最後の平穏
これからのことを思案するのにも疲れた頃、ふと喉の渇きを覚えた。一息つこうと思って階下へと降りていく。
一階は玄関と廊下に小さな灯りが点在しているほかに光源は無い。既に居間の灯りも消えていた。薄暗い廊下を進むと、まだ台所には灯りと人の気配があることに気づく。五月さんが仕事をしているのかと入ってみると、彼女はサンドイッチの皿とグレープジュースのボトル、それにコップを用意しているところだった。
「由貴さん、ひょっとして飲み物ですか?」
「ああ、何か適当に飲もうかと……そのサンドイッチとジュースは?」
「登さんに頼まれたんです。よければ由貴さんも頂かれますか?」
どうやら登はまだ起きているらしい。そういえば帰ってきてからは、まだ登の部屋には行っていない。一年前までは二人でいるときは大抵登の部屋で入り浸っていた。折角なので久しぶりに行ってみるか。
「五月さん、ついでだから俺が持っていこう。久々にあいつの部屋に行くのもいいから」
「すみません、お願いできますか?」
俺は自分のコップを用意してトレイに載せようとして、その隣にもう一つトレイがあることに気づいた。こちらにもサンドイッチが載っている。飲み物はジュースではなくコーヒーだ。
「これは……」
「え――ああ、えと、それは――」
「他にも誰かに頼まれたのか?」
「いや、それは、ええ、そうなんですけど」
五月さんは何故か顔を紅くして狼狽えだす。要領を得ない言葉が口から飛び出し、視線が泳いでいる。
一体どうしたのかと訝しんだところに、新たな人物が現われた。
「……おや、五月さん起きていたのですか。丁度良かったです」
振り返ると台所の入口に一人の少女が立っていた。
低い調子で淡々と話す三白眼の少女――御影彩乃である。
「ど、どうしましたか、彩乃さん」
「ミルクを二杯頂きたいのです、温めで」
「は、はい」
五月さんは幸いとばかりに俺との会話を打ち切り、妙に元気よくミルクを温めだす。
何なんだ、この反応は?
電子レンジの前に立つ五月さんの背中を見ながら首を傾げる。
「……」
一方で彩乃は俺に対して興味があるのか無いのか判断できない視線をぶつけてくる。ほんの一時間前に信彦さんから彼女の秘密を聞いた手前、何となく視線を合わせづらい。
「……どうかしたか?」
沈黙に耐え切れず問いかけてみることにした。
「これが噂の最上由貴なのかと思ったのです」
「噂?」
「義母が事あるごとにあなたについて言っていました。災いを身に纏う子供だとか、正義のために友を生贄にしたとか」
「……良い表現でないのはよくわかる」
「あの人の言うことをいちいち真に受けていたら身が持たないのです。どうせろくな意味でないのは明らかなのです」
沙緒里さんが普段俺をどう評価しているのかは知らなかったが、気にするだけ無駄らしい。
「それで? 噂の人物に逢ってみてどうだった?」
「別にどうとも。どこにでもいるような男だと思ったのです。強いて言うなら誰に対してもぶっきら棒な印象が強いといったところですか」
「……ほっとけ、昔から染みついているんだ」
この口調や性格は死んだ父さんの影響を受けている。他の子供との態度に差があるので周囲に馴染むのに時間がかかり、その所為で交友範囲がかなり狭くなった。それもこの街の学校に転校してからは紫という俺以上の変人がいたので相対的に目立たなくなり、さらに御影礼司の養子ということで接触してくる人間が多くなったので交友関係はある程度改善された。性格に関しては、今では辰馬さんに小言を言われる程度だ。
「そういうお前も似たような性格に見えるが」
「私は別にこれで構わないのです。人付き合いに問題はないのですから」
“人付き合い”というのは自治派の連中のことか。そう追及したい欲求は抑え込み、俺は無言の反応を返す。
数秒間微妙な沈黙が流れていたが、五月さんがミルクを温め終えると彩乃はそれを受け取り、黙ったまま帰っていった。
変な奴だ。慎さんや信彦さんが苦労するわけだ。
溜息をついて俺も自分のトレイを持って台所を後にした。
「あれ、なんで由貴が持ってきたんだ?」
登の部屋は俺と同じ西棟にある。こちらは一階にあり庭のすぐ傍だ。
部屋の中は雑誌が床を占拠していて、いつも足の踏み場に困る。部屋の中央、人が一人くつろげるだけのスペースで登はすっかりだらけていた。
かつてこの部屋で俺と登と蓮の三人が少ない空白を埋めるように屯していた。現在はその空白も小さくなりつつある。俺がいない間にどれだけ物が増えたのやら。
「ちょうど俺も喉が渇いたから台所に行ったら丁度五月さんがいてな。ついでだから持ってきた」
「気が利くねえ、流石我が友」
登は早速サンドイッチに手を伸ばす。
「それにしても、どうしてこんな時間に食事を頼んだ?」
俺は二人分のコップにグレープジュースを注ぎながら訊ねた。
登は疲れ切った顔で視線を流してくる。
「さっきまで師匠に稽古つけてもらってたんだよ、こっちが頼みもしないのに」
「小夜子さんが?」
『同盟』の地位のみならず国内の血統種の中でもトップクラスの小夜子さんに師事したいと願う血統種は多い。だが小夜子さんは見た目と違い完全な戦闘狂だ。当然彼女の教えは生半可なものではない。大半は小夜子さんの課す過酷な鍛錬に耐え切れず脱落してしまう。登はその地獄を耐え抜き、乗り越えて弟子の座を手に入れた数少ない一人だ。
お調子者で軽薄なところのある登だが、小夜子さんからの評価は弟子の中で一番高い。それは彼女と同じ系統の能力を持つことにも関係があるのだろうが――。
「この家の再出発に備えて俺も鍛えなおした方がいいってさ。明日は式があるっていうのに手加減なしだぜ? 勘弁してほしいよまったく」
くたくただと愚痴を垂れる登だが、その身体には掠り傷一つついていない。昔はよく傷だらけにされて五月さんに介抱されていたが、今ではそんな姿はほとんど見せなくなった。
「訓練場はもう閉めただろう? どこでやったんだ?」
「ほら、昔お前たちが使っていた空き地。あそこだよ」
訓練場が建てられてからあの空地は全く使っていない。人の出入りが無くなった空き地は今では草に覆われ、荒れ果てたままだ。
「なんか師匠ちょっとナイーブな感じだったなー。なんつーか……稽古つけたいというよりストレス発散みたいな?」
「ストレス発散ねえ……」
「終わったときにはすっきりした表情してたよ。本当人使いが荒いよな」
ひょっとしてあの沙緒里さんの発現が尾を引いていたのだろうか。
礼司さんが殺された――それが事実であれば小夜子さんにとっては重大だ。
「……旦那が死んでいろいろ大変だったからなあ。俺たちもそうだけどあの人も」
「そう、だな……」
礼司さんが死に大きな悲しみに見舞われたのはこの屋敷だけではない。彼の力を頼りにしていた『同盟』の関係者にも多大な衝撃を与えた。
そして、小夜子さんが受けた衝撃はどれほどのものだったろうか。
「初恋の人だそうだな」
「うん」
小夜子さんが初めて恋い焦がれた相手が礼司さんだというのは、あちこちで囁かれている話だ。本人ははっきりそうだと認めたことはないが、当時を知る人物の証言からまず間違いないらしい。
小夜子さんの初恋は礼司さんの亡くなった奥さん――即ち紫と寧の母親の登場によって終わりを告げた。これが二十年近く前の話だ。以来、小夜子さんは実家からの見合い話を断り続けている。
「礼司さんとの再婚は考えなかったのか……」
「いやいや、あの人はそーゆーこと考える人じゃないから。諦めたらきっちり諦める。未練なんて残さないって」
「……確かにそういう人だな」
小夜子さんは心の空白に収まろうとするような考え方を持たない。苛烈であるが不器用で、一度決めたら二度と翻さないという性格なのだから。
「御影の夫婦って爺さん婆さんまで添い遂げるの少ないよなー。旦那はもちろん兄妹もそうだし」
登の言うとおり、辰馬さんと沙緒里さんも結婚生活はそれほど長く続かなかった。辰馬さんの方は章さんと慧が幼い頃に離婚、沙緒里さんの方は『同盟』の仕事に殉じた。隼雄さんはそもそも結婚していない。そして養子の俺は両親と死別というわけだ。
「辰馬さんは離婚の際に子供をどちらが引き取るかで相当揉めたっていうし、沙緒里さんはアレのきっかけになったからな。正直章さんたちは気の毒だと思う」
「だよなあ」
二人してそう感想を述べて、ジュースを呷る。
「だから章さんたち二人にはちゃんと幸せになってもらいたいって思うんだよなー」
「……ん?」
登の発言にコップを持つ手が止まった。唐突な話題に目を細める。
「章さんたち二人、ってどういうことだ?」
「あー……お前はまだ知らないんだっけ」
にやにやと笑いだした登は居住いを正すと、内緒話をするように小声になった。
「台所で五月さんに逢ったとき、これの他に食事用意してなかったか?」
「してたがどうして知ってる?」
「俺が頼みに行ったときに章さんもコーヒーを頼んでたんだよ。仕事をするから何か持ってきてくれって言ってたんだけど……あれは口実で部屋に連れ込む気だな」
「は?」
俺はぽかんと口を開けて固まった。登の言葉の意味がわからないのではない。それが示唆するものは理解できる。できるが――。
「知らないだろ。あの二人できてるって」
「……はあっ!?」
寝耳に水だった。そんな話聞いた覚えないぞ。
「付き合いだしたのはお前が出て行った後のことだから知らないのも当然か。まああの二人も隠してるつもりだけど」
「……それをどうしてお前は嗅ぎつけたんだ?」
「いや、実は結構前に五月さんがこっそり章さんに電話かけてるのを偶然見ちゃってさ。本当あのときは驚いて叫びそうになるところだった」
「覗きか」
「違うって、本当にただの偶然だから。それに旦那も知っていたし」
「え? 礼司さんも知っていたのか?」
「いつだったか五月さんが意を決したみたいな顔で旦那に相談しているのをこっそり見たんだよ」
「……やっぱり覗きじゃないか」
こいつは本当に昔から興味を引かれると首を突っ込みたがる性質だった。こんな奴に聞かれていたと五月さんが知ったら恥ずかしさで悶死しそうだな。
しかし、礼司さんも知っていたということは――。
居間で章さんが言っていた礼司さんと逢った目的である“個人的な相談”というフレーズが脳裏に蘇る。もしかしてこのことを相談するためだったのか?
「辰馬さんは知っているのか? 二人のことは」
登は首を振って答えた。
「知ってるわけないだろ。あの人がどっか余所の良い御嬢さん見繕うつもりなの皆知ってるし、言えるわけないって」
だろうな。辰馬さんが知ったら絶対反対するに決まってる。
「章さんもそれがわかってるから、口出しされないだけの実績作りたいんだろ。当主補佐に前向きなのもそれが理由。まあ、それだけってわけでもないと思うけど」
「ひょっとして当主補佐になればこの家に出入りする機会が増えるからか?」
「そう、何の問題もなく五月さんと堂々と逢える」
何というか……見上げた根性だ。原動力が愛の力とは。
「それにしても五月さんが……ここに帰ってきて何も変わっていないと思ったが、そうでもなかったのか」
「そんなの当たり前だろ」
登は珍しく神妙な表情をしている。
「ほんの少しの時間でも過ごした分だけいろいろと人生刻まれるもんさ。一年なんて思ってる以上に厚いぜ? それだけあれば人の関係なんて変化するには充分だって」
「……お前にしては深いこと言うな」
「うるせえ」
登はコップに残ったジュースを一気に飲み干した。
章さんが補佐を目指す理由がそんなものだとは知らなかった。それならば五月さんは彼が選ばれることを望んでいるのだろうか。少なくとも俺と顔を合わせたときにそんな素振りは微塵も見せなかった。
俺は登の言葉を反芻する。
変化か――。
たった一年では大して変わることはないと考えていたが、そうでもないようだ。俺がいない間に起きた変化は想像以上に皆に様々な思惑と感情を与えた。
紫の失踪も、礼司さんの死も、沙緒里さんの再婚も、五月さんと章さんの想いも、どれもが少しずつ俺たちの関係を変えていく。
もし、俺が裏切り者の正体を突き止めたとしたら、彩乃と自治派の問題が片付いたら、俺が当主補佐に就いたら――そのときどんな変化がもたらされるのだろう。
その結果は俺たちを良い方向へと導くのだろうか。
登と別れた頃には日付が変わる直前だった。今夜はこのまま寝たほうが良いだろう。まずは明日どれだけ調査を進められるか、招待された人たちが帰るまでに何らかの手掛かりを掴みたいところだ。
二階の廊下も灯りが等間隔に点々と点いていて、暗闇の中に壁と天井の輪郭が映し出されている。電灯の一つは俺の部屋の前を照らしているので、辿り着くには不自由しない。
部屋の前までやって来たとき、ふと足元に視線を落とし――俺はドアノブに伸ばした手を止めた。
灯りに照らされた扉と床の隙間に白い何かが挟まっていることに気づいた。
封筒だ。
俺はその封筒を手に取って裏表を見てみた。封筒は新品らしく汚れは全くついていない。差出人の名は書いていないが、宛名として『最上由貴様』と書かれていた。
誰だ、こんなもの置いていったのは?
疑問を浮かべながら俺は部屋へと入る。ベッドに腰掛けて封筒を開けてみると、中に入っていたのは一枚の紙だった。便箋ではなくコピー用紙か何かで、印刷された文字が無機質に並んでいた。
できるだけ早くこの家を出て、御影と関わることなく一人で生きなさい。
この家に居続けることはあなたのためにならない。
あなたの幸福のためにも、それが最善の道だ。
書かれていた内容はたったそれだけだった。
「これは――」
思わず声が漏れそうになるのを咄嗟に抑え込んだ。自分しかいない部屋の中で誰にも聞かれないように警戒を強める。念のため廊下に人の気配がないことを確認してから、もう一度文面を読み直す。三行しかない文章を時間をかけて読んで、内容を咀嚼するために数秒間思考する。
それから改めて心の内で感想を述べた。
これは何だ――?
たった三行しかない内容は至ってシンプルだ。手紙の主は俺にこの屋敷から出て行けと促している。それが俺にとって最善であると。
果たしてこれは何の意図があって書かれたのだろう。俺に家を出るべきと進言しているのか、それとも出て行けと脅しているのか。従わない場合のことが何も書かれていないのも不審を煽る。
これは警告文か、脅迫状か現段階では断定できない。ただ一つ言えるのは、差出人は自分の素性を知られたくないと思っていて、わざわざこんな面倒な真似をしたということだけ。これを出した目的はわからないが、決して穏やかな理由でないことは明瞭だ。
一階へ降りるときにはまだ封筒は差し込まれていなかった。差し込まれたのは俺が部屋を出た後だ。時間的には誰にでも可能だったといえる。封筒と手紙を調べても指紋を含めて手掛かりが残っている可能性は低いだろうが、後々のことを考えてきちんと保管しておくべきだろう。
――本当にここに集まった連中は俺を暇にしてくれないらしい。
かくして俺の帰還二日目は正体不明の人物からメッセージが届けられるという展開で幕を閉じた。
このとき、俺も含めて多くの者がこれが平穏に過ごせる最後の夜だと知らなかった。
迎える三日目は運命の分岐点ともいえる重大な日。
この日多数の運命が大きく左右されることになるのを、俺はまだ知る由もなかった。
それを予感できるのは隠れた殺人者ただ一人だった。