の再起を見届けるまでは最善を尽くしますよ」

『“ターゲット”から何か情報を得られればいいですね……』


 静江は“ターゲット”の顔を頭に思い描いた。

 この一年間水面下で動いている中で突き止めたある事実。それは浅賀と夏美の行方を突き止める鍵を握る人物がいるということ。そして、その人物は今回御影家で起きた事件の関係者でもある。


 何としてでもこの人物に知っていることを吐かせなければならない。


 そのために裏社会との繋がりが深い宮内晴玄が手頃な駒を求めるために繁華街に出入りしていた。“ターゲット”の身柄を確保するには人手が必要だ。可能であれば誘拐に適した能力を保有する者がいい。晴玄は安請け合いこそしなかったが努力してみると約束した。

 横山修吾は尋問や拷問の専門家である。彼がいれば“ターゲット”から情報を引き摺りだすのは簡単なので、彼を同行させるのは確定事項だ。

 丹波には不測の事態に備えてアジトで待機してもらわなければならない。“盗賊蜘蛛”は監視に向いた能力であるが、今回は静江が監視を担当することになった。静江がいなければ戦闘向きの人材に不足する恐れがあるからだ。晴玄には頼れないので彼女が担当するしかない。


「糸井夏美、彼女さえいれば――」


 里見はその先を口にすることなく言葉を絶やした。

 しかし、静江には理解できた。彼が何と言おうとしていたのか。


 彼女さえいれば神を堕とせる(・・・・・・)

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