天野五月の告白 ‐前編‐
五月さんの部屋へ向かう中、俺の足取りは章さんと違って重かった。
出来の良い人と評判だった章さんの意外な失態。御影家が大きな衝撃を受けることは不可避だ。次期当主の寧に対する評価の眼も厳しくなる。
彼を追及したこと自体は後悔していないが、寧を取り巻く状況が悪化したのはどことなく後ろめたさを覚える。
階段を一段ずつ降りると同時に全身に気怠さが圧し掛かる。仮眠をとって晴れた思考はまた曇り始めていた。
このまま五月さんの部屋へ行くのは止めようかという囁きが頭の中に響く。
五月さんは俺がここに住み始めてから八年もの間一緒に暮らしてきた仲だ。彼女の過ちを突きつけると言うのは正直気が進まない。辰馬さんや章さんを責めるのとはわけが違うのだ。
だが、ここにきて見過ごすと言う選択肢はない。
俺は深呼吸してから五月さんの部屋の扉をノックした。
中で誰かが立ち上がるような音がした後、扉が開かれる。
「由貴くん、遅かったが大丈夫か?」
雫が心配そうな顔で俺を出迎える。彼女の肩越しに怯えた様子の五月さんが椅子に座って縮こまっていのが見えた。
「こちらは何とかなった。まあ、その……うまくいった、というには語弊があるんだが……」
「面倒そうな話なら後でゆっくりしよう、凪砂さんも交えてな」
部屋の中へ入り、五月さんと向き合う位置に立つ。
「さて、五月さん」
低い声で一言声をかけると、五月さんはわかりやすいくらい身体をびくりと跳ねさせた。これほどまで動揺した彼女を見るのは初めてだ。その小動物のような姿を目にしてほんの僅かに気の毒だと思う感情が芽生えたが、それをなんとか押し殺した。
「章さんから話は聴いた。彼が隠していた秘密を全部な」
敢えて直接言葉にせず曖昧に濁したことに必要性はない。
ただ、恋人の不始末を改めて突きつけて余計に怯えさせるのが嫌だった。
「そう、ですか」
五月さんは鼻を啜りながら答える。
「彼は何らかの処分を受けるだろう。それはどうか受け止めてほしい」
「……」
彼女の反応を少し不思議に思った。
怯えた様子の割には、恋人の秘密を知られたことへの動揺じゃあまり見られない。
「ここに連れてきてから少し話をしたのだ。五月さんと浅賀の関係を由貴くんが既に知っていることや、その理由を探っていること等は全て明かした。それを聴いてから絶望したように消沈していた」
俺の考えていることを感じ取ったらしい雫が耳打ちしてきた。
つまり今は半ば諦めの境地にあったということらしい。
ということは、五月さんが怯えている理由は別にあるのだろう。
罪悪感。
一年半前の事件で俺は心に傷を負い、この屋敷を出た。その裏で五月さんは密かに浅賀と取引を交わしていた。
取引のタイミング、登が目撃したという紫と浅賀の会話からして、蓮の事件と関係しているのはほぼ違いない。
どんな役割を担ったにせよ、それは当事者である俺への裏切りと見做されても反論はできない。五月さんは俺がそれを糾弾するために来たと恐れているのだ。
無理もない。五月さんは母親の一件でただでさえ警戒される立ち位置にいるのだ。
かつて礼司さんの暗殺を企んだ刺客の娘。
それが対立派のメンバーと取引をしたとなれば、彼女は無傷では済まない。章さんとの仲も引き裂かれることになるだろう。
そして、困ったことに、俺はそれを自業自得の一語で片づけられる程単純な性分ではない。
まったく、何と言えばいいのか。
「五月さん、最初に一つ言わせてくれ」
五月さんは上目遣いで俺の顔を見つめてくる。次にどんな言葉が来るか予想できず反応に困っているようだ。
「あなたが章さんのことをどれだけ想っているのかは想像できん。彼との関係もここへ帰ってきた後、登に教えてもらったばかりだからな。だが、彼のために危ない橋を渡るくらいには愛しているんだろう」
「それは……」
「その感情は何も恥じる必要はないんだ。誤った行為に及んだとしても、原因を一緒くたに非難するつもりはない。恥じるべき点は他にある。それを見誤らないでくれ」
非難するべき点とそうでない点を区別するのは大切である。俺のような感情を糧とする能力の持主にとっては特にそうだ。
他人の感情を理解しやすい能力というのは、どうしてもその人物への同情心を抱くことに繋がってしまう。これが中々に厄介なのだ。相手の内心に踏み込んでしまうあまり逆に自分が取り込まれそうになることもしばしばある。敵を探っていたはずがその敵に共感してしまい手を出せなくなる、などという事例は珍しくないのだ。
それ故に、感情に関係する能力を保有する者は“線引き”を必要とする。
即ち、感情を切り捨てて判断するラインだ。
その基準は人それぞれであり、俺の場合は“感情そのものは尊重しつつ、行き過ぎた行為は処罰する”という具合だ。無論、酌量の余地は多少持たせているが。
「……こんなことを言うのは甘いと重々承知しているが、俺は五月さんを何とか助けてやりたいと思っている」
「助ける? 私を、ですか?」
「おかしいか?」
「だって……私は由貴さんが一番大変な時に……」
俺は首を振った。
「あなたは俺に悪意を持っていたわけではなかった。今はその事実だけで充分だ」
「……!」
五月さんは罪の意識に押し潰されそうに苦しい表情を浮かべた。
厳しい言葉を浴びせられるより刺さったのかもしれない。そうであるなら、これがささやかな罰になればいいと思った。
「それじゃあ最初に改めて確認しておこう。五月さんは章さんを守ろうとして浅賀善則との取引に応じたんだな?」
「……はい」
「その時のことを話してほしい」
俺は五月さんの傍に寄り、不安に揺れる彼女の瞳を覗き込んだ。
「五月さんと章さんの立場を可能な限り守るにはこれしかない。五月さんの証言は大きな手掛かりになる」
真摯な反省を見せて捜査に協力したならある程度罪は軽減される。
彼女の証言で大きく捜査が進展すれば、その希望も大きくなるだろう。
「まずはそうだな……何から訊こうか」
「やはり浅賀と初めて接触した時期ではないか? どういう経緯で知り合ったのかが一番気になる」
雫が小さく手を挙げて提案する。
「そうだな、そこから始めるのがいい」
視線で促すと、五月さんは困った顔をした。
「……ええと、話すのは構わないんですが、その」
五月さんは雫の様子をちらりと窺う。
雫はその意味を察したのか五月さんの背中を優しく撫でる。
「蓮くんのことならもう知っている。由貴くんが全て打ち明けてくれた」
「……そうだったんですか」
「あなたの行いが蓮くんの死と関係しているのは予想できている。あの事件の時に何かあったのかそれが知りたいのだ、頼む」
「ちょっと……頭を上げてください!」
頭を下げた雫に五月さんは慌てだす。
「雫さんが頭を下げる必要なんてありません。私の方こそ……」
顔を上げた雫と五月さんはしばらく見つめ合った。
懇願する紅い瞳と当惑する瞳が交差する。
やがて、五月さんは意を決したように頷いた。
「……あの男と初めて逢ったのは蓮さんが亡くなった翌日のことです。寧お嬢様をお見舞いするために病院へ行った時に出逢ったんです」