義妹のお願い
警官たちと今後の相談をするため凪砂さんは庭に残り、俺と雫は邸内へと戻った。
「ん……誰か降りてきたのか」
沙緒里さんの部屋に行く時には静かだった居間に人の気配があった。
急いで部屋に戻ることもないので覗いてみると、寧と各務先生がソファに腰かけ、テレビを見ていた。
「ああ……由貴くんか」
各務先生は不安そうな表情を向けてくる。
テレビにはここで起きた事件を取り上げたニュース番組が映し出されている。彩乃が言ったように浅賀善則の家で里見修輔を捕らえた件も既に知れ渡っていた。
「今日のことかなり過激に報じているみたいだよ。“対立派の活動再燃”だって」
「無責任ね、ろくに情報も無い段階から」
寧が冷たい眼差しで画面の向こうにいるコメンテーターを睨む。人間と血統種の対立について研究している大学教授という肩書がついている中年男性だ。俺の記憶では過去にもワイドショーに何度か出演していたはずだ。
「俺たちがあの家から出てきたところを見ていた奴がいたらしい。ネットにも動画がアップされているって聞いたぞ」
「はあ、面倒ね。好きに騒いでくれちゃって。こっちも一応巻き込まれた側なんだから少しくらい配慮してくれないかしら」
「……御影家は取り締まる側でもあるからね。迅速な対応も同時に求められる、という論調になるかもね」
各務先生は気の毒そうに言うとテーブルの上のティーカップを手に取る。
「迅速な対応、か。私が何とかしないといけないのよね、本当は」
寧は空になった自分のティーカップの底を見つめて呟いた。
何とかする、とは次期当主としての責任感からの言葉だ。
「……無理をすることはない。お前はまだ経験が浅いんだ」
「だから黙って指咥えて見てるって性分でもないのよ」
きっぱりと言ってのけた寧は何かを決意したような表情を俺に見せた。
「ねえ、由貴お願いがあるんだけど」
「何だ」
「あなた凪砂の捜査を手伝っているのよね。私も加わらせてくれない?」
ついに来たかと俺は内心呟いた。
寧の性格上俺が事件の捜査に参加しているのを、じっと見守っているだけで済ますわけがない。必ずどこかのタイミングでこういい出すのは予想できていた。
「気持ちはわからないでもないけど……つい昨日怪我をしたばかりだし、主治医としては諸手を挙げて賛成とはいかないかな」
各務先生は頭を振った。
「礼司さんは焦っているときこそ大人しくするべきと考える人だった。方針は人それぞれだけど、僕は責任感だけで動くのは良くないと思うな。気持ちだけじゃ問題は解決しないからね」
「だからこそ由貴の手伝いをしたいのよ。捜査はそれなりに進んでいるんでしょう? 自分勝手に動くよりマシよ」
「……まあな」
この二日で様々な真実が明るみになったのは確かだ。しかし、それらはいずれも鷲陽病院を発端とする事件の情報ばかりで、今回の殺人に関する手がかりは乏しいと言える。それを今ここで明かすわけにはいかず言葉を濁すに留まった。
「それに昨日言っていたでしょう。信彦叔父様を殺した犯人はこの屋敷にいる誰かだって――」
しんと静まり返る中、時計の針が動く音だけが居間に響いた。
「それが私のよく知っている誰かなら、御影家の誰かだとしたら――直に訊きたいの。“どうしてこんな事件を起こしたのか”って。それは絶対に知らないといけないから……そうでないとお姉さまから後を託された意味がないから」
懇願するように見つめてくる義妹からつい目を逸らす。こう言われると断りづらい。次期当主としての務めを果たしたいというのも願望としては納得できるものだ。
寧は焦っているのだ。本来なら自分が率先して行動すべきなのだと。
それなのに、昨日怪我をしてからはしばらく激しい運動は避けるように言いつけられている。きっと今日俺が浅賀の家に出向いた後、歯痒い思いをしただろう。
「……由貴くん、いいのではないか」
珍しく雫が口を挟んでくる。これまでは部外者だからと遠慮しがちだった彼女にしては意外な反応だった。
だが、考えてみれば雫も似たような立場にある。
親友の失踪に隠された真実を追い求め、彼女はずっと戦っていた。細い糸を頼りに独自に調査を重ね、その末に礼司さんと出逢いこの家へ辿り着いた。それ故に共感する部分があるのだろう。
寧を捜査に関わらせれば、礼司さんから託された裏切者の調査も知られる。事件との関連が疑われる以上、避けては通れない問題だ。
しかも彼は次期当主たる娘にこの件を秘匿した。その理由は未だ不明ときている。
寧にこの情報を明かすことで何かデメリットが生じる恐れがある。
それでも――俺を腹を括ることにした。
厄介事ならもう充分すぎるほど抱えている。
全部呑み込んでみせるほどの気概がなければ、そもそも解決など夢のまた夢かもしれないのだ。
礼司さんは手紙で俺に告げていた――“手段は一任する”と。
ならばここは思い切って決断することにしよう。
「一つだけ約束しろ。絶対に一人で勝手に行動しない。必ず俺か凪砂さんに判断を仰げ」
「じゃあ――」
「明日、今日の一件に関連して聞き込みに行く所がある。ついてくるか?」
寧はぱあっと顔を綻ばせて「勿論!」と答えた。
その様子を見た各務先生が苦笑する。
「由貴くんは寧さんに甘いなあ」
「至らない点は俺がカバーすればいい。“一応”当主補佐になる予定ですから」
「へえ」
各務先生は面白そうに瞳を光らせた。
「ここへ帰ってきた時はあまり乗り気じゃなかったように見えたけど……どういった心境の変化かな?」
「いつまでも屈折している暇はないと考えを改めただけですよ」
蓮の事件について雫に打ち明けたのが良かったのだろう。
それがわかっているのか雫も俺を見つめて微笑んでいる。
「すまない、余計な口出しをしてしまって。ただ、どうしても放っておけなかったのだ」
「いいんだ、気持ちはわかる」
謝罪を軽く流し、俺は寧に向き直る。
「詳しい話は明日の朝にしよう。いろいろと説明することが多いからな。今夜はしっかり寝ておけ」
「ええ、由貴こそ。さっきまで休んでいたんでしょう? 結構疲れたんじゃない?」
そう言われるとまた少し眠気が出てきたような気もする。あまり無理して皆に迷惑をかけるわけにもいかない。俺も早めに就寝するとしよう。
「くれぐれも身体には気をつけてね。僕も明日には医院に帰る予定だからね」
「そういえば事件の後からずっと留まっていましたね」
事件後に凪砂さんと一緒に帰って来てから各務先生は一度も医院に顔を出していない。そろそろ向こうの様子が心配になってきた頃だろう。
「ああ、また時間を見てこっちにも来るつもりだから……そうだ、慧くんも明日一度家に帰るらしいね」
「慧が?」
それは初耳だった。
というより今日は慧の顔をほとんど見ていない。朝食の席で顔を合わせただけだ。
「慧くんは確か辰馬さんや章さんと一緒に暮らしていないと言っていたな?」
「そうだ、今は辰馬さんが他に持っている家で暮らしている」
ここを離れるのは若干気がかりだ。慧には昨夜訊ねた一件についてまだ答えを聞いていない。出る前にちゃんと話をしておきたいところだが。
「何か用事を片付けてくるだけで、すぐここに戻るとは聞いているけどね。辰馬さんや隼雄さんも『同盟』の本部に赴くと言っていたし、他の人たちも明日はどこかに出掛けるみたいだよ」
皆バラバラに行動するなら、警官がそれぞれ数名ほど護衛と監視を兼ねてつくだろう。恐らくは凪砂さんの部下から派遣される。
「由貴くんは明日も凪砂さんと雫さんと一緒かな?」
「それから私もね」
寧が気力に溢れた声で付け足す。
「はは、両手に花か。可愛い子たちに囲まれて案外満更でもないんじゃないかな?」
各務先生が冗談めかして言うと、二人の少女は正反対の反応を見せた。
日頃から容姿を褒められている寧は自信ありそうに不敵な笑みを。
それとは正反対に、雫は瞳の色に負けないほどに顔を紅潮させた動揺を。
雫は恥ずかしそうに視線を上下させ、俺と目を合わせたり逸らしたりを繰り返す。
「雫……大丈夫か」
「いや、その……うん、すまない」
何に対して謝っているのかわからないが、雫は若干平静さを取り戻した。あまり容姿を褒められるのに慣れていないのだろうか。
雫は一見しただけでも美しく整った顔立ちをしている。年は俺と同じであるが、少女というより大人らしい美しさの持主だ。それは一番目立つ紅い瞳とは裏腹に澄み渡る青色のような印象を見る者に与える。凪砂さんが“動”とするなら雫は“静”だ。
「へえ、世衣の恥ずかしがる顔なんて初めて見たわ。可愛いじゃない」
寧は物珍しそうに雫の顔を覗き込む。
「いや、可愛いというのは違うような……」
「由貴もそう思うでしょう?」
突然飛んできたボールを受けて、俺は思ったままを答えることにする。
「そうだな……可愛いというよりは綺麗だという表現が似合うと思う」
「――」
雫は一切のリアクションと言葉を失い、棒立ちになった。
「あなた下手に修飾するより端的な言葉で表現した方が良いって思っているんでしょうけど、むしろその方が威力が大きいってことわかっているの?」
寧の呆れた声が浴びせられる。
人の心を知るのは得意でも、適切な語句を選択するのは苦手だ。
「仲が良くて何より。僕からは無茶して怪我をしないようにとだけ言っておくよ」
事の発端となった主治医は他人事のようににこやかな表情で言う。
「……全くもう」
「いいじゃないか。これが青春というやつだよ」
「そういう各務先生にはいつ春が来るのかしら? 先生に首ったけの女性なんていくらでもいるでしょう?」
章さんに負けないほどの美男子である各務先生に入れ込む女性は多い。『同盟』の若い女性からも人気が高く、誰がその心を射止めるか各所で賭けが行われているほどだ。
「……残念だけど僕には来そうにないね」
各務先生は肩をすくめた。
その仕草は本心から残念そうに見える。
「そうかしら? 各務先生なら選り取り見取りじゃないの?」
「そうですよ、浮いた話の一つくらいはあるんじゃないですか?」
そう何気なく質問した直後だった。
先生の顔に暗い影が差したのは。
「……まさか、そんな話は今まで無かったよ。一つもね」
「――?」
ほんの一瞬だけ各務先生の顔から全ての感情が抜け落ちた。
感覚を断ち切り、世界から己を切り離しているかのように。
その一時だけ、彼は停止していた。
「先生?」
それも俺が訝しむのと同時に普段の姿へと戻る。
「……それじゃあ僕は先に失礼するね、皆お休み」
各務先生は俺たちに手を振って居間を出て行った。
後に残された俺たちは釈然としない空気の中で首を傾げるしかなかった。