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エンゼルプラン  作者: 夏多巽
第一章 三月二十六日
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問題は山積み

「母さんには本当に辟易するね……」


 慎さんがうんざりしたように吐き捨てた。


「なんであんなに失礼なこと、大勢の前で……」

「気にしない方がいいよ。こういうのも何だけど、いつものことだから……」


 章さんの微妙なフォローに、慎さんは乾いた笑いを返す。


 ここで話を蒸し返すのはあまりに空気を読めていないと言えようが、沙緒里さんの話の真偽を確かめる必要はある。


「……寧、礼司さんが皆と逢っていたのって本当のことか?」

「いえ、私は全然知らないわ。初耳よ」


 章さんと慎さんは互いに顔を見合わせ、悩んだ素振りを見せる。


「まあ、逢ったのは本当のことだけど……」

「うん、僕も一度逢ったよ。伯父さんが死ぬ一週間くらい前かな」

「沙緒里さんは“逢っていないように装っていた”みたいなこと言っていたが……」

「それは、そうだけど、うん。ただ何と言えばいいか個人的な相談でね、人に話すようなことじゃなかったし」

「僕も同じだよ。皆の前で、その……口にする内容じゃないことだから」


 沙緒里さんの暴露した事実に触れると、二人ともばつが悪そうに言いよどんだ。


「そうか……俺は逢えない立場だったから何か知っていることがあればと思ったんだが」

「済まないね、役に立てなくて」

「葬儀にも出られなかったもの、気になるのは仕方ないよ」


 俺の誤魔化しに二人はあっさり流された。俺だけ蚊帳の外であったことは都合がいい。多少の詮索なら怪しまれずに済む。


 他の皆の様子を観察すると、自分から切り出そうという人は他にいないようだ。こちらは後で個別に追及した方がいいな。


「何だ? 皆やけに暗い顔して」


 そこへ今までシアタールームにいた章さんの弟、慧がやっと姿を現した。沙緒里さんの熱演には気づいていなかったらしい。


「ううん、別に大したことじゃないわ」

「そうか?」


 寧の言葉を気に留めた様子もなく、慧はそのまま興味を失った。


 そんな慧をじろじろと眺めていた章さんが、意を決したように口を開いた。


「なあ慧……礼司叔父さんが死ぬ前にお前と逢ったって聞いたけどそれって本当なのか?」

「え――」


 章さんを振り向いたその顔は驚愕に見舞われていた。何故知っているとでも言いたげに。


「お前叔父さんとは親しくしていなかっただろう? 一体どんな用事で逢っていたんだ?」

「何だよ急に……何の話だよ」

「お前ここ最近元気なかったじゃないか。それって叔父さんが死んだことと関係あるのか?」


 矢継ぎ早に追及を重ねる章さんに狼狽えていた慧は突然爆発した。


「何なんだよ兄貴! 急に訳のわからないこと言い出しやがって。俺は叔父さんとろくに話もしたことないんだぜ。逢うわけないだろ」

「待て、慧――」


 暁さんは足早に部屋を出て行く弟を引き留めようとするが、そこに辰馬さんが口を挟んだ。


「章、あいつは放っておけ。何を考えていようが私たちの迷惑にならないなら構わん」

「でも……」

「お前も今は慧のことに構っている余裕なんかないぞ。まずは自分の問題を片付けろ」


 章さんは不服そうに口を尖らせたが、無言で顔を背けるだけだった。


「小夜子さん、章のこと是非御一考ください。父親の私が言うのも何ですが芯の強い奴です。必ずこの家の将来、引いては『同盟』の将来も担うでしょう。それを信じていただければ幸いです」


 やや口早に章さんのアピールをして辰馬さんは去っていった。まるで早くこの場から離れたいとでも言うように足の動きも速かった。


「どーも沙緒姉が言ったこと追及されたくないから逃げましたって感じだったねー」

「やっぱりそう思うか、隼雄さん」


 俺の背後にはいつの間にか隼雄さんが立っていた。傍には秋穂さんも付き添うようにいる。


「あれだけ露骨な態度見せたら誰だってそう考えるでしょ。んー、しかし沙緒姉の爆弾発言は意外だったなー。俺も初めて知ったもん」

「隼雄さんと秋穂さんが最後に礼司さんと逢ったのっていつなんだ?」

「えーとね……一月の終わり頃だったかな。だよね?」

「はい、一月の二十九日ですね。事務所を訪ねてこられました」

「そのとき特に変わったことはなかったんだな?」

「ええ、いつもと変わりない様子でした」


 礼司さんが死んだのが二月の半ばなので隼雄さんたちより後、できれば一番最後に逢った人を突き止めて話を訊きたい。礼司さんの様子も話の内容も。


「……ふふっ」

「?」


 そのとき、秋穂さんが無表情を崩して笑みを零した。


「そのように考える仕草は亡くなられたお父さんそっくりですね」

「……父さんに?」

「あの方も深く考え込むときに耳を撫でる癖がありました。今の由貴さんのように」


 秋穂さんに指摘されて、耳の裏側を縦に撫でる指の感触に気がついた。


「そう言えば考えるときはいつもこうしているな……父さんも同じ癖があったのか?」

「ええ、本当によく似ています」


 生前の両親をよく知る秋穂さんは懐かしそうに目を細めた。そんなことを言われると恥ずかしくなってしまう。


 このとき――視界の隅にいた小夜子さんが何故か俯いた。




 午後十時を回り、部屋へ帰った俺は早速今後の予定を組み始める。

 本格的に調査を開始するのは明日の式が終わってから。具体的にどう動くべきかが問題となるが……。


 一番手っ取り早いのが『俺が裏切り者の存在に気づいていることをほのめかす』という案だ。

 既にその正体を探っていることを匂わせれば、必ず俺を消しにやって来るに違いない。時間をかけずに済むという点では最良である。


 ただ、これは俺一人でやるにはリスクが大きすぎる。敵が一人でやって来るとは限らない上、他の皆に疑心暗鬼を植えつけることになりかねない。


 俺の思考は扉をノックする音で中断された。


 誰が来たのかと開けてみると、そこに立っていたのは意外にも信彦さんだった。


「ごめんね、ちょっと折り入って話があって……」

「……わかりました、どうぞ」


 信彦さんは申し訳なさそうに頭を掻いて部屋へ入る。その際に廊下に人がいないか確認していた。


「突然お邪魔して本当にごめん。ちょっと他の人には知られたくない話でね」

「沙緒里さんにもですか?」

「うん、沙緒里はもう部屋で休んでるよ。さっき寝たところ」


 沙緒里さんと信彦さんは同室だ。慎さんと彩乃は二人とは別々に部屋をとっている。


「それで話というのは?」

「……彩乃のこと、なんだけど」


 これまた意外な話題が出てきたな。娘の相談ということは家庭内の問題かと思ったが、そうではないことは彼が次に口にした言葉でわかった。


「さっき沙緒里が礼司さんと逢ったって言ったろう? 僕もそうなんだけど、それが彩乃に関する相談でね」

「へえ……彩乃の?」


 俺は内心の喜びを隠して話を促した。相手から秘密を打ち明けてくれるのは手間が省けて助かる。それも俺に打ち明けるとは。


「君は礼司さんから信頼されていたみたいだし、彼が亡くなった以上君に話をしていた方がいいって思ってね」

「そういうことなら聞かせていただきます」

「ありがとう、助かるよ。由貴くんは『防衛自治派』のこと知ってるよね?」


 防衛自治派――その名を聞き嫌な予感がした。


 血統種の中で人間と共存する共存派、人間を下に置こうとする対立派が文字通り血で血を洗う争いをしているのは誰もが知っている。

 しかし、問題は何も血統種に限ったことではない。人間の中にも血統種と共存を目指す一派と、排斥を考える一派が存在している。


 防衛自治派は後者に当るグループだ。人間の世界は人間の手で守る、という理念の下で活動を続ける派閥である。主に人間でも魔物と戦えるように武器の充実化、さらに血統種の社会的影響力を抑制することを唱えていて、政界にもある程度手を伸ばしている。血統種の排斥を明確に掲げているわけではないが、組織の性質上共存派とぶつかりがちだ。


 ここで防衛自治派の名が出てきて、しかも礼司さんに相談したということは――。


「実は彩乃が防衛自治派のメンバーと付き合いがあるみたいで……」


 そらきた。




 その事実が発覚したのは去年の暮れらしい。


 その頃、彩乃に恋人ができたのではないかと疑惑が持ち上がった。彩乃が街中で男と一緒に歩いているのを同級生の女子生徒が目撃したらしく、その噂が信彦さんにまで伝わったのだ。

 彩乃にそれとなく訊いてみると、ただの友人だと言うだけで深く語ろうとしない。単に恥ずかしがっているだけだと思っていたが、噂は妙な方向へ拡大していった。


 彩乃が夜な夜な性質の悪い若者が集う怪しいクラブに出入りしているというのだ。そのクラブには例の男も頻繁に出入りしているらしい。これを心配した信彦さんは慎さんに、クラブに出入りする面々の調査を依頼した。結果、そのクラブが防衛自治派の若手勢力の拠点として使われていることがわかったのだ。


 沙緒里さんの反応には敢えて触れないでおこう。ひとまず警備部には内緒にして内輪だけの問題に留めようとして、礼司さんに助けを求めたらしい。


「礼司さんが何とかしてくれる予定だったんだけど、まさかこんなことになるとは……」


 相談した矢先にこれだから、頭を抱えたことだろう。居間で慎さんが言葉を濁したのはこれが理由か。確かにこんな話人前ではできない。ましてや彩乃本人が聞いている前では。


「ところで一つ確認したいことがあります。礼司さんに相談したとき、信彦さんは沙緒里さんや慎さんと一緒だったんですか?」

「慎くんと一緒だったよ。沙緒里はいなかった」


 沙緒里さんは同席していなかったのか……それなら何故、沙緒里さんは他の人が礼司さんと逢ったことも把握していたんだ?


「この件、他に知っている人はいないんですね?」

「ああ、いない。僕と沙緒里、礼司さんと慎くんだけだ」


 当然『同盟』も知らないということか。


「彩乃は自治派に何らかの情報を流しているとか、そんな疑いはないんですか?」

「それは全くないね。あの子に機密情報を知る術なんてないし」


 ということは、自治派と繋がっているのは単に家族の思想に反発しているだけなのか?

 俺の考えを読んだのか、信彦さんは自嘲したように言う。


「それに……彩乃がああいう人達と付き合うのは僕にも少なからず原因があるから」

「というと?」

「妻が――あの子の母親は血統種に殺されたんだ。対立派に属していた奴にね。あの子は決して口には出さないけれど血統種を嫌っている」


 信彦さんは手を揉んで、慎重に言葉を選ぶように一言ずつ絞り出した。


「妻が死んでから僕は仕事に没頭するようになった。あの子にろくに構うこともなくてね。そのツケを今になって払わされているんだよ」

「沙緒里さんと再婚が決まったとき、彩乃は何か言いましたか?」


 彼は首を振り「何にも」と答える。


「こっちのことなんて関心持っちゃいないという風で、感情一つ表に出さなかった。慎くんとは仲が悪いわけじゃないけど、明らかに壁を作っている。絶対に本心を見せようとしない」


 信彦さんは懇願するように俺の顔を見つめる。引き攣った彼の顔が、俺を僅かに動揺させた。


「あの子が自治派と繋がりを持つようになったのもそれが原因だと思う。自分の居場所はここには無いんだって、外に居場所を作ろうとしたんだ」

「……」

「だから――父親としてこんなこと頼むのは恥ずかしいけど、あの子を助けてやってほしいんだ」


 俺は頭を悩ませた。自治派の問題はともかく彩乃のメンタルケアまでとなると、流石に手に余る。この手の仕事は隼雄さんや秋穂さんの方が専門だ。


 だが、自治派と手を切らせるには彩乃を説得する必要があり、先に彼女が心に抱える問題をどうにかしなければならない。


 いずれにせよ礼司さんが引き受けた問題なら、寧が引き継いでやるしかない。その補佐になるであろう俺もまた。


「……わかりました、できる限りのことはやってみます」

「そう言ってくれて助かるよ」

「寧だけには話を通して構いませんか?

「判断は君に一任するよ」


 一任する、か。礼司さんと同じことを言ってくれる。

 対立派の問題とは関係ないと思うが、こちらも並行して解決に向け進めるしかあるまい。


 それにしても問題が次から次へと増えていくな。

 裏切り者の調査、礼司さんの不明な意図、そこから今度は自治派の問題。

 どこから手をつけたらいいのやら。




「じゃあお休み、また明日」


 信彦さんは幾分顔色がよくなった様子で帰っていった。

 彼の姿が見えなくなってから大きく息をつき、部屋へ戻ろうとしたときだった。


 隣の部屋の扉が開き、雫世衣が廊下へと出てきた。

 俺は雫を気にも留めず部屋へ戻ろうとしたが、驚いたことに彼女は俺に声をかけてきた。


「済まない。今時間は空いているか?」

「え?」


 初めて耳にする雫の声とその言葉に動きが止まってしまった。


「先程部屋を訪ねようとしたのだが中から話し声が聞こえてな。時間を置こうと思ったんだ」

「……俺に何か用があるのか?」

「ああ、ただ少し時間がかかるかもしれん。明日は早いのだろう? 駄目と言うなら諦めるが……」

「俺は構わないぞ、寝るまでにはまだ時間がある。俺の部屋でいいか?」


 雫は了承するように頷くと俺の後ろについて部屋へ入る。

 俺の部屋に身内以外の女性を上げるのは初めての経験だ。寧や五月さんとは異なる奇妙な感覚に戸惑いを覚える。そんな俺の心情と裏腹に雫に緊張した様子は見られない。


 改めて雫を観察してみて、やはり同年代の少女とは思えない雰囲気があるなと思う。凛々しい口調とすらりと伸びた背が力強い印象を与えてくる。最も目を引く特徴たる紅い瞳もぱっちりと開かれ、ずっと眺めていると吸い込まれそうだ。


「それで用というのは?」

「あ、ああ、実はあなたに訊きたいことがあるのだ。その――都竹蓮という人のことで」


 思わぬ名前が飛び出したことに、俺は驚愕を隠せなかった。

 何故、雫が蓮を知っているんだ?


「蓮、くんとは何と言えばいいのか……彼がこの街に引っ越す前のちょっとした知り合いでな、彼のお父さんが逮捕されるまで何度か顔を合わせたことがある、のだ」


 困った顔で微妙な言い回しを使う雫は挙動不審であったが、そんなことよりも彼女の素性が明かされたことの方が大事だ。雫は御影家の関連が全く不明であったがそれもそのはず、彼女は蓮と繋がりのある人物だったのだ。


 蓮の名を呼ぶ際にどこかたどたどしいのは、昔の名を知っているだけに違和感を覚えるからだろう。都竹蓮という名はこの街に来てから名乗りだしたからだ。


 それにしても“ちょっとした知り合い”とは何だろう。同い年であるのは隼雄さんから聞いているが、昔の同級生というわけではないのか? それならそう言えばいいのだから。


 二人の関係性には若干疑問が残るが、今は話を進めるのが先だ。


「それで訊きたいことというのは?」

「蓮くんがこちらへ越してきた後、どんな生活を送っていたのか知りたい。彼が亡くなるまでの間のことを――」

「蓮の生活?」


 雫はこくりと頷いた。


「あなたが彼の親友だと知ったから、あなたに訊くのが一番良いと考えた。どんなに些細なことでもよいのだ。誰と仲良くしていたとか、どんな話をしていたのかとか……」


 そんな取り留めのない話にどんな意味があるのか俺には見出せなかった。しかし、雫の表情は真剣そのものでとても断れる雰囲気ではない。尤も断る理由は無いのだが。


「そうだな……俺が蓮と初めて逢ったのは中学に入ってからだな。一年生のクラスが一緒だったんだ」


 それから俺は淡々と記憶の糸を手繰りだした。あの頃の記憶は今でも鮮明に焼きついている。


 互いに父親がいない共通点を見出したことをきっかけに、父親の思い出を語り合ったこと。蓮が過去を懐かしそうに語る一方で、その表情に陰が差していたのが儚げに見えた。その際に俺が礼司さんの養子であると明かし非常に驚かれた。父親を通じて紡がれた御影家との因縁をあのときはどう捉えたのか、それはわからない。


 紫との課外活動に蓮が加わり、三人で行動することが増えた。

 何時のことであったか蓮が父親の素性を告白した。黙っているのを後ろめたく感じたのが理由だと言っていた。しかし、だからといってそれが蓮を嫌う理由になるわけでもなく、俺たちの対応が変わることはなかった。特に紫は例の調子であっさり話を流してしまい、告白した当人が盛大に困惑していた。しかし紫は珍しく語気を強め、無意味な罪悪感に囚われるのは愚かだと諭したのだ。

 蓮が紫に実戦訓練を提案したのはその後のことだ。それから二人が一緒にいる時間が増えるようになった。思えば蓮が紫を異性として意識し始めたのはあの頃なのだろう。

 二人が交際を始めたのを知ったとき、「あの紫が恋愛に興味を持ったのか!」と礼司さんが激しく動揺して、寧と二人掛かりで静めたエピソードは今でも時折話題に上がる。


 あの事件を語るのは精神的に苦痛だったが、どうにか表には出さないように努めた。公式の見解となっている“事故”としての詳細を語るに留め「残念だ」と薄っぺらい感想を述べたが、雫はそれを疑うことなく受け止めたようだ。

 雫の反応に胸の奥で罪悪感が燻る。俺が奴を殺したと知ったらどんな顔を見せるのだろうか。


「そうか……短い間ながら充実した日々を送っていたのだな。それが知れただけでも良かった」

「そうだな、本当に――良い時間だった」


 ほんの少し前までの話なのにまるで何十年も昔を懐かしむように言うのはおかしく感じたが、俺にはそれだけの重みがあった。それは精々十六年しか生きていない故にその時間の比重が大きいからなのかはわからない。この家から離れて暮らしていたから遠い過去のように思えるだけかもしれない。ただ、その時間は俺の過去を形作る大きな一要素であるのは間違いのない事実だ。


「ありがとう、良い話が聞けた。感謝する」

「こんな話だけで良かったのか?」

「ああ、充分だ」


 俺は雫が穏やかに微笑むところを初めて目にした。クールな面立ちと相まって可愛らしいというより綺麗であった。


「ああ、それからもう一つ……蓮くんの母親は――あれからどうなったのだ?」

「……今は病院にいる。あまり芳しくないそうだ」


 あの事件の後、蓮の母親は体調を崩してそのまま入院することになった。何を患ったのか具体的には説明しなかったが、雫は察したらしい。そうか、とだけ呟いて顔を伏せた。


「こんな夜分に済まなかった。また明日逢おう」


 出て行こうとする雫の背中に俺は「待った」と声をかけた。


「何だ?」

「最後に一つだけ――礼司さんがどうして今度の就任式に君を招待したのか、その理由を知っているか?」

「……いや、知らないな」


 その言葉を最後に雫は部屋を出て行った。




 十一時を回った頃、俺はベッドに転がりながら雫の会話を思い返していた。


 雫は一体何の目的であんなことを知りたがったのだろう。

 素性こそ掴めたがその内心についてはわからない点が多い。結局、礼司さんが何故彼女を招待したのかも依然不明のままだ。


 ただ――最後に質問したときの雫の態度。招待された理由を知らないと言っていたが、本当は知っている。そう確信した。明確な根拠はないが、あの一瞬言葉に詰まったような沈黙はそれを示唆していると直感が教えてくれたのだ。


 ……本当に誰も彼も秘密を抱えるのが趣味らしい。それを探る側にとっては面倒なことこの上ない。


 信彦さんも雫も問題を増やすだけ増やして去ってしまった。

 秘密が暴かれる代わりに新たな秘密が現われ、解決すべき問題は増える。


 これを前進していると言えるのか甚だ疑問だ。

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