修羅場
俺たち三人は各務先生に十分ほど遅れて居間を後にした。
「それじゃあ二人とも、明日はよろしく!」
事件以降久々に目にした朗らかな笑顔で寧は階段を上がっていく。
これまで動けなかったことで溜まった鬱憤を晴らすつもりのようだ。
苦笑しながら雫と一緒にその背中を見送る。
「随分とまあ見違えるように元気になって……」
「自分にもできることがあると嬉しいのだろう。それに由貴くんと一緒にいられるのもそうではないか? 以前は蓮くんや紫さんと街の巡回をしていたのだろう?」
そう言えば寧と共に何かするのは久々だ。
一人暮らしを始めた後も連絡は取り合っていたが、何かと理由をつけて向こうの誘いは断っていた。
紫がいなくなってからは巡回は人に任せるようになり、寧は当主になるための心構えを身に着けることに集中しだしたという。
こうして誰かと仕事に当るのは気分が乗るのだろう。
「思っていた以上に寂しい思いをさせていたのかもな」
ぽつりと呟いた感傷は自分自身に刺さった。
俺自身もきっと同じものを抱いていたのだ。今までは本心から目を背けて我慢していただけだ。
「……さて、俺たちも部屋に戻るか」
「そ、そうだな」
雫は何故か視線を逸らす。
「どうかしたか?」
「……いや、まだ少し気恥ずかしいというか」
先程真っ直ぐに褒めたことを気にしているらしい。
「……深く考えずに口走ったことだ、気にするな」
「つまり率直な感想なのだな……綺麗というのは」
そう言って雫は両手の指を組んで意味も無く動かす。
「綺麗」という単語に強調する響きがあったのは気のせいだろうか。
だが、これ以上突くと余計に失言してしまいそうなので何も言わないことにした。
話題を変えたい。
「……ああ、そうだ。一つ忘れていた」
「な、何かあったか?」
強引な話の切り替えに雫も乗ってくる。
「先に五月さんの問題を片付けようと思ってな」
「そうか……沙緒里さんの話の裏もとらないとな」
沙緒里さんの言うとおりなら、五月さんは浅賀の仲間というわけでなく単に利用されただけだという。
一体二人がはどんな関係なのか。
彼女が敵でないのであれば証言を得られる望みはある。
五月さんは台所にいるはずだ。
二人で仄かな灯りに照らされた廊下を進んでいく。
「ん?」
台所で俺たちを出迎えたのは五月さんではなく登だった。
缶入りのクッキーを頬張りながらココアを飲んでいる。
「お、どうした。お前も間食か?」
贈呈用の大きいサイズに敷き詰められたクッキーは既に四分の一近くが消えていた。俺の記憶が正しければ開けて間もないはずだが。
「五月さんに用があって来たんだ。まだ起きてると思ったがいないのか?」
「あー、そりゃタイミング悪かったな。ついさっき章さんに呼ばれたんだよ」
章さんの名前を聞いた途端に嫌な予感がした。
章さんは沙緒里さんと口論を繰り広げたばかりだ。その後に五月さんを呼び出したということは――。
「……まずいな。間違いなくさっきの一件が原因だ」
「ひょっとして章さんも五月さんを問い詰めるつもりなのか?」
「恐らくは……探しに行った方がいい。放っておけば話が拗れるかもしれん」
「事情はわからねえけど、なんかヤバい感じになってるみたいだな」
俺たちの不穏な会話に登も何事か感じ取ったらしい。
「章さんの部屋だな、行ってみよう」
俺は雫を連れて二階へ上がると、急いで章さんの部屋に向かった。
嫌な予感は的中した。
沙緒里さんの時と同じように章さんの怒鳴り声が廊下まで届いていた。
「ちっ……案の定か」
「急ごう! 失礼だが勝手に入らせてもらおう」
迷う時間は無い。俺は雫に賛同すると、ノックもせずに部屋の中へ押し入った。
部屋の中で章さんと五月さんが向かい合って立っていた。
章さんは悄然とした顔つきで、五月さんは泣き腫らして目を充血させていた。
「由貴……」
「ゆ、由貴さん?」
五月さんは涙声を引き攣らせている。頬をぼろぼろと流れる涙が絨毯に落ちて染み込む。
「勝手に入って済まない。ただならない事態だと判断したからな」
「……悪いが今は込み入った話をしているんだ。迷惑かけたのは謝るから、二人だけに――」
俺は章さんの言葉を押しとどめた。
「そうはいかない。俺もあんたと同じ用があるんだ」
章さんは唇を噛んだ。
彼は視線を泳がせた後、重々しく口を開いた。
「頼む……後にしてくれないか。ほんの五分だけでいいんだ」
「申し訳ないが聞けない頼みだ。それに五月さんだけじゃなくて章さんとも話がしたくてな。できれば先にお願いしたい」
沙緒里さんは気になることを言っていた。
口論の内容は五月さんの秘密に関するものであるのに、何故かそれが原因で章さんの将来が潰される恐れがあると。
その言葉が意味するところは何だろうか?
「雫、五月さんについてやってくれないか。俺は章さんと二人だけで話がある」
「了解した。五月さん、ほら泣かないで」
五月さんは俺に何か言いたそうだったが、喉を詰まらせたように呻くだけで言葉がうまく出てこない。俺は安心させるように小さく頷いて返す。彼女はそのまま何も言わずに目を伏せ、雫に先導され部屋を出て行った。
俺は章さんと少し距離を開けて対峙する。
「あんなに声を荒げるなんて色男が台無しだぞ。泣かせることはなかったじゃないか」
「興奮のあまり気が回らなかったんだ……泣かせるつもりなんて」
「五月さんが馬鹿な真似をしたことが許せなかったのか?」
「違う!」
章さんは否定した。
「……責めるつもりは無かったんだ。ただ、どうして俺に何も相談しなかったのかと……それが……」
「相談、か」
俺は沙緒里さんとの会談で得た疑問をぶつけることにした。
「それは章さんにも関わりのある話だったからか?」
章さんは露骨に顔を顰めた。
一番痛いところを突かれたようだ。
「沙緒里さんが言っていた、あの件によって章さんの将来が潰されるおそれがあると。章さんは何か知っているのか?」
「それは……」
言葉が途切れたきりそのまま口を閉ざしてしまう。
こうなったら俺が直接指摘するしかない。
「なあ、五月さんはまさか……章さんのために対立派と取引したのか?」
その考えが正しいことは、頭を抱える章さんの仕草でよくわかった。
妙だと思ったのだ。
五月さんと章さんが恋人同士とはいえ、五月さんの仕出かしたトラブルで章さんの経歴に傷がつくのはおかしい。話が飛躍しすぎている。
だが、浅賀との取引が章さんの利益を生むため又は不利益を回避するために行われたのだとしたら――その詳細によっては章さんもただでは済まない。
「冗談はほどほどにしてくれ。ばれたら一大事どころじゃないんだぞ?」
「そうだ……だから相談してほしかったんだ。まさか、俺の知らないところで燃え広がってたなんて知らなかったんだ……」
今にも泣きそうな顔をしている章さんを見て怒る気も失せた。
容姿の良い大人の男性が今は幼い子供のように見える。これはこれで女性が黄色い声を上げそうだなと場違いな感想を抱いた。
俺は一度溜息をついた。
「……まずは全部話してくれ。対応を決めるのはその後だ」