御影章の告白
「もう三年くらい前になるかな。『同盟』の内部資料が防衛自治派に漏洩したって事件が起きたんだ。憶えてるか?」
「内部資料の漏洩……」
ほんのつい最近聞いた覚えのある話だ。
具体的には今日の昼間。
「それってフリーのジャーナリストにすっぱ抜かれたっていう……」
「ああ、週刊誌に掲載されて騒ぎになったやつだ。うちの支部で起きた事件だよ」
俺の脳裏に加治佐牡丹の油断できない笑みが浮かんだ。彼女がこの場にいたら自分の話題に喜んだことだろう。
「あの事件の顛末は知っているか?」
「そうだな……確か職員の一人が血統種排斥運動を行っている人物のリストを防衛自治派に渡して多額の金銭を受け取っていたっていう話だった。それが発覚した後、当の職員を事情聴取しようとしたが――」
「できなかった。事情聴取の直前に自殺したからだ」
そう、事実が明るみになった後、問題の職員は自ら命を絶ってしまった。
調査チームが身柄を拘束するため職員の自宅に向かったところ、彼は自室のベッドの上で冷たくなっていたのだ。
「その職員っていうのは俺の友人だった。大学時代からの付き合いで、あいつの家に遊びに行ったこともある」
「そうだったのか? あの事件が起きた頃にはそんな話は聞かなかったが……」
「何て言えばいいかな……口にすると昔のことを思い出して辛くなるからさ」
章さんは寂しい笑みを浮かべた。
ひょっとすると二人は俺と蓮のような間柄だったのかもしれない。
「しかし、一体その事件と取引とにどんな繋がりがあるんだ?」
「五月が取引に応じたのは……その漏洩事件の“秘密”を守るためだったんだ」
「……何だと?」
あの事件は一応解決したことになっているはずだ。資料の行方等に不明な点はあれど、犯人は明らかになったし解明されていない謎も残されていない。
「……実は、俺はあいつが資料を持ち出したことを事前に知っていて黙っていた」
「章さん、もし冗談ならそうだと言ってくれ。その話が本当なら庇いようがない」
「……残念ながら真実だ。失望したか?」
章さんは自嘲する。
俺は苛立ちを抑えきれず頭をがしがしと掻く。
どうして帰ってきてからこうも次々に問題が発覚するのか。皆胸に秘めているものが多すぎだ。
「……それはつまり、あれか? 章さんも漏洩の共犯だったっていうのか?」
「ああ、漏洩に気づいた後でそれを報告せずに見逃したんだ」
事後従犯か。
最初から手を貸していたわけではないなら、何故見逃そうと思ったのかが問題となる。そのあたりが重要なのだろう。
「そうだな、最初に一つ言わせてくれ。あんた自分も情報を握り潰しておきながら、その口で沙緒里さんを責めたのか? 流石に恥知らずというほかないぞ」
「わかってる……自覚はあるんだ」
辰馬さんは一応内密に調査しているという体裁を保っていたというのに、可愛がっている息子が不正に協力したと知ったらどんな顔をするのやら。
「……それで、章さんはその職員が友人だったから告発するのが億劫だったのか?」
「それもある。でも一番の理由は……あいつを問い詰めて、理由を知ったからだ」
章さんは唾を呑み込んで、若干声を上ずらせた。
「あいつは防衛自治派の派閥の一つと取引をしていたんだけど、向こうは資料を渡す見返りに対立派の情報――鋭月の手下が潜伏している場所を教えると言ってきたらしいんだ」
「何だと……確かなのか」
「ああ」
鋭月の手下を捕らえるチャンスと引き換えに情報を売る。
事実であれば無視できない話だ。
里見修輔たち鋭月一派の残党は国内や海外の各地に散らばっており、これまで時間をかけて捕縛している。
既に大半は確保しているがまだ予断を許さない状況だ。特に監獄に収容されている鋭月を奪還する動きには最大の警戒を必要だ。
そんな現状において鋭月一派の潜伏場所は有力な情報だ。これを得た防衛自治派がその提供の見返りとして『同盟』の情報を要求した。
成程、話の流れは理解できる。
だが、それだけでは納得できない部分が残っている。
『同盟』が情報収集のために犯罪に関与した者と司法取引を交わすことは珍しくない。現代の科学捜査を翻弄することの多い血統種犯罪の捜査は、関係者の告発を頼りにしている面が大きいからだ。
それ故に『同盟』は告発者の保護制度に注力している。
告発者の個人情報保護、新たな身分の作成、セキュリティ設備の整った新居の提供等。
蓮とその母親がこの街に移住してきたのもその一つだ。
ここで血統種犯罪以外の犯罪行為に対する司法取引について問題が生ずる。
防衛自治派による反対運動が過激さを昂じた結果、何らかの犯罪を引き起こした場合に『同盟』に捜査権はあるか否かという点だ。
判例や通説では肯定される。「血統種が起こした犯罪」のみならず「血統種の社会活動及び社会的身分に密接に関わる犯罪」は原則として『同盟』が捜査可能という結論だ。
仮に、章さんの話に出てきた防衛自治派が己の安全のために内部情報を要求してきたとしたら、それは『同盟』の司法取引の範疇に収まるはずだ。つまり、普通に考えれば上司に報告する。
それなのに何故その職員は独断で取引に応じようとして、資料まで持ち出したのか?
「だったらその情報を上に報告して司法取引を持ちかければ済んだろう? あんたが見逃す理由にはならん」
その訳を訊いた途端、章さんは顔色を蒼くさせた。
言いにくい理由のようだ。
彼は少しの間逡巡するように瞳を伏せ、ゆっくりと語りだした。
「……俺たちで捕らえて手柄にしたかったんだ」
「手柄?」
「上層部に報告して司法取引したとしても直接俺の手柄になるわけじゃない。相手側との交渉だって他の人員に任せるだろうから……だけど、俺たちの手で成果を上げれば、それも手配中の鋭月一派を捕らえたとなれば……」
章さんはそこで一旦言葉を切る。それから弱弱しい調子で続きを言った。
「……誰にでも誇れる功績だったら、『同盟』での地位も固められて、いずれ五月との交際も認めてもらえると、そう考えて……」
この時、周囲から見れば俺は凄まじく呆れた表情をしていたに違いない。
何ということはない、痴態の原因は色恋沙汰だったのだ。男が自分の我儘を通したいがために出世を目指した。そうして躍起になって目の前にぶら下げられた餌に食いついたのだ。
その結果がこれだ。
ああ、そうだ。登に教えてもらったではないか。
章さんは五月さんとの交際を認めてもらうために当主補佐を狙っていると。
これも同じ目的でやらかしたのだ。
「章さん」
「……何かな」
「済まない、先に謝っておく」
俺はそう言って大きく息を吸い込んでから――章さんを思い切り殴り飛ばした。
無抵抗で受けた彼の身体が大きく後ろへ飛んでいく。床に転がった後椅子とぶつかり、椅子が派手な音を立てて倒れた。
章さんは息を切らしたように呼吸が荒い。見れば唇の端が切れて紅く血が滲んでいた。殴った頬は腫れており、端麗な顔立ちを損ねている。
「とりあえず今はこれだけだ。後でじっくり話し合う必要はあるがな」
「……いや、一発で済むなら逆に礼を言いたいくらいだよ」
「優先順位の問題だ、感謝されるいわれはない」
章さんは立ち上がると唇の血を取りだしたハンカチで拭った。頬の痛みに顔を歪めているが、思っていたより平気そうだ。殴った俺が心配するのも変な話であるが。
「それで、だ。実際には鋭月の手下を捕まえたなんて話は無いから、結局その計画は皮算用のまま終わったってことなんだな?」
「今思えば本当に馬鹿なことをした。浮かれていてつまらない失敗を犯すなんて」
その手下の潜伏場所を突き止めた章さんたちは、しばらくの間そこの監視を続けていたという。
最初は順調だった。交渉相手が告げた手下とは別に複数の仲間がいることも確認し、アジト内部の見取り図、周囲の環境等の情報も入手した上で、これならいけると判断した。
その後、彼らは自分たちの力でアジトを発見したことにして、上層部に突入の計画を持ちかけるつもりでいたが――。
「その矢先に漏洩が明るみに出たのか」
当然ながら章さんたちは泡を食った。彼らは一旦計画を中止して、自分たちが漏洩に関与した痕跡を消去することに専念した。
その判断は裏目に出た。
マークしていた鋭月の手下は章さんたちが奔走している間にアジトから姿を消してしまった。
そして、章さんの友人が資料を漏洩させたことも知られてしまうという顛末になったというわけだ。
「その交渉相手はどうなった? 確か俺の記憶では……」
「漏洩発覚後に行方知れずになったんだ」
『同盟』は加治佐の記事を受けて、迅速な調査を開始した。問題の防衛自治派グループを洗い、行方不明になったその人物を見つけ出そうとした。
それも空しく交渉相手は煙のように消え、それ以降誰の前にも姿を現さなかった。
「あんたの方で連絡はつかなかったのか?」
「全然、彼の部屋は住んでいた時のままで、何か持ち出された様子もなかった。彼だけが綺麗に消えてなくなったんだ」
「単なる逃亡というには不自然だな」
「だから“彼は口封じに消されたんじゃないか”って噂が立ったくらいだ。彼が所属していたグループのメンバーに事情聴取を行ったが、結果は芳しくなかった。が――」
章さんはそこで目つきを鋭くさせると、声を潜めた。
「わかったことがあった。例の鋭月の手下について彼らは何も知らなかった。かまをかけてみたんだけど全く反応なしだ。恐らくあの話は交渉相手の彼しか知らなかった」
「成程、それなら一つ疑問が浮かぶな。そいつはどこから手下の情報を得たのか――?」
おぼろげながら構図が見えてきた。
防衛自治派が入手した鋭月一派の情報、章さんの失態、五月さんと浅賀の接触。点と点を結べば自ずと仮説が浮かび上がる。
俺の予想が正しければ、この漏洩事件には“彼女”が裏で関わっているはずだ。
「その後のことは知っての通りだ。あいつは自ら命を絶った。責任を問われ、逃げ場を失くして――俺に何も言わずに死んだんだ」
「章さんのことは最後まで隠し通した、というわけだ」
「……俺に気を遣ったんだ、きっと。俺が上に登り詰めるのを期待していたから。だから自分だけで片をつけようとしたんだと思う」
命を絶つほど追い詰められていたのに、友人の立場だけは守ろうとした。
彼はそれだけ章さんに親愛の情を抱いていたのだろう。
何とも言えない話だ。
「でも、さっき五月を問い詰めたらこの話が出てきて……“この秘密を暴露しない代わりに協力を要求された”って言うんだ。まさか俺の知らないところでそんな事態になっていたなんて考えもしなかったんだ」
「火消したつもりが、とんだところに飛び火したようだな」
沙緒里さんも五月さんの内偵をする内にこの秘密に気づいたのだろう。
辰馬さんにこっそり伝えたのは恩を売るつもりだったのか、それはまだはっきりしない。
それは今考えても仕方のないことだ。
「俺の話はこれで全部だ。それで……」
「恐らく上層部に報告したところでこの件を公にはしないだろう。だが内々に処分が下されるはずだ」
御影家の一族といえども大人しく処罰を受けてもらうしかない。公表しないことが最大限の温情だ。
それを理解しているのか章さんも神妙な面持ちで頷いた。
「俺はこれから五月さんと話をしてくる。彼女が浅賀から何を要求されたのかは知っているのか?」
「いや、まだだ。今の話題で口論になって脱線してしまったから……そこまでは訊いてないんだ」
「わかった、そちらは俺に任せてくれ。それから――辰馬さんには自分でちゃんと告白するんだ」
「……ああ、そうだね。決心が鈍るといけないから早速行くとするよ」
俺と章さんは部屋を出て廊下で別れた。
章さんの足取りは一歩一歩しっかりと地を踏みしめるように力強い。せめて父親の前で情けない姿だけは見せたくない意思の表れだろう。
後のことは彼次第だ。