異変
俺は話の途中から一言も発することなく口を開けたままだった。
「こうして私は浅賀から頼まれた仕事を終えました。それから蓮さんの葬儀が執り行われ……四日後、私は約束どおり章さんに関する証拠を受け取りました」
五月さんは話し終えた後も何の反応も返すことができず、ただ突っ立っていることしかできなかった。
遺体をすり替える話が出てきた辺りからこうだ。
「ええと、そうだな。その時の密会を沙緒里さんの部下に監視されていたのは気づかなかったのか?」
固まっている俺の代わりに雫が訊ねる。
彼女も俺と同様に茫然としていたが復帰が早かった。
「いいえ、人形に周囲を警戒させていたはずですが……一体どうやって見張っていたのかさっぱりです」
「その密会で他に何か変わったことは無かったのか?」
「絶対に口外しないように改めて言い含められたくらいです。他には特に……」
「――待ってくれ」
ようやく我に返った俺は慌てて遮った。
「遺体を偽造するのを手伝っただと? じゃあ、あれは――葬儀の時に棺に入っていたのは?」
「……偽物の方です。本物の遺体は浅賀たちが回収しました」
頭がくらくらした。
偽物? あれが?
棺に収まった親友の白い肌。火葬の後に残された骨の欠片。
あれらが全てフェイクだったと?
「五月さん、何故奴等はそんなことを……」
俺の疑問に返ってきた答えは否定だった。
「わかりません、浅賀もそれだけは教えてくれませんでした。ただ、蓮さんの遺体を手に入れたいとだけ」
何がどうなっている。
暴かれた真実は俺を思考の迷路へと突き落とす。あまりにも唐突で、理解の追いつかない内容に考えが纏まらない。
掴んだ細い糸を手繰り寄せようとしたら、強く引っ張り過ぎて切れてしまったような感覚だった。
次にどこへ手を伸ばせばいいのかわからない。
「由貴くん」
はっとして隣に顔を向けると、紅い瞳が冷静に俺を見つめていた。
「とりあえず凪砂さんにも伝えよう。これからのことも話し合わなければならない」
「……そう、だな」
その言葉を機に、俺の昂ぶりは徐々に鎮まっていった。
らしくない。こういうとき一番冷静になるべき立場にいるのは俺だ。それが女の子一人に諭されるようではまだまだだ。
混乱から抜け出すことが難しいときこそ思考力と判断力を損なってはいけない。
そんな場面こそ現況の把握に努めるのが最善だ。
一旦肩の力を抜く。息を吐くと共に胸の奥が冷えていくような気がした。
「大丈夫だ、少しだけ落ち着いた。ありがとう雫」
「礼には及ばない」
俺はもう一度息を吐いて集中を取り戻す。
「五月さん、話してくれてありがとう」
「いえ……私は由貴さんが大変な時に陰で信用を裏切る行いをしていたんです。責められこそすれ感謝されることは……」
五月さんはまだ顔が蒼い。
声に力が無くぼそぼそと呟いている感じだ。
「責めるというのは何に対してだ? 章さんの不正を隠蔽したこと? それとも蓮の遺体を盗むのに協力したこと?」
「それは……」
五月さんの言葉はそこで詰まってしまう。その顔には違和感を覚えたような怪訝さがあった。
俺の指摘を受けて何かに気づいたようだ。
この様子を見るにやはり自覚がなかったのだろう。
「きつい言い方になるが許してくれ。多分、五月さんが感じている罪悪感ってのは俺に対してではないんだと思う」
「え……?」
五月さんは呆気にとられた顔で俺を見る。
「五月さんはこの一年半、秘密を抱えて暮らしてきた。その間ずっと俺に対して気まずい思いを抱いていたのか? 俺が帰ってきた時に温かく迎えてくれたが、心の中ではずっと謝罪していたのか?」
「……それは、どうかと言われれば違います」
そう、彼女は俺への後ろめたさを感じていたが、それは直接の理由ではない。
その根本にある、彼女の大きな歪みは――。
「だろうな。五月さんの罪悪感の源は、秘密を暴かれて全部台無しになったことへの嘆きだ」
それが俺の導き出した回答だ。
「嘆きとはどういう意味だ?」
「五月さんはきっと……うまくいけば誰も困らない、という安易な考えに乗ってしまったんだ」
俺の言う意味がわからず訊ねてくる雫に、俺は説明を始める。
「浅賀に協力すれば章さんが漏洩に関与した事実は闇に葬られる。蓮の遺体を盗んでも偽物を用意しておけば誰も悲しむことも憤ることもない。蓮自身の名誉は既に死んでいる以上優先順位は下がるし、何より死者は抗議することもない。浅賀たちの言葉を信じるなら奴等が今後何か手出ししてくることはないから、『同盟』が被害を受けることもない。全部望んだとおりの結果が得られれば、誰も何も知らないまま平穏に生きていけたはずだった」
一つずつ例を挙げるたびに五月さんの顔色は一層悪くなっていく。
僅かな良心が引き留めるのを振り切り、俺は話を続けた。
「誰も困らなければ問題は起きない。それで辻褄は合う。ならそれでいいじゃないか? 五月さんはそう考えたんだ」
その判断を卑しいとは言うまい。
それはふとした時に訪れる合理性の悪魔だ。信頼に背いた相手への“配慮”という形で不実な振る舞いを覆い隠す。己の根底にある善良さを肯定する材料を欲しがったが故だ。
一言で言えば、五月さんは自らの行いから逃げたかったのだ。
「だが、章さんの秘密は暴かれ、努力は水の泡になった。偽ってきたものが晒されて、こうやって皆を戸惑わせている。だから――五月さんは自分を正当化できなくなった」
故に、五月さんの謝罪は罪を犯したことを詫びているのではない。
真実を隠し通せなかったことを詫びているのだ。
全部知られてしまった。
皆が怒っている。辛い思いをしている。
そんなつもりではなかったのに。ただ、皆にとって都合よく事を運びたかっただけなのだ。
自分の失敗のせいで何もかも崩れ去った。
こんな状況にさせてしまって申し訳ない。
五月さんの罪悪感は、この結果を生じさせたことへの後悔に起因している。
特定の個人あるいは集団へ向けたものではない。
人はそれを自己欺瞞と呼ぶだろう。
「……悲しむ人がいなければ罪にはならない、と? それはあまり褒められた考えとは言えないが……」
「だが、五月さんはそう考えた。それに彼女には元々そういった思考に至る素地がある」
五月さんが母親の過去について内心引け目を感じているのは皆知っている。
元刺客の娘というレッテルで幼少の頃から非難されたため、彼女は信用を得るべくこの家の使用人として研鑚を重ねた。
そんな自分を評価してくれた御影家、特に礼司さんへの恩義は絶大だ。
だからこそ、五月さんはこの居場所が崩壊することを恐れていた。
そこへ章さんとの交際関係を持ち出すとどうなるか。
御影家への恩義と章さんへの思慕。
この二つの感情が綯い交ぜになった結果、錯覚が発生する。
御影家の一員たる章さんを守ることは、御影家への恩に報いることと同じだと。
論理の誤謬だ。
五月さんは章さんに対しては何の恩もない。あるのは恋人としての愛情だ。それを理由に章さんを庇うことは許されない。
それを御影家への報恩という皮を被ることで誤魔化した。これは当然に行うべきものであると言い聞かせたのだ。
「……」
五月さんは押し黙る。否定する言葉が見つからないという顔だ。
五月さんの精神の歪さは日常生活の中で露呈することはまずない。だから、これまで薄々気づいていた俺も殊更指摘することもなかった。
だが、もし――以前に指摘していれば、浅賀から話を持ちかけられた時に踏みとどまった未来もあり得たかもしれない。
親しい間柄だと遠慮した結果がこれだ。
「それは……やはり欺瞞だと思うな」
雫がぽつりと呟いた。
「ああ、そうだ。それは許されてはならない」
ここで向き合わなければ五月さんは元には戻れない。
そうなればもうこの家にはいられないのだ。
これが最初で最後のチャンスである。
五月さんは沈黙を保っていたが、やがて一言だけ零した。
「そう、ですね」
彼女の顔は何か悟ったような、あるいは重荷を下したように穏やかだった。それとも疲れ切ったと言えばいいだろうか。
「由貴さんの言うとおりだと思います。私は望んでいた環境が変わってしまうことが恐かったんです。それを皆さんのためだという建前で誤魔化した……ええ、言われて初めて自覚しました。そんな身勝手な考えを持っていただなんて」
「悪い要素が悪い形で噛み合ってしまった結果だ。仕方がないとはとても言えないが……」
決して悪意は無かった。
あったのは、弱さと情愛だ。
「章さんは辰馬さんに全部打ち明けに行った。恐らく明朝にでも辰馬さんを交えて話し合うことになるだろう。今夜はもう休んだ方がいい」
それから俺は決まりの悪さを払拭するように付け足した。
「……章さんは償った上でやり直すつもりだと思う。五月さんには彼を支えてやってほしい」
「……迷惑ではないでしょうか?」
「まさか、逆に五月さんを巻き込んだことを後悔していたくらいだ。怒鳴ったのを気にしていたから一声かけてやってくれないか?」
「そうしてみます。今夜は寝られそうにありませんし……今後のことをじっくり考えてみるのもいいかもしれません」
五月さんの口元にようやく小さな笑みが浮かんだ。
雫を連れて自室へ戻った時、十一時を過ぎていた。
部屋に足を踏み入れた途端、どっと疲れが押し寄せてくる。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
心配してくる雫を手で制して、俺はベッドの上に腰を下ろした。
「やあ、随分と気が滅入っているようだな」
開けられた扉と壁の隙間から凪砂さんが顔を出す。そのまま部屋に入ってきて、俺の隣に座った。
「急な話があるからと呼ばれて駆けつけたみたら随分参っているな。何があったのかな?」
俺は章さんと五月さんとのやり取りを語った。
最初は静かに相槌を打ちながら聴いていた凪砂さんだったが、話が進むにつれて段々と表情が険しくなっていった。
話し終えると彼女は懐からスマホを取り出した。
「蓮の墓から遺骨を採取させよう。詳しく検査すれば偽物だと確証が掴めるかもしれない」
「お願いします」
まずは五月さんの話の裏取りだ。内容が重大すぎるので慎重に捜査を進める必要がある。仮に事実だと確認できても、混乱を避けるため秘密裏に処理される可能性が高い。
「しかし、五月さんの話が本当だとして、一体浅賀の狙いは何なんだ?」
凪砂さんの言うとおりそこが一番の要点だ。
何故、蓮の遺体を奪う必要があったのか。
それに蓮の凶行との関連は? やはりあの事件の背後には浅賀の存在があったのか?
「……一旦これまで得た情報を整理してみるか」
六年前、鷲陽病院で火災が発生し、当時入院していた糸井夏美が失踪した。
この時、彼女の両親を含めて十名が死亡。
事件後から浅賀の様子に不審な点が表われ、治癒能力を抑制する薬の研究を開始した。
これは鷲陽病院のバックについていた鋭月を欺いて始めたものであり、浅賀は何らかの理由で鋭月からの離反を企図したと考えられる。
五年前、鋭月が逮捕され一派が壊滅。
この時を境に浅賀の研究は大きく動き出す。鋭月の監視から逃れられたことにより大胆に行動できるようになったからだ。
だが、三年前から浅賀の仲間だったと思われる立花明人、桐島晴香、九条詩織が相次いで失踪していく。
何が起きたのかはまだはっきりしていない。
一年半前、蓮が寧を暗殺しようとして失敗し、そして死んだ。
この事件の少し前に蓮と浅賀が逢っていた事実を紫が突き止めている。浅賀は鋭月からのメッセージを蓮に伝えたらしく、それ以降蓮の様子に変化が表われたという。
事件後、浅賀は五月さんに取引を持ちかけ、蓮の遺体を奪う計画に協力するよう要請した。
さらに、沙緒里さんは事件の捜査中に二人の関係を知ったがこれを黙殺。その最中に信彦さんとも何らかの取引を交わした。
一年前の春、夏美らしき少女の目撃情報がいくつか挙がり、それを頼りに雫は夏美の捜索を開始した。
この頃、浅賀も表舞台から姿を消している。沙緒里さんによれば里見たち鋭月一派の残党から逃れるためらしい。その後、六月半ばに紫と密会しているのを登が目撃している。
そして八月、紫が置手紙を残して失踪し、礼司さんの元に“猟犬”を名乗る人物から指示書が届く。指示の内容は、『同盟」内部に潜む内通者探しと夏美の捜索への協力。紫と夏美の手掛かりを得るために礼司さんと雫は協力関係を築いた。
そして先月、礼司さんが突然死に、彼から手紙を受け取った俺はここへ帰ってきた。
内通者として疑わしき人たちを集め就任式を開催することになり……そんな中、魔物の群れに屋敷が襲われ、信彦さんが殺害された。
「こうして起きた順に並べてみると、各事件に接点がありそうには見えるな」
「だが、繋がりがはっきりしない。関係“ありそう”止まりだ」
鷲陽病院の火災、寧の暗殺未遂、今回の殺人。
この三つの事件は御影家とその周辺、それに鋭月一派が関係者に名を連ねている。
しかし、現在判明している事実だけでは全容の解明には不充分だ。まだ足りないピースが存在している。
「もどかしいな……全体像が見えそうで見えない。一番大事な箇所が欠けているというか……」
歯噛みする凪砂さんを見ながら、俺は思考する。
一番最初に起きたのが鷲陽病院の火災で、蓮や雫、浅賀といった関係者が後の事件に様々な形で関与している。
「やはり鷲陽病院の火災が全ての発端となっているんじゃないか?」
そうであれば、この事件の真相を解明すれば他の事件の答えも見えてくるはずだ。
その中には蓮の真意も含まれているかもしれない。
何故寧を殺そうとしたのか、何を考えて死を選んだのか。
あの凶行の裏には何が潜んでいるのか?
「あの火災の時に何が起きたのか、それさえわかれば全ての真相が明らかになる。確証はないがそう思うんだ」
「鷲陽病院……結局はそこに行き着くのか」
「ああ、ここが始まりだと思う。ここから全てが始まった。火災が起きた理由、夏美が消えた理由、そこに鍵が隠されている」
知りたい、と強く願った。
雫に真実を打ち明けた後から、俺の心の奥底で燻っていた感情に再び火が点きはじめていた。
目を背けていた過去と謎。
それが今になって俺の前に立ち塞がっている。
もう拒絶するわけにはいかない。進むしかないのだ。
そして、この壁を越えた先に、あいつが何を考えていたのか、その答えが存在するなら――。
「ん……」
そう思った瞬間、急に瞼が重くなった。同時に右の側頭部に痛みが走る。上半身がふらつきそうになり、慌てて背筋を伸ばして耐えた。
「どうしたんだ由貴くん?」
「いや、頭痛が……」
じんじんと鈍く痛む頭を抑え、俺は答えた。
だが、声を発すると喉の奥が苦味で溢れる。頭を押さえていた右手で咄嗟に口元を覆った。
「由貴? 様子が変だぞ」
「……由貴くん?」
胃の中の物が逆流する感覚に見舞われ、俺は大きく咳き込んだ。口の中に気色悪さが充満する。床を汚さないようにティッシュで吐瀉物が手の端から漏れるのを防いだ。
「大丈夫か!」
「しっかりしろ! どうしたんだ突然!」
二人が崩れ落ちそうになる俺の身体を支えてくれる。雫の手が背中を優しく撫でたが、気分はより一層悪くなる。
今朝から妙に体調が優れないとは感じていた。
それは事件発生以降からあちこち動き回って疲れが溜まっている所為だと判断した。仮眠をとる前に身体がふらついていたのも、それが原因だと思っていた。
だが――これは流石におかしくないか?
目を開けることすら辛くなり、視界が真っ黒に塗り潰される。
もう自分の意思で立つこともできない。
俺は二人に全体重を預けて、全身の力を抜いた。
そのまま俺の意識は脳が回転するような不快感の中に消えていった。