御影慎と御影彩乃の告白
沙緒里さんと別れて庭に戻った俺は、会談の内容を雫と凪砂さんに伝えた。
「抑制剤の引渡しか……」
凪砂さんは難しそうな顔でうーんと唸る。
「私は部外者だからわからないが……やはり『同盟』は警察より立場が上なのか?」
「こと血統種絡みの問題ではな。元々そのために設立された組織でもあるから」
雫の素朴な疑問に答える。
「一般的な犯罪捜査は警察の血対課が全部仕切るが、テロ等重大な犯罪は『同盟』が指揮を担当する。警察は『同盟』の支配下にあるわけではないが、それらの場合は限定的に上下関係が生まれる」
凪砂さんが後を継いで補足した。
これらはずっと昔に法律で定められた事項である。人間と血統種が正式に友好関係を結んだ後、『同盟』の前身組織が発足した折にその権限について規定する必要があったために規定された。
「だから沙緒里さんの言うように押し通そうと思えば簡単だ。浅賀が対立派であった事実が明白な以上、それを捜査する名目で押収できる」
「……どうします?」
「受け入れるわけにはいかないだろう。目的が不明なのに」
当然の判断だ。このまま主導権を渡すわけにはいかない。
「沙緒里さんは気が向いたらいつでも返事をしていいと。特に急かす様子はありませんでした」
「随分と余裕だな……それほどまでに勝算があるのか?」
あの自信の源がどこにあるのかも謎だ。情報面で完全に後れをとっているのが悔やまれる。
これは俺の落ち度だ。蓮が死んだ後、塞ぎ込まずに事件の真相を追っていればこうはならなかった。紫はずっと一人で追い続けていたのに、俺は何もしなかったのだ。
「しかし……当主補佐を諦めてもいいと思うほどのメリットとは何だ? 沙緒里さんは金や名誉で動く人ではないのだろう?」
「そこなんだよ、あの人を突き動かすほどの動機って何だ?」
雫と凪砂さんが疑問を交し合うのを眺めながら、俺は入手した情報を整理する。
沙緒里さんは蓮の死後から浅賀善則に目をつけていた。奴の研究目的もほぼ把握しており、隠し金庫に保管されていると思われる抑制剤を入手しようとしている。そのために俺を引き入れようとした。
彼女は抑制剤を入手できれば“全てうまくいく”と豪語している。それは彼女のみならず俺にも利のある話だという。具体的には教えてもらえなかったが、その結果紫が見つかるかもしれないとも言った。
そして、この狙いが達せるのであれば慎さんを当主補佐に就ける必要もなくなるらしい。
今思えば辰馬さんに五月さんの件をこっそり教えたのもそれが理由なのだろう。最早沙緒里さんに章さんを追い落とす気は微塵もないのだ。
「……だが、五月さんのことを辰馬さんに伝えたのは俺の進退で揉めている時だったって言っていたよな。ということは、かなり早い段階で情報を掴んでいたのか……」
それならその前後の沙緒里さんの行動を調べれば、情報を手にした経路を辿っていける。
試してみる価値はありそうだ。
「凪砂さん、一つ考えてみたんですが……」
俺は二人に今の推測を語った。
その反応は興味深げだった。
「沙緒里さんの行動を洗うか……取っ掛かりとしては悪くない」
「だが、そう簡単に尻尾を掴ませてくれるような人ではないのだろう? 警戒もしているだろうし……」
それでも完璧に痕跡を消すことは難しい。必ずどこかに糸口はある。
「まずは身近なところから攻めていこう。あの人の普段の言動をよく知る二人から」
俺たちの視線は、魔物たちと戯れる少女とそれを見守る義兄へと向く。
沙緒里さんについて一番よく知るのは彼らだ。
「慎さん、彩乃、少し時間を貰えるか?」
「何だい?」
トリスを抱えた慎さんがやって来る。不思議そうな表情の彩乃がその後に続いた。
「沙緒里さんについて訊きたいことがあるんだ」
「母さんの……ひょっとして部屋で何か言われた?」
慎さんが不安な表情を浮かべる。また母親が何かトラブルを起こしたのではないかと心配しているのだ。
「俺の方はそうでも……ただ、章さんと少し揉めた。良ければ後でフォローしてやってくれ。俺の方でも様子を見ておくから」
それみたことかとばかりに慎さんは溜息を吐く。
「ごめんね、気を回せちゃって。それで訊きたいことって?」
「蓮の事件のことなんだが、あの事件の後で沙織さんの様子に変わったことってなかったか?」
「……蓮の事件? まさか、母さんがあの時に何か……?」
ますます不安に顔を曇らせる慎さんは、おずおずとこちらを窺ってくる。
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、気になったことはないか? 誰かと何か妙な会話を交わしていたとか……」
慎さんは本部勤めではないから母親の仕事内容は詳しく知らないだろう。だが、誰かと接触していたというような話なら知っている可能性がある。一緒に住んでいる息子の慎さんであれば。
「……あの、兄さん」
そこで話を聴いていた彩乃が小さく手を挙げた。
「その事件って一年半前に起きたというあれですよね? その後といえば……」
「あ……」
慎さんは何か重要なことを思い出したように声を上げた。
「信彦さんのこと? でも、あれは……」
「腑に落ちない、という意味ならそうなのです。変なことを口にしていたのも事実なのです」
二人だけで理解できるように話すのを見て、俺たちは一様に首を傾げた。
「心当たりがあるのか?」
「信彦さんの名前が出たが、彼が何か……?」
慎さんは一度彩乃と顔を合わせてから、意を決したように頷いた。
「由貴一つだけ確認させて。母さんのこと知りたいのはどうして?」
真剣な表情で慎さんは質問する。
五月さんの件は辰馬さんから俺と章さんに漏れているので、もう隠し通すこともあるまい。
「……沙緒里さんがな、あの事件の調査報告にあったいくつかの事実を握り潰したんだ。その理由を知りたいんだ。このことは辰馬さんも知っている」
慎さんは、またか、と言うように落ち込んだ様子を見せた。
「なんでまたそんな……」
「それで事件後の沙緒里さんに不審な点が無かったか調べている。気持ちはわかるが手を貸してほしい」
俺が頭を下げて頼むと、慎さんは諦めの境地で頷く。
「いいよ。実はね、皆には今まで言わなかったけど気になっていることがあって……」
「その、お父さんと継母のことなのです」
沙緒里さんと信彦さん?
蓮の事件に信彦さんの名前は出ていなかったはずだ。
いや、そもそも――。
「あの事件が起きた頃って、二人はまだ面識ないんじゃなかったか?」
そう、二人が出会ったのは俺が屋敷を出た後だと聞いている。
信彦さんが勤める研究所の警備を沙緒里さんが担当したのが切欠だったという話だ。
「僕も最初はそうだと思っていたんだけど……そうじゃないらしいんだ」
「そうじゃないって……」
「母さんと信彦さんって蓮の事件の後にはもう知り合っていたみたいなんだ」
慎さんは神妙な顔で言った。
「……慎さん、詳しく訊かせていただけませんか?」
尋問するような口調になりそうなのを抑えて凪砂さんは平静に訊ねた。
「あれは由貴の処遇でゴタゴタしていた時だったかな……用があって本部に行った日があったんだけど、その時に偶然母さんが誰かと電話で話をしている声が聞こえたんだ」
慎さんは当時の状況を語る。
沙緒里さんの声を耳にした彼はその出所を探した。
そして、その姿を見つけるや普段と異なる様子に訝しんだ。
沙緒里さんは珍しく怒気を発していたという。場所が場所だけに冷気が漏れるのを抑えていたようだが、かなり感情が露わになっていた。周囲に他の人の気配が無かったのが幸いだった。
慎さんは母親の様子が気になり、気配を殺して見守ることにした。
彼が有する“天候操作”の派生能力“霧中の虚月”は、自分の身に霧を纏い気配を遮断することに特化した能力。礼司さんや小夜子さんのような手練れであっても看破するのは容易ではない。
ただし、身動きをとれば効果が落ちるため、身を隠すときでないと最大限発揮できないのがネックである。大胆な行動を好まない本人の性格を反映したような能力だ。
沙緒里さんは息子が陰からこっそり見ているのも知らず電話の相手と会話を続けた。
「ねえ片貝さん、その要求はいくらなんでも無遠慮すぎると思わない? 確かに頼んでいるのはこちらよ? でも何事にも限度というものがあるわ」
慎さんが母親の怒りを目にしたのは実父の景之さんが死んだ時以来だった。
一体何にそこまで怒りを覚えているのかと彼は不思議に思い、そのまま様子を見ることにした。
「……ええ、そうね、あなたにしてみれば私に与するリスクを冒す必要なんてないし、万が一に備えて保険をかけたいというのも頷ける話よ。でも、私のテリトリーを侵すのはルール違反。それだけは絶対に許せない」
沙緒里さんの口から出る単語からは話の内容を推測するのは難しかった。
だが、慎さんは電話の相手と何かしらの取引を行っているということだけはどうにか掴み取ったらしい。
沙緒里さんはしばらく黙って相手側の言い分を聴くに徹していたが、その後で渋々といった調子で了承した。
「わかったわ、あくまで外面だけの関係性。それ以上互いのプライベートには踏み込まない。私はあなたの娘に不必要に干渉しないし、あなたも慎には干渉しない。いいわね?」
話題が自分のことにまで波及し、いよいよ慎さんは母親に対して不審を抱くに至った。
彼女は何の話をしているのだ、と。
「……じゃあ、予定はこちらで適当に組んでおくわ。私とあなたはそちらで初めて出逢い、そこで意気投合した。とりあえずそんなところでいいかしら。怪しむ人は出てくるだろうけど、多分探ろうとまでは思わないでしょう。念のために警戒だけは忘れずにね。あなたも監視されているだろうから」
そこで会話は終了した。
慎さんは沙緒里さんがその場を去るのを待ってから能力を解除し、自分もすぐに立ち去ったという。
彼はこの時その会話の意味を正確に把握できていなかった。母親に直接訊くのもまずいと考え、密かに動向を探ることにした。
それから俺の追放が決定され、春が訪れ、そして沙緒里さんと信彦さんの婚約が決まった。
婚約までの経緯を知った慎さんは「これだ」と確信した。あの時、彼女が話していたのはこのことだったのだと。電話で呼んでいた“片貝”という名が信彦さんの旧姓であったという事実もそれを裏付けた。
沙緒里さんと信彦さんはあの事件の後から面識があった。
それを去年初めて出逢ったかのように偽装していたのだ。
語り終えた慎さんは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「母さんに問い質そうか迷ったんだけど、理由がわからないまま無闇に突くのもどうかと思ってそっとしておいたんだ。まあ、彩乃も知っていたんだけどね」
「私もお父さんが時々電話で変な会話をしていたのを知っていたのです」
彩乃が慎さん言葉を引き継ぐ。
「その会話の中で、兄さんと同じように家族の話題や婚約の話が出ていたのでおかしいと思ったのです。私も最初は深入りしようと思わず、兄さんと相談した上で黙っていることに決めたのです」
思いもよらない話だった。
沙緒里さんはあの事件の後にはもう信彦さんに接触していたというのか?
「……どうして沙緒里さんは信彦さんと出逢ったんだろう。それも関係性を偽ってまでして」
「表沙汰にはしたくなかった、ということか」
雫の言うとおり、偽装の理由は本当の接点を隠したかったからに違いない。
では、その接点とは?
「……ありがとう、慎さん、彩乃。参考になった」
「役に立てたのは嬉しいけど……大丈夫なのかい?」
「心配しないでくれ。沙緒里さんには訊きたいことがあるだけだ。悪いようにはしない」
慎さんは安心した表情を浮かべた。
それから屋敷の中へ戻っていく二人に別れを告げ、俺たちは庭に残る。
「なあ、沙緒里さんのこと悪いようにしないと言ったが難しいんじゃないのか? 間違いなく面倒な秘密を抱えているぞ」
「そうなんですけどね、可能な限りなんとかしてやりたいというか……主に慎さんや他の人たちのためですが」
沙緒里さんが何らかの責任を問われるような事態になった際、他の人に迷惑がかかるのは避けたい。特に慎さんが苦労しているのはよく知っているので、彼が傷つくと後味悪くなる。
「うまくいくといいがな……さて、信彦さんのことだがどう思う?」
「意外、という印象ですね。ここに来て初めて逢ったとはいえ裏がある人には見えなかったので」
信彦さんは温和で人当たりが良く、娘との接し方を図りかねていることを気に病んでいる人だった。悪辣さの欠片もなくどこにでもいそうな好ましい人物、それが彼に対する評価だった。
「ずっと以前から沙緒里さんと繋がりがあったのを隠していた、か……再婚にはどんな意図があると思う? 恐らく“要求”や“テリトリーを侵す”といった言葉は、信彦さんの側から再婚を提示したことを意味していると考えられるが」
俺も雫の推測は概ね正しいと考える。沙緒里さんが激怒していたのは家庭という領分に踏み込まれるのを嫌ったからだ。
「信彦さんは御影家と明確な繋がりを持つことを“保険”としたんだ。万が一トラブルが生じた際に、沙緒里さん個人ではなく御影家を頼れるように」
信彦さんは沙緒里さんと何らかの取引を交わした。彼は応じる見返りとして沙緒里さんとの結婚を要求した。
これは沙緒里さんへの牽制も兼ねていたのだろう。一方的に利用されて切り捨てられるのを警戒しての提案だ。
沙緒里さんは当初拒絶していたが、最終的に互いの家族に干渉しない取り決めを交わした上で了承した。そして、二人は仕事で偶然出会ったように装って再婚した。
「沙緒里さんが浅賀を追っていた時期と重なっているのは偶然? 意味がありそうだが信彦さんはずっと『同盟」の研究員で浅賀との接点はないはずだ。一応過去を一通り洗ってみたが鷲陽病院とも関わりはなかった」
浅賀の調査を行っている頃に接触していたなら、その調査の過程で信彦さんに出逢った可能性はある。
だが、肝心の浅賀との接点はない。
「我々の知らないところで二人が出逢ったとも考えられるが根拠に欠けるな」
凪砂さんは参ったように両手を挙げた。
浅賀と信彦さんの接点を示す根拠か。何かあるだろうか。
「二人が出逢った根拠……」
雫が小さく呟いた。
「雫?」
彼女の眼は自らの記憶を覗き込むように虚ろで他の何も映していない。
突然彼女は何か閃いたようにはっとした。
「あるではないか、信彦さんと浅賀の接点」
「え?」
確信に満ちた声色に思わず驚きの声を上げた。
「根拠としては弱いかもしれない。それでも、二人を直接結ばなくとも間接的に結ぶものがある」
間接的な接点?
何かあっただろうか。
「彩乃さんが教えてくれたぞ。彼女はお母さんを里見さんに殺された過去があると。つまり信彦さんは里見さんに恨みを抱いている可能性がある。そして、浅賀は対立派を裏切って里見さんたちと敵対している」
「あ――」
そうだ、そこに接点が生まれるのだ。
共通の敵を持つ者同士という関係が。
「そうか! 浅賀が信彦さんに里見への復讐を持ちかけたとしたら……」
「二人には手を組む理由ができる」
筋は通っているし、ありえそうな話ではある。
「ただ、やはり雫さん自身が言うように根拠としては弱いと言わざるを得ないか」
「そうですね……そこが問題か」
雫もその点は悩ましいようだ。
「第一、同じ敵を持っているだけで『同盟』と対立派が協力し合うってのは無理がある。どっちが先に勧誘したにせよ相手側に応じるメリットは薄い。もっと他に強い動機……利益のようなものが必要だ」
「逆に言えば“強い動機”さえあれば二人が結託することはあり得ると?」
そういうことだ。
浅賀にしてみれば信彦さんと協力関係を築く意味はない。信彦さんに浅賀を利用する動機はあれど、浅賀の方にはそれがないのだ。
二人の関係を立証するには少なくとも“浅賀が信彦さんに協力する理由”が要る。
「それでも……信彦さんが事件に関与しているという説は捨てきれない」
今まで俺たちは彼を完全な部外者だと考えていた。その固定観念が覆った。
俺は殺人の後に隼雄さんが口にした疑問を思い出した。
“犯人に信彦さんを殺す理由はない”――。
しかし、そうでなかったとしたら?
信彦さんに隠された顔があったのだとしたら、彼が人には言えない秘密を抱えていたのだとしたら。
殺人者は最初から信彦さんを殺すつもりだったという可能性もあるのではないか。